2015.03.30

水沼宏太(サガン鳥栖)|息子が父親を凌駕する瞬間~父から息子へ継承されるもの~

サッカーノンフィクション
言葉のパス ~ぼくのサッカーライフ~
水沼宏太
文●川本梅花 写真●Getty Images

はじめに

 この物語は、現在、サガン鳥栖に所属する水沼宏太が、サッカーを始めたときから、2011年に栃木SCにレンタル移籍していたころまでが描かれている。取材は、水沼本人と彼の父でサッカー解説者である水沼貴史氏におこなった。

 元日本代表だった父をもつ水沼は、2世のプレーヤーという看板を背負って子どものころから人生を歩んできた。時には世の中の心ない人々の誹謗中傷された声に傷つき悩み苦しんだ。しかし、そうした世間の目に対して、水沼はプロスポーツ選手として結果を出しはね除けている。

 僕は水沼宏太と話していて感じたことは、こんなに素直な性格のサッカー選手がいたんだ、ということだった。子どものころからサッカーをやってきて、ものすごい競争の中から勝ち抜いて残った選手がJリーガーになれる。その先にも、試合に出られるのか出られないのかという熾烈な争いが待っている。そんな世界の中で生き残った選手だけが、生活の糧をサッカーでまかなえるようになる。名前が売れてお金も入れば女の人だって寄ってくるし遊びの誘惑だって増えてくる。そうしたことにきちんと整理をつけて、サッカーに向き合うことは、よっぽど芯のしっかりした人間にならないと実は難しいものだ。

 水沼はメンタルがしっかりしている。彼の発言の中に迷いとかブレとかはない。自分が発した言葉がどれだけの影響力があるのかを自覚している。だから、彼から人を妬んだりひがんだりした言葉を聞かなかった。

 この物語には父と歩んできた彼のサッカーが書かれている。

 25歳になった彼が、選手としてどのようにレベルアップして、人間としてどれだけ成長したのか、今後も注目していきたい。

買ってもらえなかった日本代表のユニホーム

 ナイター設備のないグラウンドは、数台の車のヘッドライトに照らされてオレンジ色に染まっている。あざみ野FCのサッカー少年団に所属する子どもたちが、車から放たれる光を頼りにボールを蹴り合う。

 練習が終わると、水沼宏太は父の貴史のそばに歩み寄る。

「日本代表のユニホームがほしいから買ってくれる?」
 と、水沼は父に頼み込む。
「ダメだ」
 と、父は即答する。
「代表のユニホームは自分の実力でとるものだから。自分で最後に着られるようになればいいだろう」
 そう言って、帰り支度をはじめた。

 水沼が小学校のころに所属していたあざみ野FCは、子どもたちに自分たちが好きなチームのユニホームを着せて練習させていた。水沼は、父の貴史が着ていた日本代表のユニホームをせがんだ。しかし、貴史は息子の頼みを断った。

「練習のときに好きなユニホームを着られるのは、子どもたちのモチベーションになるので、悪いことではないと思います。でも僕としては、代表のユニホームは買って与えるものではなくて、自分の力で勝ち取って最終的に着るものという認識がありました。確かに、代表のユニホームを着られれば、1つのモチベーションになるけれども、将来の夢のためにとっておくほうがいいと考えたんです。まあ、『代表のユニホームを買ってあげるよ』と素直には言えないところもあったんですけどね」
 と、貴史は当時を思い起こして語った。

 水沼の父の貴史は、浦和市立南高等学校(現さいたま市立南高等学校)出身で全国高校サッカー選手権では優勝経験があり、その後、法政大学に進学して総理大臣杯を勝ち取る。さらに、日産自動車サッカー部に入団して木村和司(現横浜・F・マリノス監督)や金田喜稔(サッカー解説者)らと共に日産の黄金時代を築いた。また、日本代表でも活躍して、ワールドカップ・イタリア大会のアジア予選、対北朝鮮戦での同点ゴールは多くのサッカーファンの記憶に残っている。怪我などにより満身創痍の体の中、1995年に惜しまれながら引退した。

 水沼は、「サッカーをはじたのは、たぶん、父の影響です」と話す。ボールを最初に蹴ったのは1歳の時だった。自宅にあったクッションボールを相手にしていた。3歳になって家の近くのサッカーチームに入る。1993年は、ちょうど日本初のプロフェッショナルリーグであるJリーグがスタートした年だ。貴史は、自分が出場する試合の行なわれる国立球技場に息子を連れ出した。5万9千人の大観衆が見守る日産マリノス対ヴェルディ川崎の開幕戦である。

 水沼は、小学校2年生の終わりころにあざみ野FCに入団する。

「公園で父と一緒にボールを蹴りました。子どもって普通はアニメとか見るじゃないですか。俺は、父がプレーしているサッカーのビデオを見ていたんです。日産自動車のころとか日本代表のときか。何も考えずに、ただ漠然と画面に映る父の姿を見ていたという感じでした」

 彼は、幼少のころに見た父のプレーをはっきりと覚えていた。

 そして、父の貴史も同じ情景を語る。
「どこの親もそうだと思うんですけど、自分がサッカーをやっていたから息子にもやって欲しいと考えると思うんです。宏太がサッカーをはじめたきっかけは、僕がやっていたからというのは間違いないと思います。1歳のころ、家にクッションボールが置いてあってそれを蹴っていました。サッカーの感覚的なところを覚えさせたくて、公園で一緒にボールを蹴ったりもしました。あとはサッカーのビデオがたくさんあったので、あいつは1人で勝手に見ていましたね。あまりに何度も繰り返して見るので、ビデオデッキが壊れたことがありました。ちょうどJリーグが開幕してスポーツニュースなどでよく取り上げられていましたから、それらの映像を録画したんです。宏太は、エバートン(元横浜マリノス)のゴールパフォーマンスを何度も真似ていましたよ。僕が『エバやって』というと両手を広げて何度もやってくれました」

 あざみ野FCは、保護者も子どもたちと一緒にボールを蹴る機会があり、「ボールはこうやって蹴るんだよ」と貴史が実演したこともある。チームは約30人。練習は土曜日と日曜日。水沼は、すぐに試合に使ってもらってポジションはフォワードだった。彼が、小学校5年生のときに、チ?ムは全国大会に出場する。さらに小学校6年生になると、神奈川県の県大会の決勝戦で、水沼が先制点を決めて2対0で優勝する。小学生の彼は、現在のプレースタイルであるトップ下やサイドハーフとは違っていた。センターフォワードとしてトップでボールを待っているスタイルだった。

 そのころ、水沼の相棒的な存在だったのは、同じフォワードで2トップを組んでいた金井貢史(横浜・F・マリノス所属)だった。「俺がトップで張っていて、貢史が周りを走って、俺のところにパスをくれて、ゴールを決めるみたいな感じでした。とにかく点を決めるのが好きだったんですよ。相手の嫌なところを探してゴールを決めるのが好きでした」

 貴史は、小学生の息子にサッカーを通して「周りの子どもたちとコミュニケーションがとれて人と仲良くやっていくこと」を学んでほしいと思っていた。そして、「一生懸命やって、その結果としてプロになれたらいいと。僕は前のポジションの選手だったからあいつにも前でやって欲しい」と願った。

 水沼は父の勧めもあってサッカーと並行して、幼稚園から小学6年生まで水泳にも力を入れていた。「子どものころにスポーツをさせるのはいいことだし、水泳は体力強化になるから」と貴史は語る。

試合に出られない日々と西谷コーチの救いの手

 水沼は、一見すると順調にサッカーのエリートコースを歩んでいるように見える。だが実は、そうではない。一番基礎を身につけなければならないときに、彼は大きな怪我をしてしまう。小学5年生のときは中心選手として試合に出ていたのだが、小学6年生の全国大会の予選を前に足を骨折して出場できなかった。

「小学校のときに骨折をしたことが選手として大きな代償でした。基礎を学ばなければいけない大事な時期に怪我をしてしまって。それに、体もちょうど大きくなってきたころだから自分がイメージしたように体も動かないわけです。技術的に長けている子たちが周りにたくさんいた。宏太は、そんなにスピードがあるわけではないし、身体的に恵まれていたわけではない。他の子たちにはなかなか追いつけない。だからプレーしていても面白くなかったと思います。彼の中でもそういう思いはあったはずです」

 父は息子の苦悩を身近に感じていた。

 水沼が怪我していたときに、父と自宅でリハビリがてらクッションボールを蹴った。右足にはギプスがはめてある。貴史は「怪我をしていても怪我をしていない足が動くからできるよ」と誘う。ギプスをしていない左足を狙ってクッションボールを投げる。「左足、上手くなろうよ」と言葉をかける。水沼は「うん、そうだね」と言って痛みをこらえて唇を一文字にした。水沼から蹴られたボールを受け取りながら貴史は話し続ける。

「最終的にどこに行くんだということがしっかりしていればいい。問題は、今じゃないからな。今は試合に出られなくとも、怪我が治ったときに練習で頑張ればいいんだよ。試合に出られない悔しい思いは心の中にずっと残るから、この悔しさは次の機会に発揮すればいい。必ず挽回するチャンスは来るから」

 横浜・F・マリノスのジュニアユースに加入するきっかけは、あざみ野FCや他のクラブから選抜されたスペシャルチームのメンバーに選ばれたときに、練習を見ていたマリノスの関係者からジュニアユースに勧誘されたからである。

 しかし、父と同じマリノスのユニホームを着られた水沼だったが、中学1年生、中学2年生の2年間は試合に出ることはなかった。だから、Aチームにも入れないでいた。怪我ではない理由で試合に出られないことを経験する。「中学になって、試合に使ってもらえない悔しさをはじめて知りました」と水沼は語る。
彼の不遇の時間を救ったのは、中学3年生になってチ?ムを担当したコーチの西谷冬樹だった。

 西谷は、練習がはじまると選手全員を集める。そして水沼をみんなの前に出してこう話した。「練習の合間に休憩を入れるとみんなは水を飲むよな。次の練習がはじまるときには誰が最初に戻ってくると思う? いつも最初に戻ってくるのは宏太だ。誰よりも早く戻って来て次の準備をしている。それにしっかり人の話を聞いて真面目に練習に取り組んでいる。お前らも宏太を見習いなさい」。西谷は、事あるごとに水沼を引き合いに出してチ?ムメイトに彼を模範にするようにと話した。水沼は、「小さいことかもしれないんですけど、そういうところを見てくれている人もいるんだなと思ったんです。本当に……なんと言うか……自分のレベルがレベルだったから。俺は身体の成長がちょっと遅かったというのがあって、技術的なレベルでも周りの選手に比べて劣っていたし、足もそんなに速かったわけではないんです。だから『誰よりも早く戻って来て体の準備をしよう』とか『真面目に全力で練習に取り組んで行こう』と思ってやりました」と述べる。

 西谷は、真面目に練習に取り組む水沼に副キャプテンを命じる。「最初は、なんで俺にやらせるんだろうと思ったんです。副キャプテンを任されたけど、試合には出たり出なかったりで」と当時を振り返る。では、戸惑う息子を貴史はどのように見ていたのだろうか?

「ちょうど中学3年生のときですね。それまでの指導者がダメだとは言いませんが、宏太にとって西谷さんの影響は大きかった。このコーチだったら宏太のいいところを見てくれるかもしれないと思っていました。たとえば、プロの選手でも監督にいいところを見せようと思って、こそくなことを考えるヤツもいるわけですよ。そうじゃなくて、監督やコーチは、自然にやっている選手の振る舞いをきちんと見ていてくれないと。宏太の真面目な姿を見てもらえた、ということがあって、『頑張っていれば何かあるな』とあいつの中でも感じるものがあったんじゃないですかね。とにかく一生懸命ですよ。常に100パーセントでやっている。普段ちゃんとやっていなくて、要領だけよくやっているというヤツを宏太は嫌いなんですよ。

僕の場合はどうかと言われれば……お父さんはもうちょっとずる賢かったかな(笑)。まあ、そう周りからは思われていますよね。ただ、僕の中でも、要領よくやっているというような選手の姿を見れば、腹は立ちますよ。副キャプテンに関しては、練習でもそうですが、絶対に手を抜かないでやっていて、いろんなことを計算しながらやるのではなく、自然に一生懸命やれる。そうした姿を見て、『あいつ頑張っているな』と思って周りの選手が変わっていく。そういうようなことが、宏太は自然にできる存在なんです。ジュニアユースに入ったときには、『僕と同じマリノスだな』とは思いました。

ただ、ジュニアユースに入ってもユースに行ってトップに上がらなかったら、プロとしてはマリノスのメンバーとは言えない。宏太は、本当にユースに上がれるのかどうかもわからなかった。彼は高校でサッカーをすることも考えていましたから。ただ、コーチが西谷さんになって宏太のプレースタイルが変わってきたなと感じていたので、もしかしたらユースに上がれるチャンスがあるかもしれないとは思いました」

 水沼自身もマリノスのユースに上がれるとは思っていなかった。神奈川県内の高校は将来有望な選手をリストアップしていく。水沼と同期のジュニアユースの子どもたちの中には、何人かサッカー強豪高校のリストアップに入っていた選手もいる。しかし、水沼はそれにも入っていなかった。そうした息子の現状を貴史も理解していた。だから、水沼が「ユースでサッカーやりたいんだけど難しいかもしれない。高校サッカーには憧れがあって、進学してサッカー部でやろうかと思っている。サッカーに打ち込みたいから、寮のある神奈川県外の高校に進学しようかと考えているんだけど」と打ち明けたとき、貴史は「好きなようにしな」と伝えただけだった。しかし、父として水沼の心の動きをしっかりと見ていた。

「宏太は、みんなでまとまってやるということから作られる一体感が好きなんですよ。高校サッカーはクラブユースと違って、そういうものがあるじゃないですか。高校選手権という目標に向かってみんなでやっていくという。やりきったとか達成感とかが選手権を目指すことで直接感じられる。たとえ試合に負けても、みんなで頑張ったんだからという、感情やそこまでの過程とか、そういうものが好きなんですよね。

ユースの場合は、選手各々がプロを目指してやっている場所なのであって、高校サッカーに比べたら目指すものが違うので、一体感という意味でまとまりというものはないかもしれない。宏太は、そういったところでユースか高校か悩んだと思います。それにサッカー強豪高校でやるには自分のレベルでついていけるのかとか、ユースに上がりたいんだけど上がれるのだろうかとか、そういう彼の葛藤を僕は知っていました」

 高校のサッカー部に籍を置いてプレーすればいいのか、あるいはマリノスのユースに上がれるのかどうか、という葛藤の中で、水沼はマリノスからユース昇格の知らせを受けたのだった。

「プロを本当に目指そうと思ったのは、ユースに上がったときです。ユースに上がれると知らされた際に『なんで俺が上がれるんだ』と思ったくらいなんです。常時、試合に出ていたわけではなかったですから。そんな状況だったから、『誘ってもらった限りは本気でプロを目指そう』と決心しました」

 水沼はそう言って大きく深呼吸をする。そして、同じサッカー選手である父の貴史のプレッシャーを語りはじめる。

「親のプレッシャーを感じたのは、高校1年生でU?15日本代表に選ばれたときですね。俺は、マリノスのユースに上がって試合に出られない状況にいたんです。たまたまですよね、練習を見にきた代表のコーチの目に俺のプレーが止まったのは。そのときは『親のおかげで選ばれたんだろう』と自分ではすごく意識しました。そんな風に誰かに何かを言われたわけではないんですが……。そこでですよね、はじめて親の存在を意識したのは。自分は自分として認められたいけど『親は偉大なサッカー選手だったからな』って。親のことを言われるのは、悪い気はしないけど、『水沼貴史の息子だからな』という風に言ってくる人たちには、『自分の名前を認めさせてやろう』という気持ちが強くなっていきました。『絶対に見返してやろう』と思ったんです」

 水沼は「誰かに何かを言われたわけではないが」と語ったあとで、「絶対に見返してやろう」と思ったと話す。水沼本人は多くは語らなかったが、常に試合に出られていない選手がU-15日本代表のメンバーに選ばれたことで、さまざまな声があがった。それは、サッカーの親子鷹という賛辞だけではなく、ある種の嫉妬からくる誹謗中傷の声も含まれていた。貴史にはそうした声が耳に届いていたのである。

「宏太が小さいころから、僕が少年団の試合やジュニアユースの試合を見に行けば、あいつのことを『あれが水沼の子どもなんだ』と見られていたと思うんです。だから、必ず宏太の意識のどこかには『水沼の子ども』というものがあったはず。宏太がユースに上がれたということは『もしかして水沼の子どもだから上がれたんじゃないか』と思われているのかもしれない。彼がそう感じてしまうんだったら、すごくかわいそうなことだと思いました。ユースに上がったこともそうですが、U-15日本代表に選ばれたときも、インターネットでの宏太への誹謗中傷はすごくて、そうした声を僕は許せなかった。僕も掲示板の書き込みを見たし、宏太も見たんです。『ねたみ』とか『うらみ』からの言葉の羅列。

僕に対して人々が思っていたことが、そのまま宏太にいったのかもしれないと悩みました。内情を知っていなければ書けない内容もあったので、もしかしたら、『書き込んだ相手は?』と疑心暗鬼になりました。宏太は宏太で相当に苦しんだと思う。だけれども、やっぱり、そういうものを払拭するのもあいつ自身なんですよ。周りを黙らせるのもあいつの力しだい。そういう意味でも宏太はユースに入ってからも相当に頑張ったと思います」

 このことで、貴史は水沼にこんな風に話す。

「これから先、絶対に水沼の息子と言われるけど……なにを言われても頑張んな」
「それはわかっている」
 と水沼はひと言だけ返すだけだった。

 子どものころに水沼は、あざみ野FCに所属していたとき、日本代表のユニホームを買ってほしいと貴史にせがんだ。しかし、代表のユニホームは自分で勝ち取るものだと言って与えてもらえなかった。高校1年生になった水沼は、U-15日本代表に呼ばれて自力で日本代表のユニホーム手に入れた。だが、誰もが認めるような代表のユニホームが似合う選手には、ほんの少しだけ時間が必要だった。

プレースタイルの確立

 水沼の今のプレースタイルは、「献身的な動き」という言葉で言い表すことができるほど、豊富な運動量でグラウンドを疾走するイメージがある。そうしたプレースタイルは、どのようにして生まれたのだろうか?

 父の貴史と走り方が似ていると一般的には言われる。特に走る後ろ姿は確かに似ているように見える。そして、ボールを味方に出すときのアイディアも似ている部分がある。いつパスを選択するのか。どこでシュートの選択なのか。どんなボールを出すのか。いまボールをペナルティエリアに入れるタイミングなのかどうか。つまり、局面局面でのプレーは似ているのである。だから、親子で一緒にサッカーをテレビで見ていても、「今はこうだったよね」と意見が一致することが多い。水沼は父のプレーを「ドリブルもパスもレベルが高く、ゴールをした人に常にアシストしているという印象です」と述べる。

「チームのために汗をかく。目立つプレーをする人のためにスペースを空ける動き。いま、このチーム何が足りないのかを考えて、『じゃあ、そこを補うプレーをしよう』と実践する。俺は、チームのためにという思いが強いんです。ただ、途中から試合に使われた場合、得点を決めるとか結果を出さないといけない。チームのためにというプレーを中心にしてしまうと、結果でしか評価しない人もいるので難しいこともあります。だから、点を決めたりアシストをしたりとか、個人的な数字を出すためにプレーしなければと思うときもあります」

 そう語る水沼にある転機が訪れる。それは、FIFA U-17ワールドカップの出場権をかけたAFC(アジアサッカー連盟) U-17選手権で北朝鮮を破って優勝監督になった城福浩との出会いである。

 城福が招集したチームのメンバーには、水沼の他に柿谷曜一朗(徳島ヴォルティス)や山田直樹(浦和レッズ)がいた。城福が掲げたサッカーは「ボールも動くし、人も動く」というコンセプトだった。U-17のワールドユースの国際大会出場を目指して構成されたチ?ムは、時間をかけてじっくりと作られた。したがって、チ?ムワークもよく、十分に組織化されている。水沼にとっても自身の存在感をアピールできるサッカーである。

 まず練習前に、「こういうサッカーをやっている」とチームが練習しているビデオを招集した選手全員に見せる。実際の練習では、同じチームでビブスを同じ色にしないで、2色に変えたりした。たとえば6人のチームで、3人は赤のビブス、もう3人は緑のビブスにわける。自分と同色の選手にはパスを出してはいけない。あるいは、ボールを回していて、同色の選手にリターンしてはいけないなどの規制をもうける。つまり、パスを出す選手が限られてくるから、動き回わらないと出し手が見つけられないことになる。

「城福さんは、熱い感じの人だったんです。試合中のジェスチャーとか、ゴールを決めたら自分のことのように喜ぶ姿とか、選手たちはそんな城福さんに感銘を受けていました。あのチームは2年間で作り上げたんです。1回の合宿で、1つのことしかやらない。最初は、ボールを出したら受けた選手を追い越すというオーバーラップをやらせた。それをやれば褒められるから一生懸命にやる。『じゃあ、これをやればいいんだ』となる。次に『これができたからこれ』と順番に動きを理解させていった。

最初のころは、俺は中心選手じゃなかったんで、代表に生き残ることしか考えていなかったんです。俺にとって、城副さんとの出会いが大きかったと思います。あの代表があったから、今の俺のプレースタイルが確立できたと思うんです。それに、代表に入れたのは『どうせ水沼の子どもだからだろう』って言っている人を見返さなければいけない、という気持ちはありました。でも、代表に入っても最初はサブ組だったんです。(AFC U-17選手権2006の)1次予選(2005年11月15日)が韓国であって、たまたまなんですが、先発で使ってもらって2得点(対マカオ戦)を決めることができたんです」

 韓国での1次予選で水沼の背番号は5番だった。水沼は試合を観戦しにきた貴史を見つけて話しかける。

「背番号が5番なんだ。俺は信頼されていないのかな」
 と頭によぎったことを吐露する。貴史は「ジダンだってレアルで4番だったんだ。そんな風に思えばいいよ」  
 と、言葉を返す。

「日本代表のユニホームを自分の手で着られるようになって、その最初の試合を父は見にきてくれた。父の顔を見たときに、『やっとここまできたな』という気持ちになったんです」
 そうした思いがこみ上げてきた水沼は貴史の顔を見て話す。
「日本代表のユニホーム、自分の手でとったから」
 そう話した水沼に、貴史はやさしく言葉を置いた。
「よくやったな。ずっと残れるようにがんばりなよ」

「AFC U-17選手権(2006年9月3日)のグループリーグでシンガポール(試合は1対1)と戦ったときに、ファールを取らなかった審判のジャッジに対して、『それはフェアーじゃない』って熱くなって抗議して。たぶん、そうした俺の姿を見て、3戦目の韓国戦(試合は3対2で日本の勝利)に城福さんから『お前つけろ!』と言われてキャプテンマークを渡されたんです。そのときに『このチームの中心になってやらなければならない』と思いました」と水沼は語る。
 キャプテンマークをつけたのは、小学生以来だった。試合前に、腕に巻いたキャプテンマークに少し照れた水沼は、「なんで俺、キャプテンなの?」と呟く。宿泊先のホテルで同室だった山田は「キャプテン、行きましょうよ!」とおどけて水沼の背中を押してグラウンドに駆け出す。
 
 技術的に見れば、柿谷や山田などの選手と比べて、水沼は、ずば抜けて高いレベルにいたわけではなかった。そうした現状の中、代表選手として生き残っていくためには、何をすればいいのかをずっと考えていた。水沼の考えを知った貴史は、「お前、動けるんだからもっと動け。動いてチ?ムのために走れる選手になった方がいい。そういう選手はチ?ムには必要で、そういう選手がチ?ムを動かしている」とアドバイスを贈る。

「自分は体格が大きくて技術的にずば抜けていたわけではなかったので、そこで生き残っていくためには、自分が『これだ』と思えるものを何か1つ見つけなければいけないと思ってはいたんです。練習を常に全力でやっていく中で、次第に体力がついてきて、いろいろなところに顔を出せるようになったんです。そうしているうちに気持ちも切り替わっていったというか。俺、いつのまにか走れる選手になっていたんですよ。実は、こうしなければいけないから、こうしようとはあまり思ったことがない。ただ、チームにフィットしたプレーをいかにするのかを考えていました」
 そう語る水沼に父は別な答えを持っていた。
 
「宏太はもう忘れてしまっているかもしれないんですが、プレースタイルに関しては、あいつに細かく話したことがあったんです」と貴史は語る。

「キックは上手いから、問題はシュートですよね。2列目からバイタルエリアに入って行って、点をとれないと評価されない。だから、『パッサーになんかならなくていい』と言ったんです。パッサーやドリブラーはいっぱいいる。動き回ってボールを受けて、正確なキックを蹴れる選手はそんなにいない。そうするとポジションが固定されてしまうという問題があがって、そこでレギュラーをとれなかったら選手として難しくはなってくるんですが……。『それが宏太の武器だから、それを伸ばしていったらいい』と話したんです」

フル代表のユニホームを着る日まで

 AFC U-17選手権2006の本選で、グループAをトップで勝ち抜けた日本は、準々決勝でグループBを2位で通過したイランと戦った。日本は柿谷のゴールで先制する。しかし、後半に追い付かれて延長戦に突入。延長戦でも決着はつかなかった。そして、大会の歴史に残るPK戦でワールドユース大会への切符を賭けることになる。PK戦で先攻となった日本はサドンデスになってから3回失敗するものの、12人目でイランに競り勝ち(PKは8対7)ベスト4入りを決めた。この大会は、準決勝でシリアに2対0で完勝し、そして決勝では北朝鮮に0対2から逆転して延長の末に4対2で勝利する。

 イランとのPK戦の場面で、水沼のキャプテンシーというか、メンタルの強さを現す出来事があった。水沼は2度PKを蹴っている。最初のPKのとき、イランのゴールキーパーが水沼の近くにやって来て、ボールに唾を吐きかけプレッシャーをかける。水沼はそのボールを両手で胸まで持ち上げて、動揺することなくユニホームでボールを拭く。その行為を目撃した貴史は「16歳でどれだけの経験をしているんだ」と感じたという。城福が水沼をキャプテンに選んだ理由が、こうした場面でも臆さない彼のメンタルを見ていたからかもしれない。

 水沼がサッカー選手として大きく成長するために、貴史は期待をもって答える。

「長い時間グラウンドに出て、いいプレーができる選手だと思います。運動量はある。ただ、周りを気にし過ぎているので図々しさがない。自分で行けばいいのに、自分から突っ込んでいかない。すごく点が取れる選手なのに、プロになってなかなか点が取れないのは、周りに気を使っているから。そこは振り払ってほしい。そこですよね、彼がこれから先に行けるかどうかは。僕の子どもとして生まれたことで、それは背負っていることだから、どうしようもない。僕が親だということはいつまで経っても言われる。アスリートの世界はその子自体に力がないと、いくら2世だからと言ってあとは継げないわけですよね。だから、彼自身がちゃんと成長していかないといけない。親としては僕をどんどん越えて行ってほしいです」

 水沼は、横浜・F・マリノスから栃木SCにレンタル移籍する。2010年11月28日、J2リーグ第37節、対FC岐阜戦でJリーグ初得点を決める。同年のU-23サッカー日本代表に選ばれて、アジア大会の優勝メンバーに名前を刻んだ経過からすれば、遅過ぎたJリーグ初得点だった。しかし、レンタル移籍した栃木SCでは、レギュラーポジションを確保してチームの中心選手になった。それは、横浜時代になかなか試合に使ってもらえなかった苦い経験があったからだろう。栃木SCへの移籍前に、貴史は次のように語っていた。

「試合に出られなかったときには、そこにある現状でできることを全力でやるしかない。特効薬というか、すぐに効く薬はないわけで。今、試合に出られないことで苦しんでいるけど、ある観点から見ればいろんなことが見えてくる。宏太の体がだんだんと大きくなっているんですよね。高校1年生のころは、160センチしかなくて、高校3年生になって体が大きくなってきた。そういう肉体的に成長する過程が、実は一番上手くいかないときなんです。筋肉が発達してきてイメージする動きに追いつかない場合がある。そういうときは、怪我も多くなってしまうんです。だから、練習をしなければいけない時期に怪我をすると大きいんです。

この2年間(19から20歳まで)、怪我らしい怪我をしていないんです。練習離脱をしたことがない。それはすごく大きなこと。試合に出られなくて苦しんでいる選手はいっぱいいますよ。そのことで家内とも話をしたんです。『他のチームに宏太みたいな選手がいて、ユースに選ばれて、キャプテンになって結果を出してきた。でも、プロになってなかなか試合に使ってもらえない。そして、試合にたまに出てもなかなか点がとれない。そういう活躍できないという選手が他のチームにいたら、いったいどんな風に声をかけるのか』ってね。たぶんこうやって話すと思うんですよ。『今は苦しんでいるけど、それは絶対に糧になるから。今はそういう時期なんだよ。あれだけのメンバーの中で、スタメンで入っていくのは大変だけど、今、やるべきことをやっていたら絶対に出てくる』。そうやってコメントすると思うんです。宏太は、苦しいことを何度も経験して、それを越えてきているから。

小学生のときに怪我をしたときもそう。中学生でも怪我を手術をして、ユースに上がれるかどうかというときもそう。高校に行って、ユースのAチームで練習しているときもそう。試合に出られないからと言って、腐ったら終わり。そう思った時点で終わりなんですよ。宏太は後ろ向きにはならないと思います。『悪いことが起きたのは何かの原因があるから』と僕は小さいときから彼に話していました」

 水沼は、自身の未来予想図をどのように描いているのだろうか?
「自分は、ミスをしたら連続でミスをしてしまう癖があると思うんです。そういうところは直していきたい。俺は運動量が取り柄だけど、運動量の多い選手の場合、走っていて息切れするときもあるんで、そういうバランスに注意しながらプレーする必要がある。それに、俺は攻撃的な選手なので、ゴール前で一番力を発揮しなければいけないわけです。ただがむしゃらに走っている時期が過ぎたと思うので、的確な判断をもって動けるようにしていかないといけないと思います。本気でやっていれば、いつか自分に帰ってくると思う。俺はプロサッカー選手である以上、人に感動や勇気を与えたい。

俺は、いままで人に勇気をもらったりしていかされてきたので、今度は自分が誰かに勇気を与える番だと思っています。一生懸命やっている人を人は応援したくなると思うので、見た人が『がんばっているな、応援したいな』と思ってもらえるように、ピッチにでたら、全力でプレーして、誰かに何かを伝えられる選手になりたい。僕が得たいろんな苦しい経験は、必ず誰かに活かされると思っています。俺、フル代表の舞台に立ちたいと思っているんです。そのためには、ロンドンオリンピックのメンバーに選ばれないといけない」
 このように語った水沼は、最後に笑顔で言葉を付け加えた。

「親子ともにすごいと言われる選手になりたい。親を乗り越えたい。実力で代表のユニホームを着たし、これからも着られるようになる」

 子どものころに、日本代表のユニホームをせがんだ水沼は、「代表のユニホームは自分の実力でとるものだから」と父に言われた。そして10年という時間を経て、水沼はユースの日本代表に選ばれて、実力でユニホームを手に入れる。彼が目指す次の到達地点はフル代表の場所。フル代表のユニホームを手に入れたとき、はじめて父と同じ地点に到達したことになる。水沼が貴史を凌駕する瞬間はすぐそこまできている。水沼には十分にその可能性が備わっている。