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【インタビュー】“もう一人の海外組”ウズベキスタンリーガー柴村直弥、サバイバルの中で得た強さ

2013.07.24

shibamura
●インタビュー 岩本義弘
●取材協力 Futbol&Cafe mf中林良輔(東邦出版編集長)

「海外組」と聞いて連想される国はどこか。ドイツやイタリア、イングランドを始めとするヨーロッパ諸国が本流だとすれば、最近ではアメリカや東南アジア諸国といった、日本のメディアではあまり取り上げられない国でプレーする選手も増えている。その中でもとりわけ稀有な存在といえるのが、ウズベキスタンでプレーする柴村直弥だ。
  
 かつてソビエト連邦の一部であった中央アジアの内陸国で、W杯予選で顔を合わせることはあっても、基本的には日本と無縁の国。柴村はいかにしてこの国に辿り着き、ここでプレーすることになったのか。シーズンを終えて帰国中の柴村に話を伺った。

 
──まずはじめに、柴村選手の経歴からおさらいさせてもらいます。高校時代は広島の名門・広島皆実高でプレー、そこから中央大を経て、2005年にアルビレックス新潟シンガポールでプロ選手としての船出を切りました。その後07年にアビスパ福岡へ加入。08年には徳島ヴォルティス、09年にはガイナーレ鳥取でプレーし、10年7月に藤枝MYFCに期限付き移籍で加入。同年12月に所属先の鳥取との契約を満了し、海外に活躍の場を移す決断を下したと。海外移籍しようと思ったきっかけは何ですか?

柴村 中学3年の時に、ACミランに短期留学したんです。その時、サンシーロでボールボーイを務める機会があって、ものすごく感動しました。その体験が衝撃的で、いつかは自分もこういう舞台でプレーしたいと思うようになりました。だから海外移籍というのはずっと思い続けていた夢だったんです。
  
──最初の移籍先はラトビアのFKヴェンツピルスでした。10-11シーズンには国内リーグを制している強豪ですが、オファーがあっての移籍だったのですか?
  
柴村 そうではなく、自分で売り込みました。まず、これまでの日本でのプレー映像を編集して、自分のプロモーションDVDを作ったんです。その道のプロの人に頼んでやってもらうこともできたのですが、自分でやらないと納得できないんじゃないかと思い、映像編集ソフトを買って、自分で映像を作りました。
 
──それまで映像編集の経験はあったのですか?
 
柴村 全く(笑)。DVD編集のできる友人に見てもらったりしながら、時間をかけて作りました。映像の時間は9分15秒です。このDVDを受け取る相手の立場になって考えたら、見ず知らずの日本人の映像がいきなり送られてきて、そもそも興味がないところから入るわけですから、飽きないくらいの時間にしなければいけないなと。

──どういう映像にしたのですか?
 
柴村 自分がどういう選手かというのを、いかにイメージしてもらえるか、というところを意識しました。そもそも興味がない状態で見られるとすると、ただなんとなくシュートだったり、ドリブルだったり、パスだったりのハイライトシーンで作ってしまうと、特徴のない選手という印象を持たれてしまうなと。ですからできるだけ自分の特徴を表した映像にするようにしました。具体的には、僕の強みはヘディングの強さと相手に激しくいけるところだと思っていますので、ボールを奪うシーンだったり、当たりにいくシーンを選びました。一見分かりづらい部分もあるのですが、例えばインターセプトをするにも、僕はそのボールがそのままFWにつながるように意識してやっています。また、スライディングもけっこう得意で、左右両足、アウト、インの4つの方向すべてできるので、そういうシーンを集めたという感じです。
 
──その映像を代理人に託したわけですね。
 
柴村 DVDのパッケージとかも作ったんですよ。白盤にマジックで「柴村直弥 プレー集」と書けばそれでいいかもしれませんが、やっぱりちゃんとしたDVDの形になっていた方が、相手も見ようという気が起きますよね。ただ、結局今は『Youtube』にアップする方が早いということになって、そのパッケージは使いませんでしたけど(笑)。

──代理人はどこの国の人だったんですか?
 
柴村 ラトビア人です。赤星貴文君(元浦和レッズ、現在はポーランドでプレー)がラトビアでプレーしていたことがあって、もともと彼とつながりがあったことで知り合った方です。その代理人が映像を見て、僕に可能性があると判断してくれて、売り込んでくれました。その結果、11年の1月にFKヴェンツピルスのキャンプに練習参加することになったんです。ある日、実家のある広島で友達と夜ご飯を食べていたら、「明日ラトビア行ける?」という連絡があって(笑)。どういう国かもよく分からなかったのですが、「とりあえず行きます」と返事をして、次の日の午前中には確定申告を済ませて、夜にはパスポートを持って空港へ行きました。
 
──急な話ですね(笑)。しかもあまり馴染みのない国です。

柴村 明日原宿行ける? くらいの感じで言われたので焦りましたね(笑)。FKヴェンツピルスがその時リトアニアでキャンプをしていたので、関西国際空港から一人でイスタンブールへ飛んで、ラトビアのリガを経由して、リトアニアまで行きました。急だったのでトランジットがスムーズな便ではなくて、日本を発ってから35時間くらいかかりました。着いて翌日トレーニングで、その次の日には練習試合に出場しました。

──どのポジションで出場したのですか?
 
柴村 左サイドバックです。その日の試合ではサブ組でプレーして、うまくできました。そしたら監督が、「今度はレギュラー組に入ってどれくらいできるか見たいから、次の週末の練習試合までいてくれ」と。というわけで、その後1週間帯同して、その練習試合にレギュラー組として出場しました。
 
──手応えはありましたか?
 
柴村 その試合でキャンプは終了だったんですね。だからチームのみんなは、ホテルをチェックアウトして、バスでラトビアに帰ると。だけど僕に対して、監督は何も言ってこないんです。練習試合の出来がどう評価されているのか分からないし、このまま帯同していいのかも分からない。でもこのリトアニアのホテルから、どうやっても一人で日本まで帰れないだろうなと思い、とりあえずバスに乗ってしまえと(笑)。
 
──すごいですね(笑)。不安はなかったんですか? バスに乗ったらラトビアまで行ってしまいますよね。
 
柴村 その時の僕にはバスに乗るしか手段はありませんでしたね。チームの選手たちは、僕の境遇とか、どういう状況かというのを知らないので、しれっと乗り込んだら、「おお、ここ座れよ」くらいの感じでした(笑)。それからバスに7時間くらい揺られて、ヴェンツピルスの街に帰ったんです。で、着いたら着いたでやっぱりどうしていいか分からないわけです。みんなは家に帰っていくわけですけど、僕はどうしようかなと。しかも外はマイナス30度の世界です。困ったように佇んでいたら、それに気付いたチームメイトの一人が、マネージャーの車に乗れと言ってくれて、その車でモーテルまで連れて行ってくれました。マネージャーは、「明日は12時にプールな」とか言ってきたんですが、「いや、プールってどこだ?」、「そうだな。じゃあ迎えにくる」みたいな感じで、次の日の予定が決まりました(笑)。そのホテルでようやくネットがつながって、代理人と連絡を取ることができました。代理人曰く、「君のプレーが良かったと言っている。1週間後にトルコでキャンプがあって、そこでいろんなチームと試合をするから、そこで見たいと言っている。どうしますか?」と。もちろんそのままいます、というわけでチームに帯同することになりました。
 
──すごい話ですね(笑)。柴村さんはすごく慎重なタイプに見えるのに、そこは流れに身を任せたんですね。
 
柴村 そうですね。帰れと言われたら終わりの世界で、いつその言葉を言われるか分からない状態でした。左サイドバックのレギュラー組で出場していた選手が、ラトビアに帰った時にいなかったんですね。「なんでいないんだ?」ってチームメイトに聞いたら、「お前が来たからもう帰ったんじゃないのか?」と。その選手も契約はしておらず、練習参加という立場だったようです。でも、明日は我が身です。自分も契約していないわけですから。
 
──やはりというか、非常にドライでシビアな世界ですね。
 
柴村 トルコでのキャンプ期間中も、たくさんの選手が入れ替わり立ち代りやってきました。30人〜35人くらいですね。向こうでは自己紹介も特になく、なんとなく混ざっていて、なんとなくいなくなっていると。後から気付いたのですが、良くない選手の判断は早いんですね。1日、2日でもういいよとなる。でも良いと思った選手は、もう少し見たいということで、とりあえず残しているわけです。僕も結局1カ月半、練習生の状態でやりました。
 
──そうした中で、見事関門を突破して生き残ったと。契約まで辿り着いた要因は何だと思いますか?
 
柴村 一番は、やっぱり激しくいけるところかなと。球際やフィジカルといったところは、日本にいる時から自信を持っていた部分で、それが通用したということなのかもしれません。練習から本当にガツガツいっていて、ある時チームメイトに、「お前は相手チームの選手からクレイジーボーイって言われてるぞ」と言われたくらいです(笑)。もちろん、悪意があって削っているつもりはないんですが、日々のサバイバルという緊張感の中で、鬼気迫るものがあったんだと思います。
 
──1カ月半も練習生の状態でいると、これはもうダメなんじゃないのかって不安に思ったりしなかったんですか?
 
柴村 長かったですが、チームの一員みたいになっていましたし、逆にこれはいけるんじゃないかなっていうのはありましたね。もちろん、最後にダメだった選手もいましたけれど。最終的に契約したのは、僕と、監督が連れてきたロシア人の2人だけでした。
 
──迎えた新シーズンで、見事リーグ優勝を果たしました。チャンピオンズリーグの出場権も得て、それはご自身の夢でもあったわけですが、次のシーズンには一転してアジアのウズベキスタンに移籍しました。それはなぜだったのでしょう?
 
柴村 「なんで移籍するのか?」と日本の友人の選手たちにも言われましたね。ラトビアリーグとカップ戦で国内2冠も経験して、このまま残っていれば、恐らくチャンピオンズリーグの試合にも出ることできるだろうとも思いました。ですが、このシーズンにヨーロッパリーグに出場して、3回戦でセルビアのレッドスターに負けたのですが、ものすごく悔しかったんですね。日本にいる時って、チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグに出場したい、という思いだけが先行していたのですが、実際に出て負けると、やっぱり悔しいんです。出場しただけで満足できる大会なんて、そもそもアスリートにはないなと。僕はチャンピオンズリーグで勝ち上がって、どんどん上にいくっていう夢を持っているわけですが、今の自分の力では、まだまだ全然無理だなと、強く思ったわけです。もっと自分がプレーヤーとして成長しなければならないし、もっと自分を高められる場所に行かなければならないと。出場するだけで終わるのではなくて、もっと上を目指しているのなら、違う場所を求めなければならないと。それはラトビアのレベルがどうとかではなくて、一からポジション争いをして、しのぎを削るような環境に身を置かなければ、自分の成長はないと思ったんです。それで、ウズベキスタンに行くことにしました。
 
──なるほど。移籍先はウズベキスタンでも強豪のパフタコールでした。なぜウズベキスタンだったのでしょう?
 
柴村 ラトビアで優勝したこともあって、いくつかオファーをもらっていたのですが、その中でたまたまタイミング良く話があった、という理由です。代理人からトルコのアンタルヤでのキャンプに合流してくれと言われて、前回のように「明日来い」というものではなかったので良かったですが、すぐに向かいました。
 
──ここまでのお話を聞いて、ある一部分に過ぎないのかもしれませんが、とても刺激的で、かつそうした環境の中で柴村選手自身もすごく強くなっていっているように感じます。
 
柴村 いろんなことに動じなくなりましたね。海外では、自分にとって予測不可能なことがまま起きます。予測ができないから、それがストレスになり、パニックにもなると思うんですが、予測ができてくるようになると、ストレスも減るし、パニックにもならなくなります。海外での生活、プレーをしていく中で、いろんなことを受け入れて、いろんなことに適応していく能力というものがついたと思います。ウズベキスタン人って、割とルーズで、約束はあってないようなものだし、時間も守らないし、っていう国民性なんですが、僕が「それは違うよ」と言ってしまうのは、単なる価値観の押し付けであって、あっちでは僕が外国人なわけですから、イヤなら日本に帰れという話ですよね。だから彼らをまず尊重して、受け入れることが第一歩。その上でどう対応していくか。不真面目な人もいれば、真面目な人もいます。人として、その人をちゃんとリスペクトして、受け入れられるかというのが重要だと思いますね。それができると、サッカーだけじゃなくて、日常的にもストレスがかからないのかなと。そういうことを感じるようになりました。
 
──それはサッカーに限らず、という部分かもしれませんね。これからの活躍も期待しています。今日はありがとうございました!

柴村直弥 Naoya SHIBAMURA
1982年9月11日生まれ、広島県出身。広島皆実高、中央大を経て2005年にアルビレックス新潟シンガポールに加入。福岡、徳島、鳥取、藤枝と渡り歩き、10年にラトビアのFKヴェンツピルスへ移籍。国内2冠を達成した後、12年にウズベキスタンのパフタコールへ加入、同年7月に現所属先のFKブハラに移籍した。高校時代の県選抜の同期に森崎和幸・浩司兄弟、駒野友一ら、中央大時代の2学年先輩に中村憲剛らがいる。
twitter:@shibamuranaoya
blog:http://blog.goo.ne.jp/shei90

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