2018.05.13

【ライターコラムfrom松本】「Jリーグ通算500試合出場」田中隼磨が松本山雅で歩んだ軌跡

金沢戦のキックオフ前に田中隼磨の記念セレモニーが行われ、3人の子どもたちから花束や記念パネルを受け取った [写真]=J.LEAGUE
1978年生まれ、東京都出身。長野県内の新聞社で15年まで勤務し、現在はフリーライターとして松本山雅FCを中心に信州スポーツを幅広く取材。クラブ公式有料サイト「松本山雅FCプレミアム」編集長も務める。

 リーグ戦通算、500試合。

 この記録を達成した歴戦のプレーヤーはいるものの、運動量が求められるサイドの選手としては極めて珍しい。松本山雅FCの田中隼磨は第12節水戸ホーリーホック戦で途中出場し、プロ19年目で節目のピッチに立った。第14節ツエーゲン金沢戦では記念セレモニーが行われ、3人の子どもたちから花束や記念パネルを受け取った。

 思えば、この男のサッカー人生は常に試練とともにあった。故郷の松本を出て、横浜フリューゲルス(当時)のアカデミーに身を投じたのが中学校時代。そこからクラブの消滅と横浜F・マリノスへの統合という激動をユース時代に味わった。

 マリノスで2種登録されてトップ昇格を果たし、1年目からキャリアを積み重ねる。2004年には浦和レッズとのチャンピオンシップを制してJ1初制覇。09年に名古屋グランパスへ移籍すると、翌10年にJ1優勝に大きく貢献した。だが13年シーズン、契約満了を告げられる。J1も含めた複数のクラブからオファーを受けた中でも、田中は生まれ故郷に芽吹いていた新緑に心を奪われていた。

 そもそもJ2で、提示された条件も他と比べれば決して良くはない。だが、そんなことはどうでもよかった。「サッカーのサの字もなかった松本にJリーグのクラブがある」。さらに言えば、マリノス時代の先輩・松田直樹さんをめぐる縁もあった。

 松本でも試練の連続だった。移籍1年目14年は初のJ1に導いたものの、自身はシーズン中の試合で右ひざ半月板損傷。それをひた隠しにしてピッチに立ち続け、昇格が決まった試合で初めてそれが明るみに出た。15年は1年でのJ2降格を味わうと、16年には右眼裂孔原性網膜剥離。一時は選手生命さえ危ぶまれた。

 だがそのたびに、鋼のようなメンタリティーではい上がってきた。そして今季もまさに、試練の真っただ中にいる。通算499試合になった第3節東京ヴェルディ戦を境に、ベンチスタートの日々。偉業にリーチをかけた段階で、まさかの足踏みが続いたのだ。

 「499試合から数試合ベンチで試合に出られないのも、試されていると思っていた。すごく悔しいしつらいけど、それでも絶対に人のせいにはしたくない。試合に出られない責任は自分自身に他ならない。『何でだよ』と思わずに自分が乗り越えればいい」

 出場機会を逃したベテランが不満をあらわにし、チームの後ろ髪を引くケースは珍しくない。だが、この男は真逆だった。日々のトレーニングでは自主的に居残ってクロスやシュートの練習。その姿はむしろ、チームにとって模範的な振る舞いでもあった。「周りがどう感じているのかは周りの人に任せるけど、練習試合でもトレーニングでもやるしかない。それでも出られなかったら自分を責めたい」と話していた。

第12節水戸戦で途中出場し、プロ19年目で通算500試合出場を達成した [写真]=J.LEAGUE

 故郷のクラブに来て5年目。緑色のユニフォームも随分と馴染んだ。「500試合を悔しい気持ちで迎えたのも自分らしいといえば自分らしい。生まれ育った街のクラブで試合出場を重ねていくことがすごくやりがいを感じているし、ただ出るだけじゃなくて内容も追い求めたい。周りは(世代交代のために)『衰えてほしい』と思っているかもしれないけど、俺はそうじゃなくさせたいし、それをピッチで示したい。だからこそ普段の私生活からいろんなことを我慢している」と田中。その闘志はどこまでも熱く、緑色に燃えさかっている。

文=大枝令

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