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“小皇帝”ことバラックがファンの質問に本音で答える

2013.05.07

現役時代はバイエルンをはじめ、チェルシーやレヴァークーゼンでプレーした。

[ワールドサッカーキング0516号掲載]
バラック
インタビュー・文=サム・ピルジャー Interview and text by Sam PILGER
写真=リチャード・キャノン、ゲッティ イメージズ Photo by Richard CANNON, Getty Images

 引退の決断は誰にとっても難しい。とりわけミヒャエル・バラックのように、世界最高のプレーヤーだった人間にとっては。だが、ピッチを去っておよそ1年が経った今、彼はすっかり今の自分に満足しているようだ。「自分のスケジュールで動ける生活を楽しんでるよ」と彼は笑う。

 インタビューの場所は、彼がかつてプレーしたスタンフォード・ブリッジに程近いホテル。久しぶりのロンドン滞在をバラックは喜んでいたが、この街の物価の高さにはいまだに納得していない。「誰だってお金は大事だろ? いくら稼いでいるかは問題じゃないよ」と彼は言う。

 もっとも、このリッチな元フットボーラーは、ドイツからエコノミークラスのチケットで飛行機に乗り、我々の取材経費を大幅に浮かせてくれた。自分のマイルを使ってビジネスクラスにアップグレードしたのだ。

 バラックは明らかに効率良く、賢い人間だが、それは特に驚くべきことでもない。長い現役時代を通じて、彼は誰よりもクレバーなMFであることを証明してきたのだから。その輝かしいキャリアのスタート地点は、1980年代の初め頃だった。そう、共産主義の東ドイツだ。

フェラーに聞いたらオーケーしてくれた

――君はポーランドとの国境近くの東ドイツで育った。そこでの生活はどのようなものだったの? 子供の頃にスピードスケートの選手だったというのは事実かな? マイケル・ミークス(Twitter)

バラック 東ドイツの生活は快適だったよ。僕はしっかりと教育を受けたし、勉強とフットボールをバランス良く両立できた。12歳の時にスポーツスクールに入ったんだ。スケートの話は事実じゃないね。5歳くらいの時に色々な適性調査を受けて、僕にぴったりのスポーツはスケートだと言われたんだ。でも、実は一度もやったことがないんだよ。

――君は共産主義的な練習でフットボールを学んだと聞いたよ。毎朝6時からドリルのように反復練習したから、両足を自由に使えるようになったって。本当の話? サム・ハンター(テーム)

バラック 僕にとっては普通のことだよ。朝6時50分に学校がスタートして、それから授業が3時間。2時間練習して、また授業があって、また練習するんだ。共産主義の影響? 考えすぎだよ。第一、僕はまだ子供だったんだから。

――16歳の時、あなたはドクターからプロのフットボーラーにはなれないと言われたそうですね。その時のことを詳しく聞かせてください。 エンジェル・ガイエル(Twitter)

バラック 本当につらかった。フットボールは僕のすべてだったからね。突然、ヒザに問題が発生したんだ。手術を受けることになって、目が覚めた時にドクターがこう言った。「手術はうまくいった。だが、残念ながらフットボールはもう終わりだ。このヒザでもできる、何か他のことを探しなさい」ってね。涙がこぼれたよ。でも、いい指導者がいてくれて、じっくり僕につき合ってくれた。少しずつ体が強くなり、ヒザの問題もなくなったんだ。あのドクターとはそれ以来会ったことはないけど、彼は僕をずっと応援してくれていたんじゃないかな。

――君はキャリア最初のクラブ、ケムニッツァーでは「クライネ・カイザー」(小さな皇帝)と呼ばれたそうだけど、君は体が大きいし、「カイザー」と呼ばれたフランツ・ベッケンバウアーのようなプレーヤーでもない。なぜそんなニックネームになったの? マイク・バスキン(キングストン)

バラック ベッケンバウアーみたいに頭を上げて走っていたからだと思う。だけど、本物の「カイザー」は特別な存在だった。あれほど偉大なプレーヤーと比較されるのは簡単なことじゃなかったね。

――君が常に13番をつけていた理由は? チェルシーに加入した時は、13番を君に譲ったウィリアム・ギャラスが怒ったらしいね? R・フェラール(ストーク)

バラック  99年にレヴァークーゼンに移籍した時、空いている番号は13番と15番だけだった。レヴァークーゼンで最後に13番をつけたのはルディー・フェラーで、僕のアイドルだった。だけど、フェラーの後は欠番扱いになっていてね。だからフェラーに13番をつけていいか聞いたら、オーケーしてくれた。その時以来、僕はいつも13番をつけるようになったんだ。ギャラスが怒ったかどうかは分からないよ(笑)。彼はその年にアーセナルに移籍してしまったし、仮に彼がチェルシーに残っていたら、僕は違う番号を選んだだろうしね。

W杯の決勝でプレーしたかった

――2002年、あなたがプレーしていたレヴァークーゼンは3つのタイトルを最後に逃して、「ネヴァークーゼン」と呼ばれたよね。その年はワールドカップ(W杯)でも準優勝だった。一番ショックだったのはどれかな? ヘザー・ウィルクス(Twitter)

バラック その4週間のことは一生忘れないだろう。レヴァークーゼンは素晴らしいシーズンを送っていたのに、あと1勝というところですべての試合に負けた。そして僕はW杯のタイトルも決勝で逃した。一番ショックだったのは……選べないな。どれも同じくらいショックだったからね。本当に落ち込んだよ。

――02年のW杯で、君は準決勝でイエローカードを受け、決勝を欠場することになった。あの試合で頭をよぎっていたことは? 泣きたかった? ケヴィン・キーオ(Facebook)

バラック  自分が決勝に出られないことは分かっていた。でも、イエローカードをもらった時、試合は0-0で、時間は20分も残っていた。僕は自分の仕事をやる必要があったんだ。僕にとって、W杯はあと20分しかない。そう思ったから、全力を振り絞ったよ。だから決勝ゴールを決めることができたのかもしれない。もちろん、個人的には失望したよ。泣くことはなかったけど、決勝でプレーしてみたかった。もし、もう一度同じ場面でプレーできたら? 僕はやっぱり、迷わずタックルをするだろうな。

――君は02年、レアル・マドリーのオファーを断ってバイエルンに移籍したと噂されていた。これは事実なのかな? シド・ホール(ヨーク)

バラック 事実だ。僕は何度かマドリーからのオファーを受け取った。一番熱心だったのが06年のドイツW杯の前かな。でも、僕は自分の国で開かれるW杯で絶対にプレーしたかったから、それまでは国外に出るつもりはなかった。だからバイエルンを選んだんだ。

――バイエルンでは多くのトロフィーを手に入れたのに、当時のベッケンバウアー会長は、「移籍したくて力をセーブしている」と批判した。だからバイエルンが嫌になってチェルシーに来たんだろう? ダン・アッシュダウン(Facebook)

バラック ハハハ(笑)。それはバイエルンの最後の年のことだね。バイエルンは自分たちが求める選手を思いどおりに獲得できるクラブだし、ステップアップのために退団するような選手はほとんどいない。僕はクラブに退団を申し出ていたから、彼らにとっては受け入れ難いことだったんだろう。でも、僕は最後の日までベストを尽くしたよ。力をセーブしていたら、ブンデスリーガとDFBカップの2冠は達成できなかった。

――君がプレーした試合の中で目撃した最高のゴールは? ウィル・カレー(Eメール)

バラック 02年のチャンピオンズリーグ(以下CL)決勝で見たジネディーヌ・ジダンのゴール。彼のところにどういうボールが届いたか、その時、彼がどう立っていたかを思い出してほしい。あんな体勢から強いシュートを打つなんて、普通は不可能だよ。

――06年にバイエルンを離れる時、マンチェスター・ユナイテッドではなくチェルシーを選んだのはなぜですか? ジョン・モリス(Facebook)

バラック 確かにユナイテッドからも誘ってもらった。実はチェルシーより先にオファーをもらったんだ。でも、当時のユナイテッドはCLであまり成績が良くなかったし、当時のチェルシーは急激に成長していたから、その一員になりたかった。もっと大きなことを成し遂げられるかもしれないと思ってね。

あのレフェリーの話はやめてくれ

――あなたのように高額の年俸をもらっていても、ロンドンの家賃は高すぎると思った? ローラ・ジョンストン(バース)

バラック もちろん。ロンドンの家賃は本当に高い。僕はドイツの物価に慣れていたから、頭を切り替えなければいけなかった。自分のお金をどう使うかというのは、すごく大事なことだと思う。

――あなたの結婚式で、大好きなエルトン・ジョンが歌っているのを見ました。あなたも彼のファンなんですか? 一番好きな曲は? K・フォング(マンチェスター)

バラック 彼の曲は全部大好きだよ! 1曲なんて選べない。本当に素晴らしいアーティストだよね。どうやって結婚式に呼んだかって? うまくアプローチしたのさ(笑) 彼はたくさん歌ってくれた。1時間の予定だったのに、1時間半も歌ってくれたんだ。

――09年にドイツ代表がウェールズ代表と対戦した試合で、ルーカス・ポドルスキが君の顔をひっぱたいた理由を知りたい。ひょっとして、彼はちょっとイカレてる? アンドレ・M(Twitter)

バラック 彼に聞いてくれよ(苦笑)。僕らはピッチで話し合っていただけなんだ。別に激しい言い争いでもなかったんだけどね。ピッチ上であんな行為を見せてしまったのは、彼にとっても、ドイツ代表にとっても好ましくないことだったと思う。

――君は02年と同様、08年にも4つの大会で準優勝になっている。リーグカップ、プレミアリーグ、CL、ユーロ2008。02年の時より、この時のほうが傷ついた? イアン・サミュエルズ(リンカーン)

バラック どっちもすごく傷ついたよ! 02年の時は「こんなにひどい結果は一度きりだ。この経験を生かしてもっといい選手になるんだ」と自分に言い聞かせたのに、まさか再び起こるなんてね。でも、それも僕のキャリアの一部だ。たとえトロフィーを獲得できなかったとしても、素晴らしい時期を過ごせたことに変わりはないよ。

――僕はチェルシーファンなんだけど、08-09シーズンのCL準決勝のバルセロナ戦で、レフェリーのトム・ヘニンク・エヴレベが君にPKを与えなかった時は怒り狂ったよ。君もそう思うだろう? ライアン・ハンリー(スタインズ)

バラック (笑いながら)あのレフェリーの話はやめてくれ! 思い出したくもないよ! PKが見逃されたのはあの1回だけじゃなかった。あの試合では3回PKをもらってもおかしくなかった。僕らは強かったし、自信もあった。CLで優勝できると確信していたんだ。覚えてるかい? あの試合でバルセロナが最初のシュートを打ったのは94分のことだ。だけど、それがゴールになった。納得できなかったよ。僕の行動(主審を追い回した)を見れば分かると思うけど(笑)。フットボールでは主審がミスする可能性もある。それは理解しているんだけど、簡単に受け入れられることではないよね。

あと2週間あったら優勝していた

――チェルシー時代、オーナーのロマン・アブラモヴィッチと話をしたことは? ロン・グレアム(ノーサンプトン)

バラック もちろん話したよ。彼は僕らみんなと話をするんだ。いつもチームと一緒に行動していて、練習も見に来たし、試合後にロッカールームに来ることもあった。負けた後は特によく来たね。それくらい、ロマンはチームを気にかけていたんだ。

――ジョゼ・モウリーニョ監督が指揮した頃のチェルシーと、カルロ・アンチェロッティ監督が率いたチェルシーが対戦したら、どちらが勝つ? ハンク・ギレン(ロンドン)

バラック  難しい質問だね。ジョゼの下では、僕らは本当に強力なチームだった。精神的にもフィジカル的にもね。僕らは完璧に準備していたから、どんな試合でもコントロールできた。カルロは全く別のタイプの監督だ。彼は選手全員に自信を植えつける。あと、カルロのほうが攻撃的なフットボールをするね。ただ、申し訳ないけど、僕にはどっちが強いかは分からない。僕に言えるのは、どっちも最高のチームだったってことだけさ。

――07-08シーズンにアヴラム・グラントが指揮を執っていた頃、君のようなべテランたちがどのくらい戦術に影響を与えていたのかを知りたい。カーリングカップ決勝で延長戦に入る前、グラントではなくジョン・テリーがチームに話をしていたよね? クライヴ・バッティ(キャンバーウェル)

バラック グラントの下では、選手たちはある程度の自由を許されていた。だけど、それで彼のやり方がダメだってことにはならないよね。グラントはモウリーニョじゃない。彼は静かな人で、ジョゼのように選手を自分に従わせるより、話し合うほうを好んだ。それは、ワールドクラスのプレーヤーが集まったチームを機能させるためにはいい方法だったよ。僕らはグラントの下でCL決勝に進出したし、シーズンがもう2週間長かったら、プレミアリーグでも優勝していたと思う。

――君が最高のプレーを見せたのはどのシーズン? ジョン・チョイ(Eメール)

バラック レヴァークーゼン時代の01-02シーズンだね。僕はFWみたいに次々とゴールを決めていたよ。

――2010年のFAカップ決勝で、ケヴィン・プリンス・ボアテングに受けたタックルは、キャリアにどれくらいの影響を及ぼしたと思う? ルイス・ジョーンズ(サレー)

バラック とても巨大な、ネガティブな影響があった。あの時から、僕のキャリアは思いどおりにならなくなった。僕はドイツ代表を外れ、二度と戻るチャンスはなかった。僕は自分がまだ優れていると証明したかったし、できると思っていたんだけどね……。

バラック氏のインタビューの続きは、今号からリニューアルしたワールドサッカーキング0516号でチェック!

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