2013.12.09

中山雅史と日本サッカー。ドーハの悲劇を原点とする成長物語。【最終回】

中山雅史スペシャルインタビュー

インタビュー/岩本義弘 構成/細江克弥 写真=足立雅史、アフロ

「“ドーハの悲劇”は自分を成長させてくれる要因の一つだった」

 2002年日韓ワールドカップから10年と半年後の2012年12月4日、中山雅史は「第一線から退く」ことを発表した。

 1990年のヤマハ発動機入社以来22年間、中山は日本サッカー界の最前線で戦ってきた。Jリーグ開幕、ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜、W杯史上初得点、日韓W杯、そしてそれらすべてを体感した後の10年間も、自ら先頭を走り、日本サッカーを激変させる刺激を与え続けてきた。

 JリーグではMVPを1度、得点王を2度、ベストイレブンを4度受賞。J1リーグ355試合で157得点を記録し、歴代最多得点者としてその名を刻む。2度のW杯を経験した日本代表では国際Aマッチ53試合に出場し、21得点を記録した。数字を一見しただけでその素晴らしいキャリアを想起させる選手は、数えるほどしかいない。

 もっとも、紆余曲折、傷だらけになりながらピッチに立ち続けてきた22年戦士である。華やかな成績の裏側には、想像を絶するほどの苦しみも悔しさもあった。忘れられない敗戦、選手生命を危ぶまれるほどのケガ、プレーヤーとして直面するいくつもの壁――。そうした数々の苦難と向き合いながら、なぜ中山は戦い続けることができたのか。

「うーん、そうですね……。でも、それが普通のこと、当たり前のことなんじゃないかなって思いますよ。一つクリアしたら、また新しい目標が生まれる。それが普通でしょ? だから、普通のことの繰り返しですよ」

 とはいえ、「普通のことの繰り返し」が何より難しいことは中山もよく知っている。

「そう。だからこそ、いかにして普通のことに情熱を向けられるかですよね。僕には『もう一度立ち上がりたい』『もっとうまくやりたい』という情熱、もっと簡単に言えば『サッカーをやりたい』という情熱が常にあったから。やっぱり、何よりサッカーが好きってことが大きかったんでしょうね。しかも最高の舞台でプレーできる。大きな舞台で戦えるということに対して、そんなに幸せなことはないと思っていましたから。その幸せを掴みたいんだったら、自分で掴むしかない。そういう思いが力になるんですよね」

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“ドーハの悲劇”から20年、中山は常に日本サッカー界の最前線で戦い続けた

 以後20年間における彼のキャリア、そして日本サッカーにおける存在感を知る者なら、おそらく誰でも中山が発する言葉の意味が理解できるだろう。“ドーハの悲劇”が、中山に力を与える一つのターニングポイントとなったことは間違いない。あれから20年の歳月が流れた今、中山は何を思うのか。

「やっぱり、自分を成長させてくれる要因の一つだったと思いますね」

 そう言うと、笑いながらこう続けた。

「だって、こう見えてもいろんなことがあったんですよ(笑)。ケガもたくさんしましたから。でも、自分が直面する一つひとつの出来事に対して、それをその後に活かしたり、自分の成長につなげないと意味がない。キャリアを積み重ねていく上で、自分の経験が汚点になってしまうのはイヤですからね。やっぱり、何があっても『それがあったからこそ成長することができた』って言いたいじゃないですか」

 まさにその意味において、結果的に“ドーハの悲劇”はその後の成長を促す良薬となった。今だからこそ、そう思える。

「そうですね。あれがあったからこそ、自分自身に対する意欲を感じて、常に姿勢を正すことができたんじゃないかなと。本当にたくさんのことを学ばせてもらったと思いますよ、あの経験から」

中山は日本サッカー界のリーダーとしてこれからもその先頭を走り続ける

 ピッチを離れた今、中山は解説者として日の丸を背負う後輩たちの姿を追っている。半年後には夢の舞台に立とうとする彼らを、中山はどのように見ているのか。

「そりゃあもう、頼もしい限りですよ。目標はW杯制覇でしょ? そういうところを見える、声に出して言えるというレベルまで到達したんだなと思うし、『ひょっとしたら』と思わせてくれるチームでもありますからね」

 結果だけでなく、可能性を感じさせてくれるチーム。そこに大きな魅力を感じている。

「そうなんですよ。コンフェデレーションズカップは3連敗という結果に終わったけど、だからと言って目標を変える必要はないと思いますよ。堂々と言い続ければいい。だって、選手たちが一番よく分かっているんだもん。大きな目標を達成するためには大きな努力と大きな成長が必要で、自分たちをより高いレベルに引き上げなければ何も成し遂げられないということを。さっきも言ったとおり、僕たち選手を引き上げてくれるのは、大きな目標ですよ。それがあるからこそ、失敗しても挑戦して、壁にぶつかっても成長したいと思える」

 日の丸を背負って戦うからには、大きな目標を口にするからには、それなりの覚悟と責任が求められる。しかしそれこそが、当事者たる選手とチームをより大きく成長させてくれる。その結果として得られる勝利が、日本のサッカー界を盛り上げる起爆剤になる。中山はそう考えている。

「やっぱり、日本代表の活躍は不可欠ですからね。その姿を見ている子どもたちに『日本代表を目指したい』『自分も世界の舞台で戦いたい』と思わせることができれば、それ以上に素晴らしいことはないなと。日本代表って、そういう舞台でもあるんですよね。だからこそ選手たちには情熱を燃やしてもらいたい。使命感を持ちながら戦ってくれたら嬉しいなと思いますよ」

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中山が残してきた足跡は、半永久的に日本サッカー史に色濃く残り続ける

 そして言葉は、こう続く。

「ただ、自分がプレーできないから悔しいよね(笑)」

 日本代表の一員として、Jリーグを舞台とするプロサッカー選手の一人として使命感を持って戦ってきた自分が、今はピッチの外にいる。テレビ中継の解説者という仕事は彼のキャラクターを最大限に引き出す舞台だが、そこで悔しさや寂しさを感じるというエピソードが何とも中山らしい。つまり、彼が現役時代にいつもピッチで表現してきた観る者を魅了する闘志は、今もまだ衰えていない。

「ピッチの脇でマイクを握ってレポートしているとね、『ウォームアップだけでもやりたいな』って思うんですよ。例えば、最初の15分だけ公開するトレーニングがあるでしょ。当然ながら僕自身も15分間しか見られないわけで、日本代表との“距離”を感じちゃうんですよね。『ああ、アイツらは今から身を隠して戦う集団に変わるんだな』って思うと、やっぱり羨ましいというか(笑)」

 今はもう、ピッチの上にその姿はない。しかし彼が残してきた足跡は、半永久的に日本サッカー史に色濃く残り続けるだろう。もちろん、ドーハの悲劇を始まりとする中山雅史の物語はまだ終わっていない。舞台がどこでも、立ち位置がどこでも、中山は日本サッカー界のリーダーとしてこれからもその先頭を走り続けるに違いない。

第3回:「フランスW杯~日韓W杯」

プロフィール

中山雅史(なかやま・まさし)
1967年9月23日生まれ。静岡県出身。サッカーの強豪・藤枝東高、筑波大を経て、1990年にヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)に入団した。98年にリーグ戦4試合連続ハットトリックを記録し、J1歴代最多の157ゴールをマークするなど、多くの輝かしい成績を収めた。日本代表としても通算53試合で21得点。ワールドカップは2大会に出場し、98年フランス大会ではジャマイカ戦で日本選手として史上初めて得点を挙げた。そして2012年、惜しまれながら一線から退いた。

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