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第18回日本サッカー殿堂の掲額者が決定…オシム氏、小嶺氏ら4名が選出

2022.07.25

かつて日本代表を率いたイビチャ・オシム氏 [写真]=Getty Images

 日本サッカー協会(JFA)は25日、第18回日本サッカー殿堂にイビチャ・オシム氏、小嶺忠敏氏、北山朝徳氏、綾部美知枝氏の4名を掲額することを発表した。

 これにより、日本サッカー殿堂(日本サッカーミュージアム内地下1階)に掲額された方々は、高円宮憲仁親王および86名と2チームとなる。なお、今回新たに掲額される4名については、投票選考ではなく、特別選考で決定した。

 今後、9月10日(土)の午前中にJFAハウス・日本サッカーミュージアム内ヴァーチャルスタジアムにて開催予定の第18回日本サッカー殿堂・掲額式典が行われる予定となっている。

 それぞれの掲額理由については、JFAは下記のようにコメントを発表した。

■イビチャ・オシム
1941年5月6日〜2022年5月1日(享年80歳)
サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身

 2003年にJリーグ1部のジェフユナイテッド市原(現:ジェフユナイテッド千葉)の監督に就任すると、低迷していたチームを1年目から優勝を争える強豪に育て上げ、05年にはJリーグヤマザキナビスコカップ(現:JリーグYBCルヴァンカップ)制覇を遂げた。その指導力を高く評価され、06年7月に日本代表監督に就任。病に倒れて在任期間は1年半にとどまったが、同氏が伝えるサッカー哲学、指導理念、指導方法は大きな刺激を与えた。21世紀に入ってからの日本サッカーに多大なる影響を与えたサッカー指導者の一人といえる。

 特にJFAが選手の育成、チーム強化の方針として打ち出している「Japan’s Way」は、同氏が06年の就任時に述べた「日本サッカーを日本化する」という考えに端を発したものである。「世界に追いつくという考え方でいる間は世界に追いつくことはない」という同氏は、それまでネガティブに捉えられがちだった日本人や日本の選手の特徴をポジティブに捉えた。欧州や南米のサッカー大国を追随していた日本サッカー界に対し、「君たちが気づいていないだけで日本のサッカーには素晴らしいものがたくさんある」と勇気づけた。オシム氏の考えと共振して生まれた「日本人の良さを尊重し生かしたサッカーを目指す」というテーマは、これから先の日本サッカーの道しるべとなるものである。

■小嶺 忠敏
1945年6月24日〜2022年1月7日(享年76歳)
長崎県出身

 長崎県の島原商業高校、国見高校を指導して全国的な強豪に押し上げ、高円宮杯や高校サッカー選手権、インターハイなど多くのタイトルを獲得するとともに、高木琢也や三浦淳宏(現在は三浦淳寛として活動)、大久保嘉人など日本代表選手を数多く育て上げた。日本全国を精力的にまわり、強豪チームとの対戦を重ねるなど情熱あるチームづくりは多くの指導者に影響を与え、九州のみならず地方全域のレベルアップに著しく貢献した。

 1993年には日本で開催されたFIFA U-17 世界選手権(現:FIFA U-17 ワールドカップ)に U-17日本代表監督としてチームを率い、日本サッカー史上初となるFIFA主催大会でのグループステージ突破(ベスト8)を果たした。なお、このチームからは宮本恒靖、中田英寿、松田直樹ら後に日本を代表する選手が多く輩出されている。

 また、サッカーの指導以外においても、長崎県サッカー協会会長や V・ファーレン長崎社長などを歴任した。

■北山 朝徳
1947年4月15日〜2019年6月18日(享年72歳)
広島県出身

 日本サッカー協会の国際委員として、南米サッカー連盟(CONMEBOL)、南米の各国協会と強固なパイプを築き、南米に遠征する日本のチームのサポートや南米のチームを日本に招聘するための折衝等に約40年の長きにわたって尽力した。

 特にJクラブや日本代表の強化に北山氏の持つ人脈が大いに生かされ、CONMEBOL コパ・アメリカへの招待、アルゼンチン代表など数々の強豪チームの招聘、有名選手の移籍を実現させた。世界サッカーの過密スケジュールや国際マッチデーのルール変更などにより、代表戦のマッチメイクが年々困難となっている現在も、JFAが南米各国代表を招聘し、国際親善試合が開催できていることも同氏が遺した功績の一つといえよう。

 また、韓国と激しい招致合戦とを繰り広げた 2002年のワールドカップ日本招致活動において、CONMEBOLが終始変わることなく日本を支持してくれた背景には、同氏と連盟の強い絆があった。

■綾部 美知枝
1948年11月4日生(73歳)
静岡県出身

 小学校教員時代に清水市内(現:静岡市)で少年サッカーの指導を始め、清水FCの監督として後に日本代表選手となる長谷川健太、大榎克己、堀池巧らを指導し、1977年には第1回全日本少年サッカー大会優勝(与野下落合SSSと両チーム優勝)へと導いた。

 女性のサッカー指導者の草分け的な存在で、その後も多くの日本を代表する選手を育成した。

 少年サッカーの指導を行う傍ら、清水市で初めての父親チームや母親チームの結成を図り、保護者と少年の育成組織を立ち上げ、サッカーの普及に尽力。長年にわたり清水サッカー協会の理事、副理事長、静岡県サッカー協会の理事として活躍した。

 また、日本サッカー協会においても理事、特任理事として4種と女子を担当し、第4種大会部会長、女子委員会副委員長などを務め、各年齢カテゴリーの女子大会の整備や全日本少年サッカー大会の8人制導入などに携わり、日本のサッカーの普及および育成にも大きく貢献した。

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