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街を愛し、人を愛し、サッカーを愛す 河合貴子(MC、リポーター)

2014.11.18
河合貴子

「全然サッカーを知らなかったのに」
 
 河合貴子さんは当時を懐かしそうに振り返る。サポーターや選手から「タカねえ」の愛称で親しまれる河合さんは、元々はフリーのアナウンサーとしてサッカーとは関わりのない人生を送ってきた。

 転機が訪れたのはJリーグ発足前年の1992年、ナビスコカップの開幕がきっかけだった。当時の浦和ケーブルテレビがサッカー番組を作ることになったのだ。その際、リポーター兼アシスタントのオーディションを受けてくれ、という話が事務所からあったという。地方局ということもあり最初は乗り気ではなかった。落ちるためにオーディションに遅刻し、サッカーの勉強もしていなかった。しかし、サッカーを知らないという点が逆に番組制作者の目に留まって採用された。

「困った」。それが正直な気持ちだった。

「だけど、オーディションを受けてしまったし、決定って言われてしまったし、そしたらやるしかないじゃない」

 それが自身の人生とレッズの運命が交差した瞬間だった。

 その番組で、大きな影響を受けたという浦和レッズ初代監督の森孝慈さんと出会う。「リベロって、なんですか?」。本番中に尋ねて呆れられたこともあったという。しかしそうしたところから、サッカーを勉強しないといけないという意識が芽生えていった。

 河合さんの学びたい気持ちの裏には強い責任感があった。

「プレスパスをもらってスタジアムに入れるのはごく限られた人だけ。その責任を果たすためには、何をしなきゃいけないんだろうっていうことをすごく考えました」

 ピッチの上で何が起きているのか。指導の現場はどうなのか。そういったことを見極める目を持ち、サッカーを熟知した上で伝えていきたい。そうした気持ちが行動となっていった。レフェリーと指導者の資格を取り、30歳を過ぎて初めてボールを蹴った。

 そして草サッカーの試合で初めてゴールを決めた時、その喜びを後日選手たちに伝えると当時浦和レッズに所属していた小野伸二からこんな言葉をもらったという。

「そのうれしさっていうのは、タカねえだろうが、小学生だろうが中学生だろうが高校生だろうが、俺だろうが誰が決めたって同じなんだよ。俺がゴールを決めた時とタカねえは同じ気持ちだったんだよ」

 ピッチに立ってゴールを決めた時の気持ちはプロもアマも一緒なんだ、ということを知ると、インタビューの仕方も変わっていったという。

 取材の時は今でも、初めてのサッカー番組で共演した森さんの言葉を励みにしている。

「分からないことを分からないって言うお前の態度が一番いい。知らないことを知ったかぶりしない。それが一番大事なことだと思う。こんなことも知らねぇのかよって言う人もいるかもしれないけど、それでも食らいついていけ」
 
 さまざまな人からの教え、そして出会いがサッカーや浦和レッズとの絆を深くしていった。

 練馬生まれの練馬育ち。浦和の街に当初は友達一人いなかった。それが今では顔なじみのお店も友達もできて「ボールを蹴るよ」と言ったら集まってくれる仲間がいる。そのことを少し不思議そうに語りながらも、「面白い街ですよ」と発した言葉には浦和への愛が詰まっていた。

歓喜と悲しみの涙

 2003年のナビスコカップ制覇。そして2006年のJリーグ優勝など、うれしかった取材の記憶を思い浮かべる時、河合さんの表情は涙ぐむほどの幸福感に染まっていた。

「国立競技場の階段を上がってメダルをかけて降りてくるじゃない。降りてくるところを下から眺めていると、選手が見て見て、ってメダルを見せてきてさ……やっぱりうれしかったよね」

 取材を通してそれだけの信頼関係を選手と築いてきた。バカ話をする時もあれば、真剣な話をすることもある。時には相談に乗ることもあるという。その接し方は、代表選手でもルーキーでも変わらない。だからこそ、選手たちの最高の笑顔が、つらいこと、悲しいことを全部吹き飛ばしてくれたという。

 ただし、長い間、レッズを見てきたからこそ、悲しいシーンも鮮明に覚えている。

 1995年第16節、相手は名古屋グランパスエイト。PKが一巡しても勝敗が付かなかった死闘が国立競技場で繰り広げられた。最後は、当時レッズの大黒柱でもあったギド・ブッフバルトが外し、負けた。試合後、ギドはミックスゾーンで河合さんを見るなりカタコトの日本語で「ゴメン、ゴメン」と謝ってきたという。

「足がつるくらい必死に走り回った選手を絶対に責めることはできない。全力を尽くした選手にゴメンって言われて」

 当時の心境をつらそうに口にした。

 しかし、その時よりもさらにつらい試合があった。それは2014年3月23日に行われたJリーグ史上初の無観客試合だ。

 その日、埼玉スタジアムの広場から、子供たちの笑い声やお母さんたちのお弁当を広げる姿、そしてゴール裏のサポーターたちが気合を入れる姿が消えた。

「ゴーストタウンみたいなどこかに迷い込んじゃったんじゃないかって……」

 試合を振り返っていると、いつしかハンカチで涙を拭っていた。

「申し訳ない」。何度も繰り返された言葉は、対戦相手にも向けられていた。

「サポーターが起こしたこととはいえ、無観客という制裁は浦和を愛する全ての人たちの責任だから」
 
 今もなお、横断幕やゲーフラなどの使用は規制されている。スタジアムはまだ無観客試合の尾を引いているのが現状だ。だからこそ、2度と同じことを起こさないために自分には何ができるのか、ということを常に心に刻んでいるという。

再びあの景色を見るために

 幾多もの苦楽を経験しながら、徐々に浦和レッズの赤に染まっていった。気付けば浦和に行っている。気付けば浦和でサッカーをしている。気付けば浦和でご飯を食べている。

「長く続けていれば続けているほど得られるものもある」

 浦和レッズのコラムを書く仕事もそのひとつだ。今でもサッカーを文字で表現することに難しさを感じているが、読んでくれる人の存在が何よりうれしいのだという。

 MCやリポーター、そしてコラムと幅広い活躍を続ける河合さんが積み重ねてきた年月は、今年で22年になる。その長い月日をレッズとともに過ごしてこられたのには理由があった。

「レッズ魂って無償の愛で成り立ってると思うの」
 
 見返りを求めるためではなく、誰かのために、ということだ。

「浦和を愛する人たちって、みんなそういう気持ちがあると思う。だってそうじゃなかったら、雨の中わざわざスタジアムに試合を見に行く?」
 
 視線の先には、激しく降り出した雨の中、埼玉スタジアムへと向かうレッズサポーターの姿があった。

 さらに河合さんは、その先も見据えている。

「6万人が埼玉スタジアムを埋め尽くす。あの赤い波を書きたい。歓声を書きたい。伝えたい。浦和レッズが優勝する時は、もう一度あのスタジアムをみんなで作りたい」

 河合さんが切望する“あのスタジアム”とは、横断幕やゲートフラッグ、太鼓やコレオグラフィーが、選手を熱くさせる本来あるべき姿を指している。

 願いは、確実に現実のものになりつつある。第28節、半年ぶりに太鼓の音がスタジアムにこだました。そして第32節を前にして、Lフラッグでスタジアムを埋め尽くそうという気運が高まっている。

「浦和レッズを愛する。それは人を愛する気持ちと同じだと思う」

 そう語る河合さんの愛は、今まさに、最高の形で実を結ぼうとしている。

インタビュー・文=井上俊一郎(サッカーキング・アカデミー
写真=大澤智子(サッカーキング・アカデミー

●サッカーキング・アカデミー「編集・ライター科」の受講生がインタビューと原稿執筆を、「カメラマン科」の受講生が撮影を担当しました。
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