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森重真人(FC東京)「我慢とたゆまぬ努力が生んだ、ゲームの支配者」

2012.09.21

Jリーグサッカーキング10月号掲載】

 

子供の頃から、何度も思った。「前のポジションの方がいい」と。

ボールを蹴る愉楽を知っている者なら、当然の思いだ。

前のポジションの選手は、ミスを自分のワンプレーで取り返すことができる。

自らの力でゴールをこじ開ければ、あるいは得点に絡みさえすれば、周囲は黙る。

だから森重は追い求める。攻撃ができるDF像を。

 

インタビュー=浅野祐介

 

写真=藤巻祐介

 

イヤだったボランチ転向、しかってもらったから、今がある

 

森重選手がサッカーを始めたきっかけから聞かせてください。 

 

森重 2歳年上の兄がサッカーをやっていたのがきっかけでした。誘われたわけではなく、公園で遊ぶからサッカーボールを持って行こう、という感じでごく自然にサッカーをしていました。

 

子供の頃は、どのような少年でしたか?

 

森重 やんちゃでした。「あんたが家にいたらしんどいから、外に遊びに行け」と親に言われるような子供でしたからね(笑)。だから、子供の頃の思い出も外で遊んでいることくらいしかないですね。サッカーだけじゃなく、野球やソフトボールも夢中になりました。ソフトボールは町内会のチームに入っていたこともあるんですよ。それから大きくなるにつれて少しずつ、サッカー一本になっていきましたけどね。

 

サッカーを始めた頃のポジションや当時のプレースタイルについて教えてください。

 

森重 小学校3年生の時にチームに入って本格的にサッカーを始めたのですが、その時は体が大きいのでGKをやっていました。GK、好きでしたよ。ピンチを防ぐセービングをする、っていうのが好きでしたね。その後、4年生くらいからFWになりました。

 

その頃憧れていた選手はいましたか?

 

森重 あんまりいなかったような気がします。どちらかと言うと、テレビでサッカーを見るようなタイプではなかったので。記憶にあるのは、家族みんなでサンフレッチェの試合を見に行った時に高木琢也さん(現/ロアッソ熊本監督)に握手をしていただいたことです。すごく鮮明に覚えていますね。

 

その後、高陽FCに移ります。これは何年生の頃のお話ですか?


森重 5年生の時に転校したことがきっかけですね。高陽FCは全国大会に出場するような強豪チームで、そこでプレーさせていただいたことは非常に良い経験になったと思います。

 

その時に記憶に残っている練習などはありますか?

 

森重 基礎練習が一番記憶に残っています。2人組でリフティングをしたり、パス回しをしたり、ということがほとんどでした。リフティングの数を競い合う練習もありましたね。それから僕の家の前がちょっとした広場になっていたので、そこでみんなで集まってドリブル練習をしていました。その頃は点取り屋だったので、ドリブルが得意でしたよ。小学校の時は(笑)。

 

森重選手は中学校の時に、サンフレッチェ広島のジュニアユースに加入します。そのきっかけは、何だったのでしょう?

 

森重 自分から積極的に「中学からはジュニアユースでやりたい」と言っていたわけではありませんでした。監督に「受けてみたらどうだ」とおっしゃっていただいたのがきっかけです。テストに合格した後は、割と違和感なくスムーズに入れたと思います。小学校時代に選抜チームで一緒にやっていたチームメートも何人かいましたしね。プロの育成組織であるチームに入ることができたのはうれしかったです。

 

実際にプロ選手になりたいと具体的に思い始めたのはいつ頃のことでしょう?


森重 小学生の頃から漠然と「プロになりたいな」とは思っていました。ただ、本当に意識し始めたのは、やはり広島のジュニアユースに入ってからになりますね。当時は槙野智章(現浦和レッズ)と2トップを組んでいました。その後、すぐに槙野はDFにコンバートされたので、2トップを組んでいる期間は短かったです。僕も中学校3年の頃にはボランチにポジションが変わっていました。FWを続けたかったので、最初は「イヤイヤ」でしたけどね。ただ、結果的にその時の経験がなかったら、今の自分はなかったと思うし、それはとても感謝しています。でもね、最初は本当にイヤだったんですよ、ボランチが。当時からサッカーノートを書いていたんですけど、監督に向けて「監督、やっぱり僕はFWがやりたいです」って書き留めていましたからね。

 

広島皆実高時代に心に残っていることがあれば、教えてください。


森重 選手権には高校1年の時しか出ていないですし、どちらかと言うと悔しい思いをしたことのほうが多かった気がします。そしてよく監督にしかっていただきました。自分は1年の時から試合に出ていたので、要求も高かったですし、今振り返るとついていくだけで必死だったような気がします。あれだけしかっていただいたから、やはり今の自分があると思います。そして、ユースに上がることができなかった、という悔しい経験も。ああいうことが全部なかったら、「今自分は、何をやっていたんだろう」って、たまに思います。

 

広島皆実高というと文武両道でも有名です。勉強はどうでしたか?


森重 最低限のことはやりましたよ。サッカー部は、テストで悪い点を取ると、丸坊主になるっていうルールがあったんですけど、僕は一度も坊主になりませんでしたからね(笑)。坊主だけは、それだけはイヤだったので。

 

写真=足立雅史

 

チームとして戦うことの大切さが、今では分かる

 

 

プロ入り後に話を移させてください。2006年に大分トリニータへ加入しました。ルーキーイヤーはリーグ戦で2試合に出場しました。

 

森重 勉強だらけの1年でした。プロだから厳しいというのは当然予想していましたが、頭で想像するよりも、実際に体をぶつけてみて、プロの厳しさを感じましたね。1年目なんてまだまだ若いので、その日によって、調子の波がものすごいんですよ。昨日は調子良くできていたはずのことが、今日は全くできなかったり、という1年間でした。でも先輩たちのプレーは毎日安定しているんですよね。本当に勉強になった1年でした。練習前から、練習は始まっているんですよね。なるべく早くクラブハウスに来て、練習に向けての準備をしたり、体をほぐしたりしている。そういうことをすべて一から勉強させていただきました。って、謙虚に今では言っていますけど、「荒れていたな」とも思いますよ。試合になかなか出ることができなかったから、すぐ監督の文句を言ったり(苦笑)。

 

大分ではセンターバックでの出場が多くなりましたね。


森重 そうですね。2年目はシャムスカ監督だったのですが、シャムスカさんになってから「ボランチよりもセンターバックの方が生きる」とコンバートされました。コンバートはこれまでもあったので「これは自分が成長できるチャンスかもしれない」と監督を信じて受け入れました。監督を信じた結果、2年目の途中から試合にもコンスタントに出れるようになりました。それからは、もうすべてが楽しかったですね。楽しかった、というよりも毎日が新鮮で、考える暇がなかったというほうが正しいかもしれません。

 

10年にFC東京へ移籍します。今改めて森重選手がFC東京に移籍を決めたきっかけはどういうところにあったのでしょうか?


森重 移籍前に3チームの監督さんとお話をさせていただいたんです。その時に、「厳しい環境に身を置きたい」と思ったのが動機の一つですね。当時の城福浩監督が、徳永(悠平)さんにも、今野(泰幸/現ガンバ大阪)さんにも、怒る時はすごい剣幕で怒るというお話をされていて。自分も厳しく言ってくださる監督さんがいいと思ったので東京を選ばせていただきました。やっていたサッカーが魅力的だったのも、動機の一つになりましたね。

 

しかし、この年は残念ながら降格を経験してしまいます。その時の率直な心境を教えてください。 

 

森重 歯がゆかったですね。自分自身も安定したプレーができていなかったと思いますし、チームに迷惑を掛けてしまったり、自分のせいで負けてしまったこともたくさんありました。自分の力を買ってくださった城福さんにも申し訳なかったです。最悪な一年になってしまいましたね。10年のシーズンの反省を生かして、何としてでも1年でJ1に復帰しな
ければと思いました。チームとしてもJ1復帰という明確な目標があったので、そのためのチーム作りを選手間で何度も話し合いました。J2でしたが、自分の中では最も考えながらサッカーをやった一年、これまでで最も充実した一年になったかなと思います。その結果として天皇杯優勝というタイトルも付いてきました。《過信》ではなく、《自信》ですよね。うちのチームには、力のある選手がいる。チームとして力を出すことができれば、もっともっと強くなることができることが身に染みて分かりました。

 

今シーズンは、AFCチャンピオンズリーグという新しい戦いの舞台も加わりました。残念ながらベスト16という結果に終わってしまいましたが、振り返ってみると、あの経験はどんなものになりましたか?

 

森重 日程と移動が厳しいことは分かっていましたが、やってみたら疲れよりも楽しさの方が勝っていました。相手チームもそれぞれ明確なスタイルを持っていましたし、「相手に合わせる」というやり方をしないチームと試合をすることができたのは、やはり楽しかったですよ。ただ、結果を残せなかったという意味ではやはり未経験の部分が出てしまったかなと感じています。

 

今後、FC東京がアジアでトップクラスのチームになるためには、どういったことが必要になるでしょうか?


森重 一言で言うと《勝負強さ》という言葉になるかもしれませんね。やはり《勝ち切れない》というイメージが、まだまだ自分の中ではあります。内容は良いのに、圧倒しているのに、勝ち星を落としてしまったりすることがまだまだ多い。それは、今シーズンプレーしていても、まだまだ思うことです。一時期の鹿島アントラーズのように、《内容が悪くても、勝つ》というスタイルまで突き詰めていきたいですよね。それさえできれば、東京は絶対に優勝する力を持っているチームなので。

 

当然、森重選手個人としては日本代表を視野に入れていかなければならない選手だと思います。


森重 年代別の代表、U‐17、U‐20、オリンピックと呼んでいただいていますが、やはり日の丸を着けてプレーするのは特別なことです。気持ちの張り詰めから来る疲労感もやはり違います。日本代表にも岡田武史さんに一度呼んでいただきましたが、自分はまだ練習に呼んでいただいただけです。目標はブラジル・ワールドカップに出ることですし、そのために何をしていかなければいけないかも分かっています。その目標から逆算して、毎日必死にやっていきます。

逆襲のガンバ ~大阪の力を一つに、いざ万博蹴結~ Jリーグサッカーキング2012年10月号

逆襲のガンバ ~大阪の力を一つに、いざ万博蹴結~

 8月24日発売のJリーグサッカーキング10月号は、リーグ後半戦での巻き返しを誓うガンバ大阪を大特集! 巻頭はチームの大黒柱である遠藤保仁選手のロングインタビュー! チームが上昇するため、“常勝ガンバ”に戻るために必要なことを語ってくれました。そしてガンバの前線を担う2人のブラジル人ストライカー、パウリーニョ選手とレアンドロ選手の対談にも注目。こちらもチームに対する思い、勝利に対する2人の思いが詰まった対談となりました。また、古巣を救うべく帰ってきた家長昭博選手は、いかなる思いでガンバへ舞い戻ってきたのか、そしてガンバで挑む新たなチャレンジについて言及。チーム全選手を紹介してくれた加地亮選手はチームメートの知られざる秘密を教えてくれました。  また、今回は同じく大阪に拠点を置くなでしこリーグのスペランツァFC大阪高槻にもスポットを当てています。なでしこジャパンの丸山桂里奈選手、ヤングなでしことして活躍する浜田遥選手、8月に就任した本並健治新監督のインタビューなど注目記事が満載です。ぜひ、ご一読ください!

   
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