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サッカーと向き合って分かったこと 小澤英明(サッカー選手、Futbol Sin Fronteras代表)

2015.03.02
小澤英明

「ゴールの前に立ちたい気持ちって、いつまでたっても薄れないんです」

 小澤さんは今年で41歳になるGKである。2年前にアルビレックス新潟を離れてからは、特定のチームに所属せず、自宅近くの公園や、中学校のサッカー部で指導を行いながらトレーニングを積んでいる。プロという華々しい世界から距離を置き、孤独と闘いながらサッカーと向き合ってきた。日本やパラグアイのトップレベルを知る男が、真っさらなサッカーと触れ合い何を感じたのか。千葉県成田市、成田国際空港から10分ほどのフットサルコートに現れた小澤さんは、その柔らかな口調とは裏腹に、端々に魂の余熱が残る言葉で、自身のキャリア、そして未来について語った。

若林源三に憧れて

 小澤さんはアニメ『キャプテン翼』の放送がきっかけでサッカーと出会っている。周りの子供たちが、主人公の大空翼やライバルである日向小次郎の華麗で豪快なプレーに憧れている中、一人だけGKの若林源三に夢中だった。すぐにクラブの先生にGKをやりたいと懇願して、若林のトレードマークであるアディダスの帽子を買いに、スポーツショップに走った。そして、順調にGKとして成長した小澤さんは、1992年に水戸短期大学附属高等学校(現 水戸啓明高等学校)から鹿島アントラーズに加入する。U-22日本代表にも選ばれた当時をこう振り返った。

「93年にJリーグが開幕したんですけど、最初のイメージ、インパクトが大事だって言って、監督や選手たちを含め、クラブ全体ですごく気合が入っていました。特にジーコは強烈でしたね。普段の様子からまさにプロフェッショナルで、練習になるとほんとに厳しかったです。ブラジル人選手に対しては特にすごかったですよ。『金稼ぎにだけ来てんだったら帰れ』って言って、練習から追い出しちゃうんです。僕たちからしたら、そのブラジル人選手も模範にできるような選手なのに。そういった姿勢から、アントラーズでプロサッカー選手としてのスピリットをたたき込まれました」

 その後、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)、セレッソ大阪、FC東京を経て、04年に鹿島アントラーズに復帰し、07、08、09年にはJリーグ3連覇を果たす。そして2010年に、36歳というサッカー選手としてはキャリアの晩年期に差し掛かるタイミングで、パラグアイ1部スポルティボ・ルケーニョへの移籍を決断した。

「キャプテン翼の若林くんって小学校を卒業したら西ドイツに行くんです。当時は西ドイツなんてどこにあるかも分からなかったので驚きましたよ。でも、どこかで自分と重ね合わせて、いつか海外に行きたいなって思っていました。雑誌でブンデスリーガやプレミアリーグの写真を見ながら自分がプレーしているイメージをしたりして。プロになってからはオフシーズンに何度も海外のチームに練習参加して、最終的に2010年にパラグアイへの移籍を決めました。これは縁だなと思いましたよ。いろいろ探している時に南米のGK大国につながったので、勝負するにはもってこいだなと」

 しかし、少年時代から憧れ続けた海外のピッチは、けっして簡単な舞台ではなかった。

「スタジアムや練習場の設備にしても、ピッチの状態にしても環境が違い過ぎました。日本では練習後、普通にシャワーを浴びれますが、パラグアイはシャワーが5つあれば3つはお湯が出ない。ほかにも、牛の糞だらけのところで練習したり。タイムスリップした感覚ですよ。日本の環境を考えてしまう時もありましたけど、現実を見ろって自分に言い聞かせていました。向こうは本当に競争が激しいですから。1週間で選手が2、3人入れ替わるんです。その中でも特にGKには厳しい。会長がチームを作る上で、一番に決めるのが監督とGKなんです。だから日本人のGKに対しては、相当プレッシャーが激しかったですよ」

 そんな厳しい環境の中でも、支えてくれる人たちがいた。小澤さんは感謝を口にする。

「試合に出られたのは、プレーで自分の実力を証明できたことや、日本から駆け付けて一緒に戦ってくれた家族の存在、そして在留邦人、日系パラグアイ人の方たちのサポートも大きかったですね。みんなが『Hide Luque(ヒデ・ルケ)』っていう僕のサポーターズクラブを作って、スタジアムで大声援を送ってくれたり、街でビラを配ってくれたり。こういったことは普通ではないんです。一歩間違えれば危険が伴う場所なので。彼らのサポートがなかったら僕は試合に出られてなかったですね」

 小澤さんはシーズン後半に出場機会をつかむと、好セーブを連発し、チームの1部リーグ残留に貢献する。チームからは契約延長を打診されたが、一度、家族と共に日本に帰国することを決めた。

小澤英明

自分にとってのサッカーとは

 アルビレックス新潟を退団して、2年がたった。「プロとしてピッチに立つこと」を目標に、日々トレーニングに励むと同時に、2010年からは、「Futbol Sin Fronteras(フットボール・シン・フロンテーラス)」の活動にも力を入れている。

「『Futbol Sin Fronteras』はスペイン語で『フットボールに国境はない』という意味です。フットボールに国境はないって言うと、じゃあ代表の試合は何?ってなりますよね。でも、それを超越したところに、『ボール一つあればどこでも誰でもサッカーができる』っていうサッカーの原点があると思うんです。国籍も年齢も性別も関係ない。そういうシンプルな、サッカーという競技そのものの素晴らしさを感じたい、伝えたい、と思ったのが活動のきっかけです」

 サッカーやスポーツに関わるイベントの主催や、自らフットサルなどのイベントに参加することで、サッカーの魅力や体を動かすことの素晴らしさを伝えている。こうした幅広い活動を通して、たくさんのサッカーを愛する人たちと、ありのままのサッカーに触れることで、小澤さんの心は揺り動かされていた。

「今までは、はいつくばってでもプロでやっていこうと、がむしゃらに歩んできました。でもサッカーに対してそういう捉え方しかできないのが少し寂しいなと思い始めたんです。もちろん、第一優先はプレーヤーとして試合に出ること。その思いは変わりません。サッカー選手ですから。ただ、昨年の活動を通してCPサッカー(脳性麻痺障害者のサッカー)やアンプティサッカー(上肢下肢切断障害者のサッカー)のイベントに参加させていただき、これも自分にとっての大切なサッカーなんじゃないか、と思ったんです。もう少し流れに身を任せて、自然な形でサッカーをできる状況が来たときに、全力でプレーしようと。プレーヤーや指導者、どんな役割であれ、そこがサッカー選手である小澤英明の表現の場所なんじゃないか、と思うようになりました」

 小澤さんはそう言って顔を上げる。視線の先には、体のわりにまだ大きく見えるグローブを付けた少年がいた。

「昨年の4月に『ARQUEROS(アルケーロス)』という小学生を対象としたGKアカデミーを設立しました。そこには、普段のチームでGKをしている子供だけじゃなくて、フィールドプレーヤーの子供もいて、全くほかの競技をしている子もいます。そんな子供たちに対して、GKのトレーニングを通して彼らの可能性を広げてあげたり、自分らしく歩んでいける手助けができればいいなと思います。それが今の夢ですね。まあ、子供たちはやんちゃなので一筋縄ではいかないですけど(笑)」

 小澤さんは集まった10人ほどの小学生と、丁寧に握手を交わした。小さなGKがゴールの前に立つと、小澤さんはボールを蹴り込む。その姿は、ボールに跳びつく少年たちと同じくらい、いきいきとしていた。子供たちにかけるその言葉は、まるで、共に戦う仲間を鼓舞するようだ。子供たちに見せるデモンストレーションを、全力でプレーする姿は、何よりのお手本だろう。数分ごとに上空をジェット機が通過するグラウンドで、今日も小澤さんの大きな声が響いている。

インタビュー・文=西岡悠平(サッカーキング・アカデミー
写真=小林浩一(サッカーキング・アカデミー

●サッカーキング・アカデミー「編集・ライター科」の受講生がインタビューと原稿執筆を、カメラマン科の受講生が撮影を担当しました。
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