2016.05.14

【リーガで働く日本人】史上初めてバルセロナの現場で働いた日本人の物語①

世界最高峰の「スペインサッカー リーガ・エスパニョーラ」を2018−19シーズンも毎節最大5試合生中継!

 サッカー大国スペインにして、唯一無二の存在であり、世界のサッカーシーンを先駆するバルセロナ。選手ならずとも、サッカーに係る人間の多くがその地に憧れ、学びを求めて海を渡る。その道を切り開いた一人の男、それが村松尚登だ。サッカー留学=ドイツが主流だった当時、村松が選んだスペイン・バルセロナへの武者修行。日本人としては初のバルセロナスクールコーチとして活躍した。「練習メニューがバルセロナっぽいわけではなく、そのメニューをいかにバルセロナっぽくプレーさせるかなんです」。サッカーが日常に溶け込むバルセロナの空気に、強さの真髄を見た。時は流れ、今は母国日本で指導者として活躍する村松だが、その礎にはバルセロナの情熱的な血液が脈々と流れている。「日本人の身体動作を掘り下げる価値意識には、世界を驚かせるヒントが十分隠されている」。バルセロナに学び、日本で新たな挑戦を続ける村松は今、何を想うのか。

バルセロナに憧れての渡西。言葉も通じない異国の地で道を切り開いた方法

――早速ですが今回は、リーガに係る仕事をされてきた・している方々に焦点をあてたインタビューになります。村松さんが日本人として初めてバルセロナのスクールコーチとして活躍されたことは有名ですが、まずはそこに至る経緯を伺っていきたいと思います。渡西前はどのようにサッカーと関わられていたのですか?

村松尚登 大学は筑波大学だったんですけど、プレーヤーとしてはずっとBチームでしたね。世代でいうと上野優作(現:浦和レッズ育成部門コーチ)、元日本代表の望月重良(現:相模原SC代表/WOWOW解説者)と同じ年代です。

――大学入学時には指導者の道を志していたのですか?

村松尚登 筑波を選んだのは、やはり指導者になりたかったのが一番の理由です。当時は学校の先生になるのかなと思っていましたね。卒業の頃になって、もう少し指導の勉強がしたくなり、ドイツから戻ってきた先輩に「海外で勉強したいんですが、どんな感じですか?」と聞いたら、当時はケルン大学が有名で、日本人が20人位いると。それじゃ面白くないと思い、スペイン行きを選びました。

――今でこそスペインにもたくさん日本人指導者がいますが、当時はほとんどいなかったですよね?

村松尚登 いなかったですね。日本人が少なくて、自分の好きなサッカーをやっているところを探そうと思いました。当時はアヤックスが有名だったから、オランダに行きたいと。でも、ライセンス関係の情報を調べていて(疑問に思う部分があったので)あきらめました。

で、どうしようかなという時に、BSで1カ月前のバルセロナの試合を録画で放送していて、バルセロナのサッカーが面白いなと。そこでいろいろ伝手を探してバルセロナの情報を集めたら、バルセロナには羽中田昌(サッカー指導者)さんだけだったんです。ドイツが20人いて、こっちは1人。外国人でもスペイン人と同じライセンスが取れると。じゃあ行こうと決心しました。

――行ったのは何年ですか?

村松尚登 96年です。大学卒業と同時に準備したりしてから、夏休みに行きました。

――バルセロナに渡って当初の様子を振返っていただけますか?

村松尚登 そもそも海外に行くのが初めてでしたが、向こうで知り合った日本人にお願いされて、日本の少年チームのバルセロナ遠征をコーディネートする手伝いなどもしていました。サッカーの遠征なので、サッカー関係者がいた方が良いし、スペイン人に指導してもらう時に通訳がいた方が良いということで。来て半年だったので実際に通訳できていたかというと、あんまりできてないんだけど(苦笑)。当時は日本にバルセロナとのネットワークがなかったので、重宝されたのだと思います。

――そうした生活と平行して、あくまでも指導者としての活動に主軸を置きながらやっていたと。

村松尚登 コミュニティを広げるという意味では、色々なお手伝いをさせてもらいました。コーディネートの補助をはじめ、日本人補習校の先生や、エキストラのお手伝いも。エキストラでは結構良い仕事が貰えて、フェルナンド・イエロ(元スペイン代表/元レアル・マドリード)を柔道で投げるなんてこともしました(笑)。スペイン紙『マルカ』のコマーシャルで。

――柔道家?イエロを投げた男ですか?!

村松尚登 大外刈で投げたと思います(笑)。

――面白い話が尽きませんが、サッカーの指導に戻りましょう(笑)。指導は何処かのチームに所属して行っていたのですか?

村松尚登 スペインに来て3カ月くらいは、公園で子どもと遊びつつチームがないかなと探していました。すると、たまたま紹介の話が出てきました。3カ月なので言葉はあまりできませんが、コーチの勉強で来ていると伝えたら、相手が「ちょうど良かった、14歳のチームのコーチがいないから、やるか?」みたいな。

語学学校の宿題をやる前に練習メニューを考えて、練習を指導するにはどんな文章が必要かを考えて用意しました。学校の先生に「横一列に並べ!」ってどう言うの?とか聞いて。「こっちが合図したら2人出てこい」とか。

――そこではどのような立ち位置で指導にあたっていたのですか?

村松尚登 街クラブの監督をしていました。各クラブが学年毎に分かれているから、どこかのチームの監督をやりつつ、マンパワーが足りないから同じクラブの他チームのアシスタントコーチもやると。

大学で学んでいた知識があったので、フィジカルトレーニング系は結構やりましたね。ウォームアップをやっていると、面白いことやってるね、ウチのもやってと。街クラブの指導者も手を抜きたいのもあるし、試合の時に怒鳴りたいから、そういった細々としたものは手を抜きたいんだろうね(笑)。結果として、街クラブのほぼすべてのチームのフィジカルコーチを経験しました。

――大学での知識を活かしつつ、自分の特色を出していったということですね。その期間はどれくらい続いたんですか?

村松尚登 2001年か2002年までかな。5年ちょっと。冒頭に話した遠征のコーディネートとかもやりながらね。大変だったけど。そうやって、街クラブで指導をやりつついろんなところに顔を出していました。

その流れで、2006年にバルセロナスクールに入れたという感じです。いろんな街クラブに行ったことで、現場でも指導者仲間の伝手がありました。あとはコーチングスクールのクラスメイトのネットワークが大きかったんです。

日本人初のバルセロナスクールコーチ就任。世界最高の育成モデルを体感

――現地指導者との交流が、バルセロナスクールで働くきっかけになった訳ですね。コーチングスクールの同級生との出会いがターニングポイントになったと聞きましたが。

村松尚登 当時バルセロナのカンテラのコーチをやっていた一人が、コーチングスクールのクラスメイトでした。彼が2006年の時にバルセロナスクールのテクニカルディレクターに就任しました。現地校の統括責任者ですね。今はオーストラリアの1部リーグで監督をやってるのかな?

その彼が、新シーズンを始めるにあたり何人かコーチを入れるといった時に連絡をくれたんです。スクールで教えない?と言われて、喜んで!と。で教え始めたのが2006年です。

――なるほど。実際に入ってみて、バルセロナスクールで感じたことなどあれば。

村松尚登 僕が入った時は20数人がスクールのスタッフで、子どもの数は400から450人。バルセロナっぽい、統一感を持った指導ということで練習メニューも決まっているんです。カンテラのメニューとほぼ同じものをその年代でやると決まっていて、練習メニューが渡されるんです。3つのカテゴリーに分かれていました。U-8、10、12。日本でいう小学生の6年間を対象にしたスクールです。2年ずつで区切られたチームがあって、毎月のテーマは決まっているんだけど、カテゴリー毎に練習の難易度が違うメニューを渡される。毎週2回の練習があるから、月だと8回。それぞれのカテゴリー毎に、1回の練習毎に渡されたメニューを行います。

でも、そのメニューにも被りがあるので、どう現場で展開するかはコーチに委ねられている。スタッフでの勉強会がたくさんあるわけではないけど、バルセロナのトップスタッフによる研修もあったりするから、20人がなんとなくバルセロナっぽく指導できちゃう。俺でもバルセロナっぽくやっちゃう。練習メニューがバルセロナっぽいわけではなく、そのメニューをいかにバルセロナっぽくプレーさせるかなんです。向こうで生まれ育ってバルセロナのサッカーを見ていたらできてしまう現実が、すごい面白かった。他の街クラブでは練習メニューを渡されたことなんてないし。

――「バルセロナっぽく」というのは面白いですね。具体的な指導も大事でしょうけど、ある意味で抽象的なイメージに近づけていく感じでしょうか。

村松尚登 結局はプレーモデル、プレースタイルをどう選手に伝えるかなんです。しかもそれは1チームの20人に伝えるのと、6歳から20歳、30歳のプロの選手までクラブとして統一感をもたせる場合、簡単な話じゃない。街クラブでは各年代で違うプレーをしていても問題ないけど、バルセロナは違う。

その統一感をチームだけでなくクラブとして持たせることで、選手育成としては一つの深みが生まれる。バルセロナみたいにカンテラ上がりの選手がトップチームで活躍できるのは、プレースタイルの統一感があるからです。良い選手というのが漠然とした定義なのに対して、バルセロナの場合は“バルセロナのトップチームにとって良い選手”が定義になる。それがカンテラの指導スタイル。それはサテライトチームだけの話だけでなく、全てのカテゴリーに統一された軸があってはじめて成り立つ選手育成なのかな。

――自由度が無くて閉鎖的な印象を受けなくもないですが、それがバルセロナのスタイルということですよね。

村松尚登 勿論、そこには賛否両論があるけど、その仕組みを直接中から見られたのは面白かった。あそこまで徹底することは難しいのと同時に、徹底することで他クラブとの差別化が図れます。バルセロナのプレースタイルということもあるんだけど、カンテラを含めた長いスパンでの選手育成。今でもその学びは参考になっているし、それが戦術的ピリオダイゼーションにもつながっています。

――戦術的ピリオダイゼーションとは聞きなれないワードですが、まずその理論との出会いから教えてください。

村松尚登 憧れのクラブ、バルセロナスクールで指導できたからやりきったかというと、それは違いましたし、良い部分もそうじゃない部分もあるわけです。その時戦術的ピリオダイゼーションという理論を知って、自分の中で腑に落ちた。モヤモヤしていたもの、理論的になぜそうなっているのか分からなかったものが、その理論で繋がっていきました。

ちょうど、バルセロナスクールで指導していた時にスペインで戦術的ピリオダイゼーションの本が出ました。その本が出版される前の原稿を、コーチ仲間が教えてくれたんです。元々コーチングスクールの仲間で、当時彼はスポーツ出版社の副業をやっていた。この本出すんだけどめっちゃ面白いからって。彼はその後、バルセロナのサテライトチームのゲーム分析で入って、そこでルイス・エンリケと意気投合して、それからずっとアシスタントコーチの立場でルイス・エンリケと一緒に働いています。

その後の指導者人生を方向付ける、ある「理論」との出会い

村松尚登(むらまつ・なおと)

大学卒業後単身スペインに渡り、街クラブで指導しながら、バルセロナのスクールコーチに就任。その時戦術的ピリオダイゼーションに出会い衝撃を受け、それをコーチとして活かす決意をする。その後、バルセロナスクール福岡校の立ち上げに携わるため、日本に帰国。2012年、水戸のジュニアユースのコーチに就任。2015シーズンは同チームのスクールを担当。

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