2016.06.20

アルゼンチン人にとってマラドーナは“神”か“恥”か…30年間での変化と不変

ディエゴ・マラドーナ
ブエノスアイレスにてマラドーナの壁画に挟まれ営まれる商店 [写真]=LatinContent/Getty Images
1989年よりブエノスアイレス在住。サッカー専門誌、スポーツ誌等にアルゼンチンと南米の情報を執筆。

 今から30年前の1986年メキシコ・ワールドカップで「神」となったディエゴ・マラドーナ。以来、アルゼンチン人が海外に出かけると、行く先々で決まって「マラドーナ!」と言われるのが定番となっていた。

 だがどうやら近年、そのパターンに変化が起きているらしい。筆者の長女はアラブ首長国連邦のアブダビに住んでいて、世界各国の人たちと交流する仕事に就いているのだが、彼女がアルゼンチン人だとわかるとほとんどの人が「メッシ!」と言うのだそうだ。私が「ふうん、マラドーナじゃないのね」と言うと、長女は驚いたような声で「当たり前でしょ、アルゼンチンと言えばメッシと決まっているんだから」と答えた。

 メキシコでのマラドーナの勇姿をリアルタイムで観て、鳥肌が立つほど感動した世代としては、「アルゼンチン=マラドーナ」が当然の公式だ。でも残念なことに、リオネル・メッシの活躍を観ながら育っているアルゼンチンの今時の若者たちにとって、マラドーナは「過去の人」でしかない。日本でも、長嶋茂雄や王貞治の偉大さを20代以下の若い人たちに肌で感じてもらうことはほぼ不可能であることと同じである。

バルコニーに飾られたマラドーナの人形 [写真]=Gamma-Rapho via Getty Images

 かといって、マラドーナがメキシコW杯で成し遂げた偉業そのものが認められていないわけではない。アルゼンチン人であれば誰もが「あの大会でのマラドーナは神だった」と認めている。経営学科を専攻する20歳のある大学生は、「イングランド戦での5人抜きゴールのシーンと、エスタディオ・アステカで優勝カップを掲げている映像を動画サイトで見たことがあるが、あれはメッシでさえ実現できていないこと。世界中を驚嘆させた選手がアルゼンチン人だったことに誇りを感じる」と話した。「その後アルゼンチンは30年間もワールドカップで優勝していない。2014年の大会で決勝に進出した時の感動を経験しているからこそ、優勝の価値とマラドーナがやったことの素晴らしさはわかっているつもりだ」

 アルゼンチンにおけるマラドーナ評は、「崇拝」と「嫌悪」のどちらかに分かれる。サッカー選手として神と化した感動を重んじて、何があろうとマラドーナを敬愛し続ける人と、選手としての実績は認めても私生活での度重なる問題から母国の恥だと考える人、そのどちらかだ。

 中途半端な意見がないのは、過去4回のワールドカップに出場し、うち2回はファイナリストとなり、残り2回は退場と追放で終わったという、まるでマラドーナ自身の両極端な生き様を反映しているかのようでもある。

2014年W杯にてメッシ、ローマ法王、マラドーナの絵を掲げるアルゼンチンサポーター [写真]=Getty Images

 ボカ・ジュニアーズの大ファンで、ボカのホームスタジアム「ボンボネーラ」内のレストランの店長を務める40歳の男性は「自分は94年でマラドーナに見切りをつけた」と話してくれた。「それまでは家族や友達を敵に回してもマラドーナを擁護していたけれど、94年のワールドカップでドーピング陽性結果が出たときに『裏切られた』と感じて傷ついた。もしディエゴに会う機会があったら聞いてみたいよ。どうしてあの時僕たちを裏切ったのかってね」

 だがそんな彼も、メキシコ大会での話になると目を輝かせた。「蹴られて倒されても起き上がって、チームを引っ張る姿に勇気付けられたものさ。頼もしいリーダーだった。みんなマラドーナに憧れていたよ」

 30代後半のフリーランス編集者はマラドーナについて「国内では貧しい人たちに希望を与え、海外ではアルゼンチンという国を強く印象付けた、サッカーの粋を越えた英雄だ」と話す。「人間誰でも過ちを犯す。マラドーナが世間に与えた影響は、私生活での問題によって簡単に打ち消されるようなものではない。人間としての弱い一面は許してあげたいという気持ちは、マラドーナを愛する全ての人たちが抱いているだろう」

 メキシコ大会での5人抜きゴールのシーンを切り絵風の美しいアニメーションに仕上げた動画がある。それを見た人たちのコメントを読めば、老いも若きも、アルゼンチンの人たちがいかにあのゴールに心を奪われるかがよくわかる。「やはり神だ」「鳥肌が立つ」「ただただ美しい」「最高だよ、4500万回くらい見たけどやめられない」「ディエゴ、これは史上最高のプレーだ。素晴らしいよ」。その中に「メッシの方がすごい」などという書き込みは見当たらない。

マラドーナのタトゥーを入れたアルゼンチンサポーター [写真]=LatinContent/Getty Images

「マラドーナ自伝」の著者で、マラドーナとも30年来の親しい仲にあるジャーナリスト、ダニエル・アルクッチは、「メキシコ大会のイングランド戦での2ゴールにマラドーナ神話が集約されている」と語る。

「アルゼンチンの選手たちは逆境に強いことで知られるが、それこそ純粋なマラドニズム(マラドーナ主義)の現れだ。マラドニズムとは目標達成のため、常に敵や障害物を置き、それに立ち向かう姿勢のこと。あの大会でのアルゼンチン代表は、政府からの支援を得られず、国民からも見放されていた。全てが代表の敵となった状況をマラドーナは好んで受け入れて、チームメイトたちと『母国の人々を見返してやろう』と誓ったんだ。アルゼンチンの人々にとってマラドーナが神格化したのはいつだい? 86年6月22日、イングランド戦で2ゴールを決めた日さ。あの日、マラドーナは逆境を覆して神になった。彼の神話は、あの2ゴールに集約されているんだよ」

 そう、マラドーナはあそこで神話を作ったのだ。いかなる神話の登場人物にも暗い過去や欠点があるもので、マラドーナもその例外ではない。

 去る6月1日、マラドーナ自身がメキシコ大会でのアルゼンチンの全試合について語った本「Mi Mundial, Mi Verdad」(私のワールドカップ、私の真実)が出版された。自伝に続いて本書でも書き起こしを担当したアルクッチは、「メキシコ大会をライヴで観ていない世代の人たちにもぜひ読んでもらいたい」と語る。逆境と戦いながらチームを世界一の座に導いたキャプテンが、30年の時を経て当時の試合を振り返るという興味深い内容を読めば、アルゼンチンの今時の若者たちのマラドーナに対する考え方も変わるかもしれない。
アブダビに住む長女にも、読ませたいと思っている。

文=藤坂ガルシア千鶴


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