2017.05.02

日本代表の未来を切り開いた“ジョホールバルの夜”から20年、ロシアW杯アジア最終予選突破へいまこそひとつになる時

サッカー日本代表が初のW杯出場を勝ち取った“ジョホールバルの歓喜”からまもなく20年を迎える
スポーツライター。日本代表の国際Aマッチは、2000年3月からほぼ全試合を現地取材。

 いつ、どこで、どのように記憶を掘り起こしても、無条件に胸が高鳴る。1997年11月16日は、日本サッカーにとって忘れることのできない一日だ。

 長い、長い、長い、夜だった。

 中立地マレーシアのジョホールバルを舞台とした1998FIFAワールドカップ・アジア最終予選の第3代表決定戦で、日本はイランと対峙する。現地時間21時03分にキックオフされた一戦は、2時間が経過しても決着がつかない。2対2のスコアで、延長戦へもつれるのだ。

 およそ2カ月に及ぶ最終予選のグループリーグを戦ってきた末の一発勝負──この試合に敗れたチームは、当時オセアニア連盟所属だったオーストラリアとの大陸間プレーオフに臨まなければならなかった──は、フィジカルとメンタルのいずれもがギリギリまで追いつまれていたなかでのサバイバルだった。日本代表の選手の多くが、神経性の胃炎を患っていた。パフォーマンスに悪影響を及ぼしかねない外科的疾患を、抱えていた選手も少なくなかった。

 それでも、弱みを明かす選手はいないのだ。

 エースストライカーのカズこと三浦知良は、最終予選第3戦の韓国戦で臀部を強打していた。司令塔の役割を担っていた中田英寿は、ストレスに起因する皮膚の異常に悩まされていた。

 イラン戦が行われるジョホールバルは、日中から夜まで蒸し暑さが居座り着く。それなのに、チームメイトからヒデと呼ばれる中田は、長袖のトレーニングウェアで練習をしていた。皮膚の変化を気づかれないためだった。

 延長戦後半の118分に決勝弾をあげた岡野雅行は、「嬉しかったというよりも、ホントにホッとしました」と振り返る。「マスコミからはここで勝たないとマズいと言われていましたし、僕ら選手もオセアニア地区とのプレーオフにまわったらキツいだろ、と話していました。結果的に決勝点を決めたのは僕でしたけど、あれは誰でも入るシュートです。ヒデはシュート力があるし、GKが取りにくいところへ蹴るだろうなと思っていたんですけれど、決勝点の場面はヒデのシュートをGKが弾いて、僕の真正面にボールがこぼれてきましたからね」

 延長戦前半からピッチに立った岡野は、日本からやってきたファン・サポーターの大歓声を受けた。最終予選で出場機会のなかった国内屈指のスピードスターが、ついに登場したからだった。期待は最高潮にまで高まった。

 ところが、本人は戸惑いを覚えていたのである。

「僕と同じサブメンバーの本田泰人さんに、『延長戦はどういうルールなんですか』って聞いたら、決めたら終わりだと。決めた瞬間に勝つし、決められた瞬間に負けると。ええっ、それってすごく怖いルールじゃないですかって話していたら、岡田監督に『岡野、延長前半の開始から出るぞ』って呼ばれたんです。しかも指示が、『3点目を入れてこい』なんですよ。僕はあまり緊張するタイプじゃないんですけど、あの試合だけは色々なことを考えました」

 日本中に興奮と感動が駆け巡った一戦の裏側には、長い、長い、長い積み重ねがあった。W杯や五輪のアジア予選突破に苦しんでいた1970年代後半から、日本代表は『キリンカップサッカー』を通してレベルアップをはかってきた。大会黎明期は欧州や南米のクラブと、90年代初頭からは各国の代表チームと激突する国際大会として、日本国内における強化の軸足になってきた。

 アメリカW杯出場を土壇場で逃した93年10月の“ドーハの悲劇”を乗り越え、97年11月に“ジョホールバルの歓喜”へ辿り着いたプロセスにも、もちろん含まれている。価値ある大会、試合を通過点として、日本代表は世界の舞台へ飛翔していったのだ。

 ヴァイッド・ハリルホジッチ監督が統べる現在の日本代表も、6月7日の『キリンチャレンジカップ』から活動を再開する。東京スタジアムにシリアを迎え撃つ一戦は、選手たちに日本代表としての誇りを呼び覚まし、来るべき決戦への試金石となるだろう。ロシアW杯アジア最終予選突破へ向けて、監督、スタッフ、選手、ファン・サポーターがいまこそひとつになる時だ。

文=戸塚啓

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