2015.12.04

広島にサッカースタジアムが建設されないのは、なぜなのか? 苦闘の歴史を詳細に振り返る

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2015年Jリーグは明治安田生命チャンピオンシップ(CS)決勝第二戦、J1昇格プレーオフ、J2・J3入れ替え戦の開催を残すのみとなった。12月2日に行なわれた一戦でサンフレッチェ広島はガンバ大阪を相手に劇的な逆転勝利(3-2)、完全優勝に王手をかけた。まさに佳境を迎えているJリーグだが、サンフレッチェ広島も実は、クラブ経営上において正念場を迎えている。ご存知の方も少なくないと思うが、サッカースタジアム建設を巡る様々な問題だ。

森保一監督就任以来、ここ4年で2度のリーグ優勝(2012年、2013年)。2ステージ制に移行した今年もセカンドステージ優勝、年間勝点1位。たとえCS決勝でG大阪に敗れたとしても、彼らと並び今年のベストチームと称することに異論がある人は少ないだろう。年間予算ではJ1中位に過ぎないチームとして、十分過ぎるほどの成績だといえる。

にも関わらず、クラブが置かれている状況は厳しい。それについて説明するには、本拠地・エディオンスタジアム広島、正式名称「広島広域公園陸上競技場」の状況から解説する必要がある。

広島広域公園陸上競技場は1992年アジア大会のメインスタジアムとして建設された陸上競技場であり、ピッチとの間に8レーンの陸上トラックがあるため臨場感に乏しい。公共交通機関はアストラムラインというモノレールが通っているが、広島駅から最寄り駅はゆうに1時間はかかる。市内・県内・県外からのアクセスは貧弱で、大半の(約6割強)はマイカーを利用するが、専用駐車場は存在しない。

さらに周囲には住宅用地として開発された臨時駐車場が用意されるものの、用地は年々スタジアムから遠ざかり、近年では臨時駐車場とスタジアムを結ぶためのシャトルバスが必須。その経費は1試合数百万円かかり、クラブの経営を圧迫している。こうした状況で、損益分岐点とされる1万5000人の集客を毎試合達成するのは至難の業だ。

しかし、疑問に思う方も多いのではないだろうか。「なぜ、サンフレッチェ広島がこれほどの結果を残しているのに、広島市にはいつまで経ってもサッカースタジアムが建設されないのだろう?」と。この議論について、実は他チームのサポーターだけでなく、当の広島サポでも正確な経緯を把握している層は少数派だ。それほど、この問題は長年の宿痾(しゅくあ)として、根深く広島に残ってきた。

そこで、今回はこの問題を長年追い続けてきた広島サポーターであり一級建築士の『またろ』氏に、改めて経緯を振り返って整理していただいた。

またろ氏は姉妹サイトである「アスリートナレッジ」でも何度か登場いただいているが(参照/参照)、某ゼネコンに勤務する、建築のエキスパートだ。当然ながら建築とは、単に建物を作れば終わりという単純なものではない。様々な利害関係者や法令、予算などを踏まえながら、調整に調整を重ねて達成するもの。こうした都市デザインに関する議論を読み解く上で、プロの建築家に解説を依頼するのは、実は理にかなった話なのだ。

それでは、早速ご覧いただこう。(寄稿日:2015年11月30日)

■発端は2003年にさかのぼる

サンフレッチェ広島がセカンドステージ優勝及び年間勝ち点1位を決めた11月22日のエディオンスタジアムでの一戦で、「スタジアムは市民球場跡地に」という横断幕が張り出されました。地上波中継もあり、多くの人が目にしたことと思います。

もちろんこの横断幕に対しては様々な意見があったことと思います。しかしこの横断幕がクラブの暗黙の了解のもと、サンフレッチェの重要な試合に掲示されるのには、相応の意味と理由があるのです、長いスタジアム検討の歴史とともに。ここで広島におけるサッカースタジアム検討の歴史を振り返り、現時点で何が問題となっているのかを検証してみたいと思います。

広島のサッカースタジアム検討の動きは、2003年にさかのぼります。この前年の2002年日韓W杯の招致に広島が失敗した直接の原因は、広島広域公園陸上競技場の屋根がメインスタンドにしかなくFIFAのスタジアム基準に合致していなかったから、とされています。

この失敗と2002年日韓W杯の盛り上がりをきっかけに、2003年の広島市長選で当時の現職の秋葉忠利市長が2期目の選挙でサッカースタジアム実現を実質的に公約に掲げて再選したことから、県・市・財界・県サッカー協会そしてサンフレッチェ広島を中心に「広島サッカー専用スタジアム推進プロジェクト」が立ち上がります。

ただここでの議論は、まさに茨の道。県サッカー協会やサンフレッチェ広島は「サッカー専用スタジアムとは」という説明から始めなければいけない状況でした。『推進プロジェクト』とは名ばかりで、実態は検討組織。さらに、自治体の役人は4月になると人事異動で担当が変わるため、またイチから説明をし直さなければならない……こうして時間だけが浪費された結果、閉鎖の決まった広島市民球場跡地のほか、全五カ所の候補地を決めるところまでで会議はとん挫。座長を務めていた今西和男GM(現・吉備国際大学教授)は、チームが2002年にJ2降格したことの責任を取り、傷心のなかで広島を去らなければならなくなりました。

具体性に乏しい指摘により、落選

さらにその後行なわれた2006年の広島市民球場跡地のコンペにおいて、県サッカー協会とサンフレッチェはサッカー専用スタジアム建設案を提出しました。しかし他の数案のサッカースタジアム案とともに、「大規模建築は周辺の回遊性を阻害する」という具体性の乏しい指摘により落選。これにより一時、サッカースタジアムの道は閉ざされた形となりました。

当時はJ2降格もあり、今西氏もクラブから去り、サンフレッチェ広島のチーム状況も安定せず、市民の注目はカープの新広島市民球場に向いており、なかなかサッカースタジアムへの機運も高まりにくい状況下にありました。そんな中でも広島市民球場跡地のコンペが最優秀なしという不調に終わったことで、市民の中から再度広島市民球場を再活用するサッカースタジアム案などが提示され、市民球場跡地の活用方法についてもいくつかのシンポジウムが開かれるなど、草の根レベルでサッカースタジアム検討の動きは続けられました。

当時、草の根でサッカースタジアムと旧広島市民球場の保存活用を両立するコンセプトで活動していたのが、私も参加している『ALL FOR HIROSHIMA』という団体でした。出資者である行政との関係上表立って活動しにくかったクラブに対し、様々なチャンネルでコンタクトをしながらスタジアムの為に必要な要素、いわゆる「スタジアム学」を積み上げ、市民球場保存活用というテーマでは、完全に非公式団体ながら自力で3万近い署名を集め、市議会にも請願の提出をしました。しかし最終的にはその願いもむなしく旧市民球場の解体が決まり、サッカースタジアムの夢は再度消えかけました。

跡地の活用策が決まらない中で旧広島市民球場の解体が紆余曲折の中でも進められ、広島復興のシンボルがその姿を消そうとする中で、2011年、3期にわたる秋葉政権が終えんし、新しい市長の時代が来ました。松井一實・現市長の時代です。松井市長は新人としての市長選では、広島市民球場跡地へのサッカースタジアム建設についても一つの案として是認し、「若者が輝ける計画」を進めることを公約に市長に当選します。市長は公約をもとにそれまでの広島市民球場跡地の開発方針を白紙撤回し、市民代表、学生なども含めた旧広島市民球場跡地委員会を立ち上げ、その中で活用の方針を模索することとなりました。

この委員会は委員の数も多く、その知識についてもまばらであったことから、まず市民球場跡地の法的条件をまとめ、考えられる公共施設をすべて検討することから始めざるを得ず、まとまりを欠く論議を続けましたが、地元の商店街から「サッカーを中心とした複合用途スタジアム」という案が、かなり具体的に提示され、そこから検討が加速化しました。

ただ具体的であった分、サッカースタジアム建設の問題点を指摘されるという理不尽さもあり、委員からは緑地広場、文化施設という活用案も併せて提示され、2年以上の年月をかけた末の結論として「スタジアム」「緑地広場」「文化施設」という3つの機能での答申となりました。これをうけ、松井市長は「基本路線は『緑地広場+文化施設案』ただしサッカースタジアム検討の動きもあるので、この検討組織の答申をもって最終的に決める」という方針を出しました。

このサッカースタジアム検討の動き、というのが、2012年のサンフレッチェ広島のリーグ初制覇に端を発し、再度県サッカー協会とサンフレッチェらがタッグを組み署名活動を軸に始めた『START FOR 夢スタジアムHIROSHIMA』プロジェクトと、広島県・広島市・財界が最終的には40万を超える署名に押されて始めた「広島サッカースタジアム検討協議会」です。まさにクラブと選手とサポーターが力を合わせて実現したリーグ制覇と30万の署名を元に、やはり広島にはサッカー専用型のスタジアムが必要という流れを引き寄せた形で、公式な形でのサッカースタジアム検討が再起動したのです。

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