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フットボールを彩る「正義」と「悪」の対立構造

2013.12.14

[ワールドサッカーキング2014年1月号掲載]

資金力にモノを言わせた補強、ストイックなまでの勝利至上主義はアンチを生みやすい。それが世界屈指の人気を誇るバルセロナのライバルともなればなおさらだ。しかし、時に悪役を演じられる懐の深さこそ、レアル・マドリーの勝者たるゆえんである。
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文=アルベルト・ヒメネス Text by Alberto JIMENEZ
写真=ゲッティ イメージズ Photo by Getty Images

R・マドリーとバルサ両者の間にある対立の構図

 我々ジャーナリストにとって最も基本的で、なおかつ最も難しいスキルは「試合を公平に、客観的に見る」ということだ。どちらにも肩入れせず、どちらも応援せず、お互いのチームを平等に、公平に評価する。それができなければこの仕事はできない、はずなのだが、私も含めて大抵の記者はできていない。だから「フットボールジャーナリスト」などというのは、幻想の中に存在する職業なのかもしれない。

 客観的に試合を見る? そんなつまらないことはフットボールを知らない人間がやればいい。一方を応援すれば、もう一方は敵だ。白と黒、正義と悪の対立構造があってこそ、勝負は面白くなる。

 政治でもビジネスでもスポーツでも、我々は対立するものがあれば「正義と悪」に区別する。それが一番分かりやすいからだ。「正義が悪を倒す」のか、「悪が正義を倒す」のか。そこにはシンプルでドラマティックな物語が生まれる。最後に正義が勝つ爽快感、時に悪が勝つ緊張感は、あらゆるエンターテインメントに共通して存在する筋書きと言っていい。だから我々は、この構造を愛する。そして規模の大小を問わず、あらゆるスポーツに対立構造はある。チャンピンズリーグ決勝だろうと、日曜日の草サッカーだろうと、どちらかを応援していれば同じように楽しめる。

 だが勘違いしてはならない。「正義か悪か」の判断基準は、あくまで主観だ。フットボールクラブそれ自体に、正義も悪もあるはずがない。彼らはただ存在するだけで、それを見る人、応援する人がそれぞれ勝手に、バックグラウンド(例えば出身地)やキャラクター(例えば好み)によって、感情移入しやすいほうを正義だと思い込む。ここにスポーツにおける面白さの根源がある。

 この「正義と悪」という論点において、フットボール界で最も理解しにくいポジションにいるのが、恐らくレアル・マドリーというクラブだ。

 R・マドリーは正義か、それとも悪か。どうやら近年の世論の動向を追い掛けると、どちらかと言えばぐいぐいと悪のほうに引っ張られている。その最大の理由が、21世紀に突入してから勢力を急激に拡大させ、美しく鮮やかに正義への復権を果たした新王者、バルセロナにあることは言うまでもない。このクラブに羨望の眼差しを向け、バルセロナこそ理想だ、バルセロナこそ正義だ思い込む若者特有の病気は、残念ながら世界中に蔓延しているようだ。

 クラシコに象徴される対立構造にはそれなりの歴史的背景があるわけだが、それを知らなくても、一般に根づいている両者のイメージはまさに白と黒ほどに違う。

一貫した勝利至上主義が世論の反感を生む

 R・マドリーは首都マドリッドに本拠地を構えるビッグクラブらしく、政治力と資金力にモノを言わせて数々のタイトルを獲得してきた。チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)5連覇という奇跡的な偉業を成し遂げたフェレンツ・プスカシュやアルフレド・ディ・ステファノの時代も、ガラクティコ(銀河系)と呼ばれたルイス・フィーゴやジネディーヌ・ジダンの時代も、圧倒的な強さを生んでいたのは、名前だけで相手を震え上がらせる世界的スターの存在だった。彼らの理想は常に国境を超えた世界選抜であり、言ってみれば愚直なまでに、ひたすら世界最高のチームを目指してきたわけだ。

 世界最強であり続けるためには、何よりも勝たなくてはならない。勝利至上主義はこのクラブに一貫した哲学だ。重視するのは組織ではなく個であり、内容ではなく結果だ。「勝利こそ正義」というメンタリティーは、ひたすら王者の地位を守り抜き、それを自らの価値としてきたこのクラブ独特のものと言える。だから、R・マドリーを悪と見なす人々は言う。

 それだけの政治力と資金力があるのに、フットボールというスポーツの美しい魅力を放棄するなんて!

 90年代後期から2000年代初期、文字どおり、スター選手たちをかき集めて「銀河系軍団」と呼ばれた頃から(それは長いクラブ史のほんの一部に過ぎないのだが)、そうした反感は一気に高まった。

 その世論に勢いを加えたのが、前述のとおり、このクラブの最大のライバルであるバルセロナだった。2000年代中期、“ロナウジーニョ時代”以降のバルセロナは、世界最高のタレントたるリオネル・メッシ、更に偉大な名将ジョゼップ・グアルディオラの出現によって「ドリームチーム」と称された90年代前半以来の復権を果たした。最大のライバルと常に比較されながら世界に知れ渡ったバルセロナの内情は、R・マドリーとはあまりにも対照的だった。

 政治力や資金力を生むシステムはいかにも民主的かつ合理的で、有能な選手は買うものではなく育てるものと考える。長年の歳月を掛けて培ってきた下部組織、とりわけ育成年代の子供たちが共同生活を送る寮「ラ・マシア」は、選手育成というテーマのキーワードとして一時期の流行語になるほど全世界のメディアに取り上げられ、称賛された。もちろん、チャビやアンドレス・イニエスタといった、育成の成果を体現する選手がキャリアのピークを迎えていることも大きかった。

 バルセロナで大事に、手塩に掛けて育てられた選手たちは、クラブのアイデンティティーにどこまでも忠実だ。そのアイデンティティーとは、リアクションではなくアクション、カウンターではなくポゼッション、ディフェンシブではなくオフェンシブという「内容」への強いこだわりであり、いつ、どんな相手に対しても美しく華麗なスタイルで勝とうとする理想主義である。それは創造性こそが最大の魅力であるフットボールにおいて、わずかな可能性を追求しようとするチャレンジのように思えたが、近年の彼らはチャンピオンズリーグ制覇やリーガ制覇など、そのチャレンジをことごとく成功させ、理想的な内容と現実的な結果を両立させてしまった。

 こうして、バルセロナこそが正義、R・マドリーは悪という対立構造は完成した。ロマンチスト対リアリストの構図だ。

 しかし、果たして本当にR・マドリーは悪なのだろうか。「正義と悪」の関係とは、そんなに簡単なものだっただろうか。

バルセロナの存在もあり、「悪」とされがちなR・マドリー。しかし、そこには矛盾しているようで、真っ当な「正義」のあり方が存在する……。続きは発売中のワールドサッカーキング2014年1月号でチェック!

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