FOLLOW US

昔も今もマリノスは僕にとって憧れのチーム…横浜FM・水沼宏太

2020.03.31

チーム合流初日から違和感なくチームに溶け込んだ水沼宏太はトリコロールが似合う [写真]=兼子愼一郎

インタビュー・文=藤井雅彦
写真=兼子愼一郎

僕にとってマリノスは小さい頃から憧れのチーム

――9年半ぶりに横浜F・マリノスに復帰して約3カ月が経過しました。居心地はいかがですか?
水沼 マリノスに帰ってきたという実感がだんだん湧いてきて、居心地はとてもいいです。練習するために日産スタジアムに行くことが多くて、車を走らせていてニッパツ三ツ沢球技場の近くを通る。普段の生活で横浜の街にいることが、マリノスに帰ってきた証だと感じています。

――改めて、再びマリノスのエンブレムをつけた時の気持ちを聞かせてください。
水沼 1月の新体制発表会の時は、ちょっと恥ずかしかったです(笑)。照れくささに近い感情でしたね。でも、以前に在籍していた時から知っているスタッフに「やっぱりトリコロールが似合うね」と言われて、すごくうれしかったです。

――マリノスでのキャリアを振り返っていきたいと思います。水沼選手は中学1年生でジュニアユースに所属しました。
水沼 実は、初めてマリノスのエンブレムをつけてボールを蹴ったのは小学6年生の時なんです。当時はあざみ野FCに所属していたのですが、同時にマリノスのスペシャルチームに入りました。それまで僕はマリノスのプライマリーと試合をするために新子安へ行っていたけれど、ずっと憧れていたチームのエンブレムを自分がつけるのは不思議な気持ちでしたね。

――当時の水沼選手にとっては、対戦する横浜F・マリノスプライマリーはどのような存在だったのですか?
水沼 強かったし、あとは格好良かったです。当時のサッカー少年団にとっては、マリノスに勝てば横浜市で1位になることができるし、マリノスに勝てば県で1位になって全国大会に出られる。マリノスのプライマリーはそういった指標となる存在でした。僕にとってマリノスは小さな頃からの憧れのチーム。もちろん父さんが所属していたからというのも大きな理由で、もし将来プロになれるならマリノス以外は考えられなかった。“横浜”といったら“マリノス”だと思うし、サッカーでずっと育ってきた僕からすると、街でエンブレムを見つけたらうれしい気持ちになりますからね。

――そして中学生になって、ジュニアユースの一員として正式にマリノスに加わったわけですね。
水沼 ジュニアユースでは毎日がワクワクドキドキの連続でした。当時はプロサッカー選手を目指すというよりも、とにかくマリノスの居心地の良さを感じる気持ちが大きかったです。初めてもらったユニフォームは背番号18でした。だから今回、マリノスに帰ってくることを決めた時、あの日の気持ちが蘇ってきて、いくつかあった選択肢の中から背番号18を選びました。

――ジュニアユース時代には試合時にボールパーソンを務めたこともあるそうですね。
水沼 初めてボールパーソンをやったのは三ツ沢球技場でした。プロのスピードや迫力、あとサポーターが応援して盛り上がるスタジアムの雰囲気に興奮したことを鮮明に覚えています。あと覚えているのは、日産スタジアムでの試合でボールパーソンをやった時のことです。当時は延長戦やVゴール方式があったんですが、僕がドゥトラ選手に渡したボールが起点になって、スローインからのボールがつながり、マリノスのVゴールになったんです。さっきまで自分が持っていたボールが試合を決めるゴールに変わった。これって冷静に考えるとすごいことですよね(笑)。実はあの椅子に座っているのって、結構緊張するもんなんですよ。だからプロになってからは、試合の時にできるだけボールパーソンの子どもたちに声を掛けるようにしています。

プロのピッチでともに戦った父・貴史氏の存在

ユースに所属していた17歳の時、2種登録ながらJ1第30節ヴァンフォーレ甲府戦で憧れのトップチームデビュー [写真]=J.LEAGUE

――その後はジュニアユースからユースへと順調に階段を上がっていきました。
水沼 それが……順調ではありませんでした(苦笑)。レギュラーになったのは中学3年生の時で、自分たちの代になってから。それでも交代の一番手のような立ち位置で、チームの絶対的な存在ではなかったです。僕は成長期が遅かったこともあって、中学生の頃はサイズも小さいほうだったし、大人になって父さんと話した時も「プロになるとは思っていなかった」と言っていましたからね。もしユースに上がれなかったら、高校サッカーの選手寮に入るつもりでした。だけど、ギリギリのところでユースに上がれることが決まって。その時はユースに進むことに対して一切迷いませんでしたし、そこからプロを目指すことを決めました。

――ユース時代は年代別代表も含めてトピックの多いサッカー人生を過ごしていた印象です。
水沼 1年生の時は3年生のチームに入れなくて、1年生だけのチームで大会に出ていました。でも、たまたまその大会を世代別代表のコーチが視察に来ていて、それでU-17日本代表に選ばれてからはいろいろありました。U-17ワールドカップも大きな経験だったけど、その時のアジア予選を兼ねたAFC U-17選手権の最中にキャプテンを任されたことも大きかったです。でも、マリノスユースでは好成績を収められていなくて悔しい思いも残っていますね。

――2種登録でトップデビューを飾ったのは高校3年生の10月でした。
水沼 覚えていますよ。ヴァンフォーレ甲府とのアウェイゲームでした。その前の週にBチームの練習試合があって、その試合ですごく調子が良くて全ゴールに絡めたんです。そうしたらリーグ戦のメンバーに入れてビックリしましたから。前泊したホテルの食事会場に(中澤)佑二さんがいて、何をしゃべればいいのか分からなかった(苦笑)。トップの選手とは話したことがなかったですし、練習したのも前日練習の1日だけ。もう始めてのことだらけで、当時は何が何だか……(苦笑)。

――当時のチームの印象を覚えていますか?
水沼 怖かったです(苦笑)。偉大な先輩方ばかりで、練習中からピリピリした雰囲気でした。マツさん(松田直樹)や(河合)竜二さんに言い返したら、その何倍、何十倍も言い返されましたし、佑二さんは何も言わないから、逆にそれが怖かったです(苦笑)。その代わりに、ピッチ外ではやさしい先輩でしたし、その下の年代の(栗原)勇蔵くんやテツくん(榎本哲也)は話しやすかったですね。

――そう言えば、父親の水沼貴史さんがコーチでしたね。
水沼 ウォーミングアップで一緒にボールを蹴ったことを覚えています。僕が2種登録の時にコーチを務めていたので、僕が途中出場した3試合だけ同じチームのコーチと選手という関係でした。父さんとプロのピッチで、しかも同じチームの一員として戦ったのはいい思い出ですね。

――元日本代表でも活躍された父親と同じ職業に就くことへの抵抗はなかったのですか?
水沼 全くありませんでした。僕は父さんもマリノスも大好き。だから父さんの存在は大きなモチベーションになりました。同じ職業だけどプレースタイルは違うし、父さんは僕にできないプレーができて、反対に父さんも僕のことを褒めてくれることもあります。比べられる怖さよりも、比較されてうれしいし、光栄です。もちろん“二世”でいる難しさを感じた時期もあったけれど、あまり覚えていないのは自分で記憶を消したからなのかもしれませんが(苦笑)。

――父親の水沼貴史さんと言えば、クラブのレジェンドプレーヤーの一人です。肩を並べたいという思いも?
水沼 僕はまだまだ父さんに追い付いていないので、いつか肩を並べられるように頑張りたいですね。マリノスの歴史を振り返る映像には必ず父さんが出てくる。僕もそこに登場したいですし、それが今、マリノスに帰ってきてからの目標なんです。

――水沼選手にとって横浜F・マリノスはどんな存在ですか?
水沼 憧れのチームです。僕は小さい頃、父さんがプレーしていた日産自動車サッカー部のユニフォームを着ていたぐらいですから(笑)。それから父さんが引退する試合では、マリノス君に抱っこしてもらいました。5歳で抱っこしてもらった選手はなかなかいないでしょう(笑)。でもトップチームでの在籍時間はあまり長くないですし、マリノスの一員として本当の意味で活躍するのはこれからです。

――発する言葉の端々からマリノス愛を感じますね。
水沼 昔いた選手の名前や、過去に在籍した外国籍選手の名前もほとんど言えますよ。だって、そもそも僕はマリノスのファンだったから。ユース時代に小机競技場(現・日産フィールド小机)で試合が終わった後に日産スタジアムのゴール裏で応援したこともあります。コールリーダーの横に入れてもらって。そうしたら、その2カ月後には自分がその舞台でデビューしたんです。マリノスには歴史と伝統があって、昨シーズンは15年ぶりの優勝を果たした。だからこそ、こうやって書籍としてまとめてもらえるんだと思います。ありがたいことに僕もちょこっとだけ登場させてもらっていますが、そういった伝統と歴史あるクラブの発行物の第2弾、第3弾にしっかりと自分の名前を刻めるように、これからさらに頑張っていきたいですね。
 

昨年、15年ぶりのJ1制覇を成し遂げた横浜F・マリノスの知られざる激闘の歴史と秘話が満載!
『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』
著:藤井雅彦/発行:ワニブックス/発売日:3月31日/定価:1500円+税

 

SHARE

LATEST ARTICLE最新記事

SOCCERKING VIDEO