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日本サッカー界の歴史が動いた日…稲本潤一が2002年日韓ワールドカップを振り返る

2018.05.07

 日本中がワールドカップ・フィーバーに沸いた2002年6月、その熱狂の中心にいたのは間違いなく稲本潤一だった。センセーショナルなゴールで日本にW杯初勝利をもたらした当時22歳の若武者は、一躍“時の人”となって日本中の注目を独占した。あれから16年、史上唯一の自国開催のW杯は日本の選手たちにどんな影響を及ぼしたのか。今なお北海道コンサドーレ札幌でプレーする稲本が日韓共催の2002年大会を振り返る。

■ロシア戦の一発は「自分の特徴が出たゴール」

——2002年大会は稲本選手にとって初めてのW杯でした。改めてどんな舞台でしたか?

正直、「W杯」という意識はあまりなかったですね。(1999年の)ワールドユース、(2000年の)オリンピックと立て続けに国際大会があったので、その延長線上のような気持ちでやっていました。年齢的にもチームの中で一番若い世代だったし、周りのことは気にせず、自分がどれだけいいプレーができるかだけを考えていた感じです。失うものは何もありませんでしたから。

——自国開催ということで、国内は大会前からものすごい盛り上がりでした。あの喧騒の中で選手たちは冷静でいられましたか?

合宿地が隔離されたところにあったので、練習は集中してやれていました。ただ、試合日にバスに乗ってスタジアムに行く道中は、ファンの反応がすごくて特別な感じがありましたね。多分、日本があんな雰囲気になったのは後にも先にもあの時だけだったと思うし、すごく注目されているということを実感しました。

——世間の雰囲気を報道などで見聞きしていたのですか?

ある程度は見ていました。でも、合宿地が静かだったので、騒がれていることで緊張したり、舞い上がったりすることはなかったです。

——日本が初出場した98年大会は全敗という結果でした。自国開催で結果を残さなければならないというプレッシャーがあったのでは?

それまで開催国は必ず決勝トーナメントに行っているというのは聞いていましたし、ある程度のプレッシャーはありました。でも、僕たちの世代に限って言えば、ワールドユースもオリンピックもグループリーグを突破していたし、そこで負けるイメージはなかったですね。

——ベルギーとの初戦は先制を許す展開でした。「W杯の難しさ」を感じる場面だったと思いますが、焦りはなかったですか?

僕個人としてはさほど焦りはなかったですね。初戦ということで多少試合の入り方に硬さがあったという記憶はありますけど、先制されても負ける気はしなかったです。

——その後、鈴木隆行選手のゴールが決まって1ー1。そして稲本選手の逆転ゴールが生まれます。あのシーンを振り返ってください。

高い位置でボールを奪って、そのままゴールに向かっていく…自分の特徴が出たゴールだったと思います。シュートはコースを狙っていたわけではなくて、思いっきり蹴ったら入ったみたいな感じ(笑)。とにかく自分の特徴が出た1点でした。

——W杯の舞台でも自分の持ち味を出せたのは、オリンピックなどの経験が大きいですか?

それもありますし、ワールドユース、オリンピックとずっと(フィリップ)トルシエ監督と一緒にやってきたのが大きいと思います。中盤で一緒にやっていたヒデさん(中田英寿)や戸田(和幸)さんは自分のプレースタイルを理解した上でポジショニングを取ってくれていましたし、自分の特徴を出しやすい環境でした。

——ベルギー戦は追いつかれて2ー2の引き分けでした。初戦の結果として満足のいくものでしたか?

監督は「勝ち試合だった」と言って、失点の場面を何度もビデオで見せていましたけど、W杯で初めて勝ち点を取れたという点は評価できるし、それほど悲観する内容でもなかった。選手たちの士気が下がるようなことはなかったですね。

——そしてロシアとの第2戦。稲本選手に再びゴールが生まれます。あの得点シーンを振り返ってください。

自分の中で前の試合で点を取った勢いがありましたね。3列目から飛び出していくプレーはロシア戦でも意識してやってはいましたけど、今にして思うとなぜ自分があそこにいたのかなとは思います(笑)。気がついたらFWと同じラインに自分がいた。自分の中の得点感覚やゴール前に行く意識というのが研ぎすまされていたのかなと思います。

——柳沢敦選手がダイレクトではたいたボールをワントラップして冷静に決めました。

一つ目のトラップが足元に止まったので、あとはしっかり狙って打つだけでした。すぐにオフサイドかどうかも確認しました。流れるようなプレーで点が取れたなと。

——ロシア戦の視聴率は66.1%を記録したそうです。日本国民の大半が見ていた一戦でヒーローになった気分はどうでしたか?

当時は祖父までがテレビに出演していたぐらいなので、やっぱり影響力はすごいなと。オリンピックで点を取った時も感じましたけど、自国開催のW杯で点を取るということのすごさを実感しました。

——大会中はロッカールームにもカメラが入り、のちにドキュメンタリーとしてオンエアされました。稲本選手はロシア戦後、ロッカールームを訪れた小泉純一郎前首相に抱きついていましたね。

一国の首相に裸で抱きつくというのは、なかなかできることじゃないですよね(笑)。あの時はまだ22歳でしたし、若さゆえの勢いというか…今なら多分できないです(笑)。「楽しかった」という言い方をするのは違うかもしれないけど、あれでまたチームにいい雰囲気が生まれました。

——「総理、感動しました?」というフリもありました。

あれはゴンさん(中山雅史)が言ったんですよ。(当時流行語になった)「感動した!」を言ってもらうために(笑)。あの時はみんなで雄叫びをあげて喜んでいましたね。

——映像からも当時の日本代表の一体感が伝わってきます。改めてあのチームの印象は?

最近、新聞で当時のメンバーの年齢を見る機会があったんですけど、「みんな若いな〜」というのが一番の印象ですね。一番年上にゴンさんや秋田(豊)さん、森島(寛晃)さんがいて、中堅がいて、僕たち若手がいる。チームがすごくいいバランスで構成されていました。その中でゴンさんが先頭に立って声を出したり、あまり試合に出ていない選手が盛り上げてくれたり。若い選手はその雰囲気に乗っかっていくだけでよかった。あのチームには若い選手が自分のプレーを出しやすい環境がありましたね。

■今になって「特別な大会だったんだな」と思う

——その後、チュニジアにも勝って決勝トーナメントに進出しましたが、トルコに敗れて大会が終わってしまいました。あの時の率直な気持ちは?

「まだまだ行けた」という気持ちのほうが強かったですね。トルコに勝っていれば次の相手はセネガル。比較的、対戦相手に恵まれていたと思うし、何より(共催の)韓国はベスト4まで行きましたから。もっと上に行けるチームだったと思います。個人的にも最初の2試合では点を取りましたけど、その後の2試合は両方とも途中で交代させられている。サッカー選手にとって、前半だけで代えられるのは悔しいことだし、そういう形でW杯が終わってしまったという悔しさのほうが強かったです。

——改めて稲本選手にとって2002年大会はどんなものでしたか?

16年経った今も、あの大会について聞かれることがものすごく多いんですよ。それ以降もW杯には2回出ているんですけどね。それぐらい、周囲の人にとって印象的な大会だったんだなというのを年齢を重ねるごとに感じています。自国開催のW杯というのは、僕が生きているうちにもう一度あるかどうか分からないことだし、最近になってようやく「特別な大会だったんだな」と思うようになりました。当時は勢いでやっていましたけど、2002年よりも2006年のほうが緊張したし、2010年はもっと緊張した。年齢を重ねるごとにW杯の重み、日本代表の重みを実感するようになりましたね。

——あの大会を通してご自身の中で何か変わりましたか?

サッカーに対する意識ですね。アーセナルで試合に出れなくて、悔しい思いをしていて、そんな中でのW杯でしたけど、W杯の結果一つで自分への注目度が変わり、注目されることへのプレッシャーも感じました。何より、あの2得点がなかったら、アーセナルの後にプレーするチームがなかったかもしれないし、ヨーロッパでのキャリアがあれほど長く続くこともなかったと思います。

——その後、26歳で2006年大会、30歳で2010年大会に出場しましたが、年齢によってチーム内での立ち位置や役割に変化はありましたか?

2002年は勢いでやっていたし、2006年もチームより自分が試合に出ることを優先的に考えていました。個人としてどう試合に出るかが重要でしたね。でも、2010年に関しては、ベテランとしてチームの一体感をどう出していくかを考えていました。(楢﨑)正剛さんや(川口)能活さん、(中村)俊輔さんがいましたけど、試合に出ていない選手も含め、一人ひとりがチームのために動くことがいかに重要かを知った大会でした。

——稲本選手はW杯で決勝トーナメント進出もグループリーグ敗退も経験していますが、それを分けるものは何だと思いますか?

今にして思えば、結果を残したチームのほうがより一体感はあったのかもしれないですね。でも、2006年大会だって、もしオーストラリアとの初戦に勝っていたら全く違った結果になっていたかもしれない。1カ月以上共同生活をするわけですから、その中で徐々に一つになっていくこと、チームの全員が同じ方向を向くことが大事ですね。

——ご自身の経験も踏まえ、現在の代表チームをどう見ていますか?

選手はもうやるしかないと思うし、選ばれた選手たちがいかに一体感を持って、全員が同じ方向を向いて、高いモチベーションでやれるかだと思います。このタイミングでは戦術や技術の向上はそこまで望めない。ちょっと古臭い言い方かもしれないけど、ここまできたら気持ちの持ちようでどうにでもなると思っています。

■ナイキは常に向上心があるブランド

——稲本選手はナイキのスパイクを履いて3度のW杯に出場しました。思い入れの強い一足はありますか?

やっぱりW杯で履いたスパイクは印象深いものがあります。例えば2010年の時に履いたスパイクはあの時しか履いていなかったと思う。2006年もかな。もっと長く履いていたかったと思うぐらい自分に合っていました。

——今回、W杯の過去5大会の『マーキュリアル』がNIKEiDとして復刻されました。当時のデザインの復刻についてどう思いますか?

思い入れのあるスパイクが復刻されたら履いてみたい気持ちはありますね。特にW杯の時に履いていたスパイクならうれしいです。実現するのであればぜひお願いします(笑)。

——この十数年でスパイクはものすごく進化してきたと思います。

軽いもの、ボールが曲がりやすいもの、いろいろなスパイクがありました。選手のために試行錯誤をしてくれているなと感じます。年々進化して履きやすくなっているし、ナイキはそのサイクルが本当に速いなと。

——スパイクに関して一番のこだわりポイントはどこですか?

フィット感ですけど、毎回自分の足の型を取ってもらっているので違和感なく履けていますね。こちらからの注文は特にないです。

——若い頃からナイキを履いていますが、改めてナイキの魅力を教えてください。

常に向上心があるブランドだなと思います。18歳から契約させてもらっているのでもう20年になりますけど、スパイクはもちろんアパレルなんかも含め、すべてに対して常に上を目指してやっているブランドだなというのは感じます。

インタビュー・文=国井洋之
写真=ナイキジャパン

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