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ロマーリオ、ディ・カーニオ、アドリアーノetc…世界のトラブルメーカー列伝

2013.04.10

[ワールドサッカーキング0418号掲載]
ロマーリオ
文=マット・バーカー&シモーネ・ステンティ Text by Matt BARKER & Simone STENTI
写真=ゲッティ イメージズ Photo by Getty Images

数々の問題行動で注目を集めるマリオ・バロテッリは、フットボール界では伝統ある存在、
すなわち、「才能に満ち溢れたトラブルメーカー」の最新バージョンだ。ピッチ内外の話題でフットボール史を彩った、愛すべき問題人物たちを紹介しよう。

ロマーリオ
○1966年1月29日生まれ ○元ブラジル代表
 ロマーリオはパーティーが好きなノリの軽い男で、ゴールを決めるのと同じくらい、おしゃべりも上手だった。「俺はスペイン語と英語、イタリア語、ポルトガル語、オランダ語を話せる。そして女言葉も話せるんだ」。女言葉が話せたかどうかはさておき、PSV時代のチームメートによれば、次の2つのフレーズは確実にオランダ語で話せたという。「俺は疲れちゃったよ、監督」、「ロマーリオだ。俺と×××しないか?」

 こうした態度に憤慨したチームメートが、ロマーリオに自制を求めたこともある。だが、後にワールドカップを制した「王様」は、朝まで遊び歩いた翌日でさえ自信満々な態度でこう言った。「5対5のミニゲームをやろう。俺のチームがもし負けたら、夜遊びはやめて時間どおりに練習に来てやる」。もちろん、チームメートは恥をかくことになる前に提案を却下した。

 オランダからスペイン、カタール、オーストラリア……。新たなクラブへ行くたびに、ロマーリオのゴール数と、一夜をともにした女性の数はどんどん増えていった。通算ゴール数は1000を超えた。女性の数は……まあいいとしよう。「俺はアスリートじゃない。ただのセンターフォワードだ」と彼は言った。「アスリートはしっかり練習して、よく食べ、よく寝るヤツのことだ。俺はそんなクソみたいなことはしない。俺がアスリートだったら? もっと良い選手だったかもしれないが、今ほど幸せかどうかは疑わしいね」

パオロ・ディ・カーニオ
○1968年7月9日生まれ ○元イタリア代表
 幼い頃、X脚を治すために矯正用の靴を履いていた太りすぎの少年は、成長すると魔法の技と狂気の怒りで人々を興奮させる真のエンターテイナーになった。ピッチ上では恐ろしいほどの才能を発揮したが、ユヴェントスではジョヴァンニ・トラパットーニと、ミランではファビオ・カペッロと対立し、どちらのクラブも追い出された。シェフィールド・ウェンズデーを追放されたのは、主審のポール・アルコックを突き飛ばして11試合の出場停止処分を受けたからだった。だがそのおかげで、ハリー・レドナップはイタリアの天才をウェストハムに呼ぶことができた。

 2000年2月、ウェストハムがブラッドフォードと対戦した時は、PKをもらえそうな場面を3度無視されたため、ディ・カーニオはピッチに座り込んで交代を要求した。その後PKが与えられると、自分が蹴ると強硬に主張してチームメートのフランク・ランパードと殴り合う寸前までいった。

 だが1カ月後、彼はウィンブルドン戦で見事な空中ボレーを決め、奇行の数々(ドリンクボックスをチームメートのシャカ・ヒスロップに投げつけたりした)は帳消しになった。人々は彼の奇抜な言動も、美しいゴールも愛した。

 それでも、最後までトラパットーニを味方につけることだけはできなかった。彼はイタリア代表監督時代にこう言っている。「ディ・カーニオをイタリア代表に? 疫病が発生してイタリア人が全員倒れたら、あるかもしれんな」

フリスト・ストイチコフ
○1966年2月8日生まれ ○元ブルガリア代表
 ヨハン・クライフはブルガリア出身の荒くれ者をバルセロナに迎え入れた時、その理由をこう語った。「我々には優等生が多すぎる。強い個性を持った者が必要なんだ」

 その「強い個性」はすぐに発揮された。ラージョ・バジェカーノ戦ではキックオフからわずか6分で2枚のイエローカードを受けて退場。自身初めてのクラシコとなったスーペルコパでは、この怒れる男は主審のウリサール・アスピタルテの足を踏みつけて退場になった。

 ストイチコフが涙ぐみながら無実を主張したため、チームメートは彼を擁護し始めたが、それもテレビが問題のシーンのリプレー映像を流し、全く無実でないことが判明するまでのことだった。ストイチコフは6カ月の出場停止処分を受け、シーズン後半戦を丸ごと棒に振るところだった(後に2カ月に軽減された)。

 踏みつけられたアスピタルテは後に、ストイチコフについてコメントを求められてこう言った。「ピッチ外では天使、ピッチ上では悪魔だ」

ポール・マーソン
○1968年3月20日生まれ ○元イングランド代表
 イングランド代表とアーセナルで活躍したマーソンは、94年にアルコール依存症とコカイン中毒であることを告白。キャリアを通じて酒とドラッグ、そしてギャンブルへの中毒に苦しんできた。だから、ポーツマスに所属していた03年1月、彼が「スポーツ・チャンス・クリニック」(トニー・アダムスが設立したリハビリ施設)に通うために1週間の休みを求めた時も、当時のハリー・レドナップ監督は驚かなかった。

 ところが休暇が許されると、マーソンと彼の妻、そして双子の子供は、そろってカリブ海の島国バルバドスへと飛び、レドナップいわく「見たことがないほどこんがり日焼けして」チームに戻ってきた。実は、偶然にもレドナップの友人がバルバドスで彼と遭遇し、マーソンのプロにあるまじき行動を監督に報告していたのだった。

 ただし、チームに復帰したマーソンはシーズン後半戦、好調を維持してポーツマスの1部昇格に大きく貢献した。1週間の休暇は彼の信用を落としたが、結果的には良かったのかもしれない。

エジムンド
○1971年4月2日生まれ ○元ブラジル代表
 この信じられない写真(猿にビールを飲ませている!)に写っている“野獣”のメンタリティーを説明しようと思ったら、1冊の本が書けてしまうだろう。その本は恐らく、95年、エクアドルのホテルでの3日間にわたるにらみ合いの場面から始まる。エジムンドはコパ・リベルタドーレスの試合後のインタビューでテレビカメラを壊し、警察から逃れるために自分の部屋に閉じこもった。しかし(当然だが)警察からは逃げ切れず、後で多額の罰金を科せられた。

 エジムンドがプレーするたびに、雨が降るようにレッドカードが提示された。主審を殴って120日間の出場停止となったこともある。

 その態度はヨーロッパでも全く変わらなかった。97-98シーズン、彼が所属するフィオレンティーナはセリエAで優勝争いを演じていた。にもかかわらず、エジムンドはシーズン後半の重要な時期にクラブを抜け出し、リオのカーニバルに参加。イパネマビーチで行われた有名人のフットバレー大会でプレーしていた。

 計5度所属したヴァスコ・ダ・ガマのレジェンドでもあるエジムンドは、ベテランになってからはクラブの若手選手を指導する役目も任されていた。「もし若いヤツらが俺の言うことを聞いて行動するなら、尊敬される偉大な選手になるだろう」と、エジムンドは03年に述べている。「ただし、ヤツらが俺のように行動するなら、そうはならないだろうけどな」

アントニオ・カッサーノ
○1982年7月12日生まれ ○イタリア代表
 ずんぐりした大人の体と、陽気な少年の心を持ち、監督やクラブの会長と言い争い、時に哲学者の言葉を操る。複雑極まりない天才プレーヤーに「ピーターパン」というニックネームが与えられたのは全く驚くべきことではない。

 カッサーノはセリエAで気の向くままに見事な個人技を披露したり、チームメートとやり合ったり、服を脱いだりしている。ユニフォームに対しては何の執着心も持っていないらしく、重要な試合に勝って喜ぶ時も、主審の判定に納得できず抗議する時もしばしばパンツ一枚になる。

 ローマ、レアル・マドリー、サンプドリア、ミラン。どのチームでも彼は英雄のように歓迎され、厄介者としてチームを去った。不調が続き、体重も増え続けたR・マドリー時代は、かつて父親のように慕っていたファビオ・カペッロ監督に向かってこう言った。「お前はモノポリーの金と同じくらいニセモノだ。クソ野郎!」

 R・マドリーでは体重が増えるごとにチームから罰金を科されていたが、ダイエットするより他のことに忙しかった。彼の自叙伝『ディコ・トゥット』の中で、彼は600人から700人の女性と関係を持ったと明かしている。「俺はあるウェイターと友達になった。ヤツの仕事は、俺がセックスした後にクロワッサンを持ってくることだった。物々交換ってわけさ。ヤツは女を連れて行き、俺はクロワッサンを受け取る。女と寝て、それからクロワッサン。完璧な夜だな」

ジョルジョ・キナーリア
○1947年1月24日 ○元イタリア代表
 俺を指導できるヤツはいない」。がっちりとした長身のイタリア人ストライカーはかつてこう宣言した。「俺は馬鹿な監督たちよりずっと多くのことを知っているからだ」

 イタリア移民としてカーディフで育った彼は、ウェールズ風のアクセントを散りばめながら誰にでも突っかかった。74年にラツィオでリーグ優勝を経験した後、70年代後半に所属したニューヨーク・コスモスではペレとコンビを組んだが、世界的英雄が相手でも彼の態度は変わらなかった。

 ペレはキナーリアに、なぜ角度がないところからシュートを打ち続けるのかと聞いた。すると、「俺はキナーリアだ!」と彼は怒鳴り、「俺がシュートを打つってことは、キナーリアがその場所からゴールできるってことだ」と続けた。賢明なペレはそれ以上議論するのをやめた。「俺はチームメートの半分から嫌われていた」。2012年に65歳で亡くなる前、彼は話している。「だが、残りは俺のゴールを愛してくれた」

ジョージ・ベスト
○1946年5月22日生まれ ○元北アイルランド代表
 もはや伝説的なレベルに達している彼のストーリーはあちこちで語られてきたが、ここでは飛び抜けた才能とアルコール依存症、派手な女性関係で知られた彼を象徴するエピソードを紹介しよう。68年にマンチェスター・Uのチームメート、ボビー・チャールトンを上回ってバロン・ドールを獲得した夜のことだ。

 彼はこう振り返る。「俺はその夜、友達と一緒に飲みに行った。そこで2羽のかわいい小鳥をつかまえて、彼女たちのアパートに向かった。俺はとんでもなく酔っていて、ベッドに座ろうとしたんだが、結局は床で寝てしまった。起きた時、自分が握っているものがバロン・ドールのトロフィーだってことに気づいたんだ」

ファウスティーノ・アスプリージャ
○1969年11月10日生まれ ○元コロンビア代表
 マンチェスター・Cのキース・カールに頭突きをお見舞いしたり、大好きなポルノ映画を鑑賞したり、サメを釣り上げるために海に出たりしながら、元コロンビア代表のストライカーはフットボールライフを楽しんできた。ただし、絶対に彼を控えにしてはならない。自分のイメージが下がることを、彼は決して許さない。

 05年、ウニベルシダ・デ・チリの練習にピストルを持って現れたアスプリージャは「お前ら、ちゃんと走らなければ撃つぞ」と宣言した。また、08年にはコロンビアに所有する農場の近くでマシンガンを乱射したために逮捕された。しかし、この乱暴なヒットマンは現役時代、ピッチでも恐ろしい攻撃力を発揮したため、多くの監督が彼を自分のチームに入れるという危険を犯した。

 誘惑に負けた一人はコロンビア代表監督だったエルナン・ダリオ・ゴメス。96年3月、ワールドカップ予選のボリビア戦で、アスプリージャは「馬を買いに行くため」と言って試合当日までチームに合流しなかった。代表監督はこの行動を「許すことはできない」と怒ったが、アスプリージャをスタメンで起用した。そして、彼が決めた2ゴールのおかげでコロンビアは勝利した。

 現役時代、嵐のような2シーズンを過ごしたニューカッスルは彼のお気に入りのクラブだ。「うまくいけば指導者として戻れるだろう」と彼は言う。ニューカッスルの選手たちは防弾チョッキを用意しておくべきかもしれない。

ロビン・フライデー
○1952年7月27日生まれ ○イングランド
 トップリーグでプレーしたことはないが、フライデーは70年代に実在した伝説の選手だ。酒癖が悪すぎてレディングのあらゆるパブを出入り禁止になったのに、必ず二日酔いで練習に現れた(どういうわけか一羽の白鳥を抱えて登場したこともあった)。乱闘、マリファナ、女遊び……。あらゆる悪行とトラブルを磁石のように吸い寄せ、果てには墓地から墓石を盗み出した。自分の選手に「墓地を荒らしてはならない」と命令した経験を持つ監督は、世界中を探してもレディングを率いていたチャーリー・ハリーだけだろう。

 道を誤り続けたフライデーは76年に2部のカーディフに放出され、その翌年にあっさりと現役を引退した。わずか25歳だった。

 あまりにも多くの伝説がある一方、彼のプレースタイルはよく知られていない。カーディフ時代のチームメートであるフィル・ドワイアーは「あいつはセンターフォワードとセンターバックを一人で両方やっていた」と振り返る。「彼はFWとしてゴールを決めたが、ゴール前にじっとしていられず、ボールを奪われたら最初にタックルに行かなければ気が済まなかった」

 刑務所に入ったり出たりを繰り返した後、フライデーは90年12月、ヘロインが誘発する心不全で亡くなった。ウェールズのロックバンド、「スーパー・ファーリー・アニマルズ」は、このカルトスターのために彼らのシングル『The Man don’tGive A F***』を捧げている。

フアニート
○1954年11月10日生まれ ○元スペイン代表
 フアニートは名選手だった。レアル・マドリーで背番号7を背負い、所属した77年からの10年間で8つのタイトルを獲得。チャンピオンズカップの準決勝も2度経験し、85年と86年にUEFAカップを連覇した。勝利に対する彼の飽くなき欲求はもはや病的なレベルで、苦境に陥ったR・マドリーを何度も救い、そしてヨーロッパの舞台から締め出されることになった。

 78年のチャンピオンズカップ1回戦、フアニートは主審のアドルフ・プロコップを殴り、国際大会で2年間の出場停止処分を受けた。87年の準決勝ではローター・マテウスの頭を踏みつけ、やはり5年間の出場停止処分を科せられた。それが彼にとって最後の国際舞台となった。

 引退して2年後の92年に自動車事故を起こし、フアニートは37歳で悲劇的に亡くなった。しかし、R・マドリーのウルトラスにとって、彼はいまだに伝説の7番だ。今でも、サンティアゴ・ベルナベウのホームゲームの7分には「美しきフアニート」というチャントが歌われている。

ケヴィン・マスカット
○1973年8月7日生まれ ○元オーストラリア代表
 イングランド生まれのマスカットは、まるでシュレッダーのようにすべてを粉砕する暴力装置だった。02-03シーズンにレンジャーズを率いていたアレックス・マクリーシュは、ただでさえヒートアップするセルティックとのダービーに臨む際、この危険すぎるMFをベンチに置いておくという賢明な判断を下した。

 マスカットはそのシーズン、10試合連続でスタメン出場していたが、セルティック戦では当時21歳のモーリス・ロスにポジションを譲った。2度目のダービーも、3度目もそうだった。マスカットは絶望して怒り狂ったが、4度目もやはり冷遇された。マスカットはレンジャーズで過ごした1シーズンで30試合以上に出場したのに、セルティックと戦うことだけ許されなかった。

 ところでチャールトンのマッティー・ホームズは、ウォルヴァーハンプトンに所属していたマスカットのタックルのせいでキャリアを終えることになった。セルティックの選手は、敵将のマクリーシュに感謝すべきだったのだろう。

マリオ・バスラー
○1968年12月18日生まれ ○元ドイツ代表
 一般的にドイツ人は真面目で冷静だと思われているが、そうではないドイツ人もいる。バスラーはピッチ上では優美なプレーで相手を混乱させ、ピッチ外では常に自分が混乱していた。

 99年10月、彼はレストランで大騒ぎを繰り広げ、その様子を写真に撮った失礼な男を殴りつけた。その写真にはテーブルの上に乗せた椅子に座り、頭の上にワインのボトルを乗せてバランスを取ろうとするバスラーが写っていた。

 ヘビースモーカーでビールが大好きな彼は、練習や合宿から突然姿を消したため、余計なスキャンダルを望まないバイエルンはバスラーを監視するために私立探偵を雇っていた(大抵の場合はバーで酔っ払ったところを見つかった)。「全然問題なかったよ。探偵が近くにいる時、俺は11時にはベッドに入った」と本人は言うが、やがてクラブはすべてを諦め、この天才ウイングをカイザースラウテルンへ放出した。

 現役時代の彼はCKを直接決めるゴール(偶然ではない。彼はこのゴールを2度決めた)で知られ、ブンデスリーガを2回、DFBカップを5回制し、ユーロ96ではドイツ代表として優勝した。そのキャリアはトロフィーで満たされていた。しかし、元代表監督のルディ・フェラーは納得していないようだ。「あいつは毎日数リットルのビールを飲み、10分でマルボロ1箱を吸ってしまう。時々でもトレーナーの指示に従っていれば、彼のキャリアはもっと良いものになっただろうに」

アドリアーノ
○1982年2月17日生まれ ○元ブラジル代表
 昨年の2月、かつてセリエAで「皇帝」と呼ばれた男は、思わず笑ってしまうほどだらしないプロポーションと戦っていた。そこでコリンチャンスのフィットネスコーチであるファビオ・マセレジアンは、極めて確実な方法で彼の体重をコントロールしようとした。ホテルに監禁したのだ。「ホテルなら、我々は彼の生活を全面的に管理できる。トレーニングで指導するだけじゃダメなんだ。やせたければ食事を変えるしかないからね」。マセレジアンはそう語った。

 しかし、アドリアーノはすぐにホテルからいなくなり、誰もが予想したとおりの場所―サンパウロのナイトクラブ―で見つかった。ダイエットにも失敗し、練習にも姿を現さないことが増えた。クラブはとうとう業を煮やし、12カ月で67回も練習を休んだ「元皇帝」を解雇した。「俺は望んでいないのに、彼らは俺をホテルにとどめておこうとしたんだ」。アドリアーノは不満を言い、コリンチャンスに対して訴訟をにおわせた。ただ、実際はホテル暮らしがそれほど不満というわけでもなかったようで、親しい知人にこう話している。「ホテルの食事は結構良かった。いろんなメニューが選べたからね」

 昨年11月、常に思ったとおりに行動する彼は、フラメンゴとの契約という「最後のチャンス」を放棄した。かつてセリエAのDFに恐れられたブラジル人は、31歳にしてフリーエージェントとなっている。体重は100キロを超えている。

テオフィロ・グティエレス
○1985年5月17日生まれ ○コロンビア代表
 メキシコのクルス・アスルでプレーするグティエレスは、相手の隙を突いて抜け目なくゴールを奪うストライカー。確かに良い選手だが、残念なことにモラルというものが欠けている。「毎週、俺は自分にどれだけ金があるのかを数えている」と彼は満足そうに話したことがある。

 昨年4月、アルゼンチンのラシンでプレーしていたグティエレスは、インデペンディエンテのDFフリアン・ベラスケスに対して「でかいクソ」などと侮辱して退場となる。試合後、チームメートに注意されたグティエレスは相手に殴りかかり、最後にはエアガンを抜いて発砲すると脅迫した。

 その結果、グティエレスはホームへ戻るバスから追い出され、4日後にレンタル移籍となってラヌースへ送られた。更に1カ月後、彼は代表チームに招集されたと嘘をついてコロンビアに帰国し、クラブから契約を解除されている。

エベル・バネガ
○1988年6月29日生まれ ○アルゼンチン代表
 08年1月、バレンシアに入団した若手MFはすぐさま注目された。彼は自宅のパソコンを起動させ、アダルトチャットに参加し、パンツを脱いで若い男性が誰でもやる行為をしたのだ。

 問題はこの時の様子がウェブカメラで撮影されていたことだった。「バネガ、常にビッグ」と名づけられた映像がネット上に出回り、バレンシアは「全く関係のない問題でクラブの名誉を傷つけられるのは耐えられない」と怒りを示した。

 苦境は続く。08-09シーズン、レンタル移籍先のアトレティコ・マドリーでは外出禁止命令を無視して記録的な罰金を科せられた。2012年2月にはガソリンスタンドでハンドブレーキを引き忘れ、自分の車にひかれて骨折。シーズン後半戦を棒に振った。だが、様々なトラブルにもめげず、バネガは今もバレンシアで活躍中だ。

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