文・写真=岡田仁志
「誰か責任を取らな、アカンでしょ」
第4回ブラインドサッカーアジア選手権の閉幕から、2週間後。日本代表監督の風祭喜一は、進退に関する私の質問に、そう答えた。ボールの蹴り方も知らない選手たちの指導に携わって10年、代表監督に就任して6年。当初は「こんなんでサッカーになるんかいな」と頭を抱えた風祭だが、選手たちは少しずつ、それを「サッカー」に仕立て上げていった。アジア選手権2ヵ月前の仙台合宿では、「こいつら、俺が酒飲んどるあいだに、勝手に上手くなりよる」と監督の目を細めさせる成長ぶりも見せた。風祭がふと漏らした「4年前にこのチームだったら……」という呟きは、本音だろう。敗北の反省を生かしてチームを強化し、次の大会に挑むたびに、対戦相手もさらにレベルアップする。風祭の監督生活は、そのくり返しだった。取材を始めてから5年、私にはときどき、風祭のチームが、亀を追いかけるアキレスのようにも見えた。

11月下旬の壮行試合まで、日本チームは――エース黒田智成の故障を除けば――しっかりと歯車が噛み合った状態で、順調に歩を進めていた。思わぬ躓きが生じたのは、本番の3週間前。大会使用球が選手たちに届いたときだ。
内部に金属の音源を仕込んだブラインドサッカー専用ボールには、ブラジル製、スペイン製、韓国製、ベトナム製、中国製など、いくつかの種類がある。国際大会ではブラジル製やスペイン製を使用することが多い。
新作の国内メーカー製ボールは、本来、日本選手にホーム・アドバンテージをもたらすはずだった。初めて扱うボールは、音、重さ、表面の触感などに選手が慣れるまで時間がかかる。「もっと早く使い始めたかった」というのが多くの選手の本音だが、たとえ3週間でも、他国より早く馴染むことができるのはありがたい。
しかし完成したボールは、いささか意外な仕上がりだった。夏の合宿練習で使用した試作品とは、表面のコーティングが違う。試作段階では選手たちが形状や弾み方などに関する修正意見を出したが、コーティングはそれに基づく変更ではなかった。おそらく、最終的にデザインを決める過程で選択されたのだろう。光沢があって美しいが、見えない選手には関係がない。
その新ボールが届いた直後の自主練習会で、深刻な問題が発覚した。その日は雨天で、ピッチが濡れていた。なめらかなコーティングを施したボールは水に濡れるとツルツルと滑り、足元に収まらない。足の裏で手前に引こうとすると、向こうに逃げてしまう。ドリブルシュートの練習では、足の裏を使うテクニシャンほど、日頃はあり得ないコントロールミスに苦しんだ。苛立ちを隠せず、「自分がヘタクソだからいけないんだ!」と吐き捨てる選手もいた。GK佐藤大介は「キャッチは無理だから弾き出すしかないですね」と言った。
落合啓士はその日から、あらためて雨天用のドリブル方法を考え、本番に間に合わせるべく予定外の練習を始めた。落合だけではない。多くの選手が、大会直前の重要な調整期間を、扱いにくいボールとの格闘に費やさざるを得なかった。開催地の仙台は、降雪や霜の影響が懸念される。ずっと練習で慣れ親しんできた中国製ボールを使ったほうがいい――そう思った選手は、1人や2人ではない。
10月下旬に右膝の十字靱帯を損傷した黒田は、代表チームのマネージャーでもある妻の黒田有貴から、雨天の自主練参加を止められていた。右膝を痛めたのも、雨の日だったからだ。関東リーグの試合で、水を吸った重いボールを何度も思い切りシュートした黒田は、その疲労を残したまま、同じ会場で行われた大学生相手の体験イベントに参加。そこで、ドリブルや切り返しなど得意のテクニックを披露した際のアクシデントだった。
それから1ヶ月間、黒田はボールに触ることを医師に禁じられた。ブラインドサッカーを始めて以来、そんなことは一度もなかった。「正直、焦っていました」と黒田は言う。だから、新しいボールに少しでも馴染むために、外出中の妻に黙って練習会に参加した。滑って逃げていくボールを追いかけたとき、伸ばした左足の太腿を痛めた。十字靱帯損傷と、肉離れ。日本のエースは、両足に不安を抱えたまま本番を迎えることになった。
12月17日に仙台入りしたチームは、2日間、泉区松森のフットサル場で練習を行った。周囲には残雪があったが、天井のあるコートは乾いており、ボールに関する問題は感じられない。多くの選手が、以前の練習よりも威力のあるシュートを放っていた。続く19日と20日には、初めて大会会場の元気フィールド仙台で練習を実施。20日の練習途中には、選手の練習用に配布されたボールとはややデザインの異なる大会公式球が、チームに提供された。
そこで再び、問題が発生した。ボールの音が、ほとんど鳴らなかったのだ。
はっきりした理由はわからない。翌日からはふつうに鳴るようになったので、「おろし立てだと鉛の玉が動きにくいのだろう」と言う関係者もいる。いずれにしろ20日の時点では、翌日から鳴るようになるとは誰も思わない。この大会が、最初から最後まで「鳴らないボール」で行われると考えるのが当然だ。ブラインドサッカーの選手にとって、それは「消える魔球」に等しい。
チームは練習メニューの変更を迫られた。その日はセットプレイの確認作業が予定されていたが、そんなことをしている場合ではない。ボールに慣れるため、各自がドリブルやボールタッチの練習をする時間を作らざるを得なかった。翌21日の公式練習は対戦国が視察しているので、CKやFKを見せるわけにはいかない。コーチ兼コーラーの魚住稿は「得点の可能性はセットプレイがいちばん高い」と考えていたが、その練習は最後まで現地で行うことができなかった。
会場の元気フィールド仙台(仙台市民球場)は、野球場である。試合用のピッチは、そのライト側の外野部分に用意された。人工芝は、ふだん日本選手たちが使用しているフットサル場よりもかなり深い。そのためボールが止まりやすく、両足ではさんでドリブルをする際に、引っかかりを感じた選手が何人もいた。
佐々木康裕と山口修一は、表面のなめらかなボール自体は「ドリブルしやすい」と感じていた。だが、深い人工芝がその邪魔をする。ボールを置き去りにして前に進んでしまう「忘れ物」が増えた。フットサル場の練習では好調な動きを見せていた加藤健人も、長い芝には最後まで苦しんだと言う。ボールもピッチも、ホーム・アドバンテージにはならなかった。自国開催とはいえ、仙台の厳しい寒さも、関東・関西・九州から集まった選手たちにとっては、むしろアウェイ感のほうが強かっただろう。

もちろん、ホーム・アドバンテージが皆無だったわけではない。12月22日に開幕した大会には、地元の小学生をはじめとして多くの観客やサポーターが詰めかけ、大きな声援を送った。どの選手も、これには力を得たと口を揃える。
その中で、日本はまず優勝候補筆頭の中国と対戦した。中国は開幕前夜に来日したため、公式練習をやっていない。だが試合前のウォーミングアップでは、不 慣れなボールも芝も気にすることなく、巧みなドリブルを披露していた。足元のテクニックに関しては、日本選手とのあいだにまだ大きな開きがある。
しかし、勝機のない試合ではなかった。過去の国際大会で活躍した主力を何人かメンバーから外した中国は、明らかに技術的に見劣りのする控え組4人を先発起用したからだ。前半に惜しいシュートを放った佐々木が言う。
「自分もボールが足につかなかったけれど、相手もポロポロとボールをこぼす場面が多かったので、点が取れる気はしてました。前からプレスをかけて、2人で 相手を挟み込んでボールを奪うプレイも、練習どおりにうまくいきましたから。相手の守備も、以前の試合ほど厳しくなかった。シュートを撃ったときも、守備 の裏にこぼれたボールに向こうが反応しなかったから、先に追いつけたんです。ただ、体力的にはキツかったですね。1試合をフルプレスで通すのは無理だと思 いました」
フルプレスとは、今回の日本チームが導入した守備戦術だ。技術レベルの高い相手は、中盤で自由にドリブルさせると止めにくい。だから高い位置で人数をかけてプレッシングを行い、相手がドリブルを始める前に潰そうというわけだ。GK佐藤が説明する。
「1年前の中国戦でも、相手がハーフラインぐらいでボールを持つと、日本の選手はどんどん引いてしまったんです。すると、壁際に追い詰めても逆サイドに振 られて、また追いかけなきゃならない。仮に自陣でボールを奪ってドリブルを始めても、相手に潰されてしまう。だったら前からプレスをかけたほうがいい、と いう考え方です」
その戦い方が、序盤はうまく機能していた。何度か危険なシーンもあったが、DF田中章仁が機敏に体を寄せ、GK安部尚哉がファインセーブを見せる。攻撃面では、途中出場の黒田が自陣深くから最前線で待つ佐々木に出したスルーパスが、スタンドを湧かす場面もあった。
だが、日本のスタミナが落ちてきたあたりから、中国は5番、10番、11番のレギュラー陣を次々と投入。それにつれて、押し込まれる時間帯が増えていった。コーラーとして中国ゴール裏からそのプレイを見ていた魚住が言う。
「10番と11番は、1年前とくらべてもレベルアップしていました。彼らは、ドリブルしながらボールをほとんど意識していないんです。その分、状況判断を する余裕がある。左右に相手を振り回しながら、守備陣形を確認することだけに集中しているんですよ。以前はドリブルのコースに一定のパターンがあったの で、そこに敵がいても、まるでプログラミングされているかのように突っ込むことがありました。でも今回は、空いたスペースを探してそこに入ってきた。ドリ ブルのお手本が目の前にあった感じですね」
しかしピッチで対峙した黒田は、それほど怖さを感じていなかった。
「先発のメンバーはほとんど中に入ってこなかったので、11番が入ったときはさすがに違うと思いましたが、徐々に慣れてきました。中に入らないようにだけ ケアしていれば、無理やり突破せず外に逃げてくれる。それを追いかけすぎず、味方のトップの選手にマークを受け渡していれば、そんなに危ない場面は作られ ないような気がしましたね」
トップの位置でプレイした山口も、「守備のときのポジショニングがうまくできて、来ると思ったところに相手が来たので、網にかけるように止められたことが何度もありました」と言う。
だが、相手の攻撃に慣れてきた頃、黒田は接触プレイで右膝を痛めた。本人はそれを膝が「崩れる」と表現する。1分ほど我慢するうちに痛みが去って走れる ようになるが、このときは自らベンチに交代を申し出た。11番に先制ゴールを決められたのは、その直後だ。黒田に代わって入った落合は、先発して前半10 分までプレイしたが、その時間帯に対峙したのは、中国の控え組だけだった。黒田が言う。
「何とか行けるかとも思ったんですが、頑張りすぎてチームに迷惑をかけてはいけないと思って代えてもらいました。でもすぐに失点してしまったので悔しかっ たですね。自分があと1分ぐらい頑張ればよかったのかもしれない。だから次の試合からは、自分から代えてくれとは言いませんでした。足を引っ張ることにも なりかねないので、その判断にはかなり悩みましたが」
先制されたとき、前半の残り時間は3分程度だった。日本は後半の終盤にも中国10番に決められ、初戦は0-2。しかし決められた場面を除けばピンチは少 なく、撃たれたシュートは過去のどの中国戦よりも少なかっただろう。フルプレスが通用する手応えは十分に得られた試合だった。ただし、スタミナが切れる時 間帯にそれを続けられるかどうか。そんな課題が残ったのもたしかである。

初戦の黒星は想定の範囲内だったが、それによって、23日の韓国戦は「負けたら終わり」の背水の陣となった。しかも韓国は前日のイラン戦で、最後にPK を与えて追いつかれたものの、先制して勝ち点1を得ている。大方の予想に反する結果で、この大会に楽に勝てる相手はひとつもないことをあらためて思い知ら された。
韓国の強さは、守備のしつこさだ。ルーズボールへの寄せが早く、相手を壁際に追い込むと、3人で包囲して身動きを完全に封じてしまう。この試合でも、佐々木が何度もそのターゲットになった。
「ゴールスローを壁際で丁寧にトラップしてからドリブルに持ち込もうという意識が強かったんですが、それが裏目に出たのかもしれません。しっかり止めてい ると、3人に囲まれてs身動きできない。相撲を何番取ったかわかりません(笑)。どこにもボールを出せないんですよ。あれはすごく体力を消耗しました」
しかし魚住によると、これはルール上、かなり微妙なプレイだった。かつて日本がIBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)から教わったルールでは、「壁際 のディフェンスは1人だけ」で、2人目が関与するのはファウルとされていたという。しかし2010の世界選手権で審判団に確認したところ、人数の問題では なく「壁際で攻撃側が行く方向をなくすのが反則」と言われた。前後を2人で挟み込んでも内側には行けるからオーケー、という解釈だ。だからこそ日本も、今 回は2人で挟む守備を磨いた。
「でも3人で囲まれると行く方向がなくなって、ゲームが停滞しますよね。ボールを持っている選手は、パスもドリブルもシュートも何もできない。ただ、これ はルールブックに明記されていないんです。だからファウルではなく、ドロップボールでのリスタートになった。日韓戦では、壁際に6人の選手が集まってし まったこともありました。しかもドロップボールを審判が壁際に転がすので、また同じプレイのくり返しになってしまう。これは面白くないし、あれを認めると サッカーのやり方自体が変わってしまうので、ルール整備を考えてほしいですね。あれがオーケーとわかった途端に、最後までそれをやりきった韓国チームは、 さすがにしたたかだとは思いますが」
攻めあぐんだ日本は、前半を0-0で折り返した。ファウルを重ねて、韓国の14番に得意の第2PKも蹴らせている。キックが枠を逸れてくれたから良かったものの、試合のペースは韓国が握っていたと言えるかもしれない。
そして後半6分、韓国に先制点が入る。4番の選手がドリブルでカウンターに入ったとき、日本は黒田と佐々木が前線で置き去りにされ、自陣では田中と山口 が縦に並んでいた。田中を抜いた4番と山口の一対一。山口はその少し前に相手選手と衝突して倒れ、やや頭が朦朧とした状態だった。無理してプレイを続け ず、倒れたままいったんゲームを止めるべきだったかもしれない。しかし試合展開を完全には把握できないサッカーで、起き上がらずに笛が鳴るのを待つのは難 しいことだ。
2人の競り合いの中で、ボールがゴール方向に流れる。4番は山口を腕でブロックしながら、ボールに向かって体を投げ出した。GK佐藤は「間違いなくスラ イディングシュートをしてくると思ったので、準備はできていました」と言う。「でも右足を空振りしたので、一瞬、あれ? と思ったんですよね。そうしたら 左脚に当たって入ってしまったんです」――このあたりが、ブラインドサッカーのGKの難しいところだろう。晴眼者のサッカーではまずあり得ない「偶然の フェイント」だった。
脳裏に、4年前の悪夢が蘇る。勝てば北京パラリンピック出場の決まる韓国戦。第2PKで先制された日本は、猛攻をしかけながらも遂に韓国ゴールをこじ開 けることができなかった。その試合だけではない。先制されて追いついた試合は、この5年間で1度しか見たことがなかった。先制されると脆いチーム――選手 たちには申し訳ないが、それが私の頭には刷り込まれている。黒田や佐々木が次々と放つシュートがGKに阻まれ、枠を逸れるたびに、私は無情に時を刻む時計 に視線を向けていた。
後半12分、日本ベンチは山口に代えて落合を投入。その5分後には佐々木に代えて加藤を入れ、落合を中盤からトップの位置に上げた。これも私の中では厭 な記憶と結びつく。2007年のアルゼンチン戦だ。練習であまり経験していないワントップに入った落合は、高い位置から全力で守備に戻った際、相手選手と 激突して転倒。鼻骨を骨折し、救急車で搬送されてしまったのである。今回も、「落合トップ」はあまり練習で試みられていなかった。魚住によれば、この起用 はある意味で「苦肉の策」だったようだ。
「オッチー(落合)を入れてヤス(佐々木)をトップに上げた時点で、最後の勝負をかけるつもりだったんです。でもヤスが点を取れなくて、アテが外れた。そ のヤスをベンチに下げた時点で、ふだん中盤をやっている3人(落合、黒田、加藤)のうち、誰かをトップに据えなければいけなくなりました」
加藤が投入された時点で、残り時間は8分を切っていた。後半のキックオフからずっとサイドフェンスの外で戦況を見守っていた加藤は、「失点してからは、 ずっとヤバいと思ってました」と言う。隣では、実況役のGK安部尚哉が「ヤバいヤバい。早く点取れ」などと何度も呟いていた。
「でもピッチに入ったときは、そんなに緊張しませんでしたね。韓国のスピードが落ちているのはわかっていたので、慌てることもなく、何とかなると思ってい ました。入ってすぐゴールライン付近で競り合ったときも、最低でもCKを取ろうと考える余裕があった。相手がボールに触ってくれたので、うまくいきまし た」
左CK。加藤が「オッチー行って」と言って右足をボールに乗せ、落合が両足でそれを挟む。通常あのメンバー構成の場合、右CKでは黒田、左CKでは加藤 か落合がドリブルを担当するが、この試合では、すでに左脚でシュートできる状態ではなくなっていた黒田が、右CKも落合に任せていた。落合が言う。
「2人が自分に任せてくれたのが嬉しかったですね。ここで決めなきゃ、と思いました。でも、その前のCKを失敗していたので、どこをどう抜けばいいのかよくわからなかった。相手が4人で囲んでくる前に撃とうかどうしようか、迷っていたんです」
笛が鳴り、明確なイメージのないまま、落合は魚住の指示どおりニアサイドに向かってドリブルを開始した。早めにシュートを撃とうとしたとき、韓国選手の足に当たってボールがゴール前に転がる。しばらく前から殺気立っていたスタンドが、どよめいた。
しかし、そのとき落合の耳には、「シュート!」という魚住の声とボールの音だけが聞こえていた。一か八かで左足を踏み込み、右足を振る。練習では、滅多 にヒットしないキックだった。風祭は後日、「オッチーの努力に神様がついてくれたんやろね。ホンマ、よう練習しとったから」と評した。
完璧にボールをジャストミートした落合は、「感触が良すぎてどこに飛んだかわからなかった」と言う。シュートコースで指示を出していたコーラーの魚住 が、ゴールネットの裏でボールを避けた。落合のシュートは、「声」の出所をピンポイントで撃ち抜いていた。同点。あと6分で切れようとしていたロンドンへ の道が、つながった。
5分後、韓国の14番が日本陣内の左サイドでゴールスローを受けた。前日のイラン戦に続いて終盤に追いつかれた韓国としては、日本のファウルを増やして 第2PKを得たかっただろう。加藤がマークにつくと、14番は簡単に倒れた。だが笛は鳴らない。すかさずルーズボールを拾った黒田が、フィールドのど真ん 中を猛然とドリブルで駆け上がる。
後半の序盤に、黒田の右足は一度「崩れて」いた。風祭も、黒田の動きがおかしいのを見て交代を考えたという。しかし黒田は痛みを、監督は選手交代を我慢した。
ただし、あのとき黒田が選択できたプレイはそう多くない。崩れた右膝は回復していたが、もう負担のかかる切り返しができる状態ではなかった。左脚も、シュートには使えない。スピードで勝負し、右足でシュートを撃つ以外になかった。
2人の敵を抜き去りながら、黒田は「最後の1人を丁寧に右へかわすことだけを考えていた」と言う。相手がどこにいるかは、わかっていた。ペナルティエリ アに到達し、スピードに乗ったまま方向を変え、右45度で強引にボールを叩く。黒田にはこの位置からのシュートを右に外す癖があるが、このときはファーサ イドをボールが襲った。懸命に右腕を延ばしたGKが、かすかにボールに触れる。しかしその指先を弾いて、ボールはサイドネットを揺らした。会場の時計は、 残り時間1分8秒を表示していた。
ブラインドサッカー日本代表、史上初の逆転劇。スタンドが沸騰し、日本ベンチでは殊勲者の妻が号泣する。しかしこの大騒ぎの中にも、隠れたファインプレイがあった。黒田が、観客に静粛を求めるよう審判に要求したのだ。
「韓国のキックオフが始まるとき、味方の声がまったく聞こえない状態だったんです。音が聞こえないときはボールを持っている側が圧倒的に有利なので、これ はマズいと思いました。それに、時間稼ぎもしたかった。場内が静まるまで審判が笛を待ってくれたので、落ち着いて次のプレイに入れましたね」
この冷静さがあったからこそ決まったゴールだったのだろう。選手たちは残りの1分もやるべきことをやり抜き、勝ち点3を手に入れた。
かつて黒田は私に、「観客が本当にスポーツとして感動できる試合を見せたいんです」と語ったことがある。ブラインドサッカーを知った人に「信じられな い」「驚いた」などと言われるたびに、「見えないことでゲタを履かせてくれているだけの、障害者割引みたいなもの」を感じるからだ。しかしこの韓国戦のス タンドを殺気立った空気で包んだ観客たちは、これが障害者スポーツであることを忘れていたに違いない。そこには、ただサッカーの興奮だけがあった。
「こいつらにサッカーをやらせてやりたい」――選手指導を始めた当初、それが風祭の願いだった。その意味では、10年の歳月をかけて、日本のブラインドサッカーが「サッカー」として完成した日だったとも言えるような気がする。

しかし、成長が必ずしも結果を伴わないのもまたスポーツだ。「当社比」で伸びただけでは、勝利を手にすることはできない。翌日のイラン戦は、そんな現実をあたらめて突きつけるものになった。
難しい試合だった。イランが前日に0-1で中国に敗れ、この日の第1試合で韓国が中国と0-0で引き分けたため、日本はイランと引き分け以上で決勝進 出、つまりロンドンパラリンピック出場権を得ることができる。だが「引き分け狙い」の戦い方ができるほどの実戦経験が、日本にはない。守りに入ると選手が 後ろに引いてしまい、フルプレスが効かなくなる恐れがある。チームの結論は「勝ちに行く」だった。
スコアレスで終えた前半の手応えは、選手によって違う。落合は「1年前のイランよりも弱い。危険な場面もあったけど、互角にやれている」と感じていた。 魚住も「危ないシーンも想定の範囲内だったから、前半でイケると思いました」と言う。しかし黒田は「怖かった」、加藤も「強かった」と言った。過去5年間 の取材を通じて、これほど対戦相手の印象が選手によって違ったことはない。また、「引き分けで何かが手に入る試合」も初めてだった。「勝ちに行く」とはい え、当然「0-0でいい」という思いは頭の片隅にあっただろう。そのバランスが、選手によって違ったのかもしれない。しかしその一方、ひとつだけ、ほとん どの選手とスタッフが一致して口にしたことがある。
ヤスのシュートが決まっていれば流れは変わった――。
前半の終盤にポストを叩いた佐々木のシュートだ。本人も「距離もそんなに遠くなかったし、大振りせずしっかりミートできたので、感触的にはDFの股を抜 いて入ったと思いました」と言う。だが日本の選手たちはこれまで、こうした「タラレバ」をほとんど口にしなかった。それを言わざるを得ないほど、欲しい1 点だった。もし1-0で前半を折り返せば、後半も「勝ちに行く」姿勢を保てただろう。だが前半を0-0で終えれば、どうしても「このまま引き分けでいい」 という思いが頭をもたげる。
「後半は日本のペースになるのが遅かったかもしれません」と言うのは加藤だ。「勝つつもりでやってはいましたけど、前半を終わった時点で引き分けでいいという意識になったのかもしれない。失点するまでは、どこかに守りの意識があったような気がします」
イランの先制点は、後半7分だった。右サイドでボールを持った9番の選手が、左右に深い切り返しで揺さぶりをかけたとき、日本は黒田、山口、加藤、田中の4人でその突破に備えていた。数的には圧倒的に有利なので、さほど危ない場面には見えなかった。GKの安部が言う。
「コンパクトに囲んではいましたが、誰も体を寄せ切れていませんでした。何度も切り返してくる相手に対して、抜かれるのを怖がって受け身になってしまっ た。僕も『行け!』と指示は出しましたが、あの距離ではセーブに備えてボールに集中する必要があるので、誰を当たりに行かせるかという細かいところまでは 伝えられなかったんです」
黒田は、「あのときのプレイがこの大会でいちばん悔いの残る場面だった」と言う。シュートを撃たれたとき、9番に体をつけていたのが黒田だった。
「実際はほんの一瞬だったんでしょうけど、あの時間はすごく長く感じましたね。腕で相手をブロックしたのですが、ゴール側に体を入れることができなかった ので、誰かもうひとり味方が来てくれるかな、と思っていました。相手にもガッチリと押さえられているので、ボールにも足が届かない。だから、相手がボール を動かすのを待っていたんです。そうしたら、足を入れてボールを取りに行くつもりでした」
しかし黒田は次の瞬間、相手が軸足を固定したまま、ノーステップで右脚を振り上げるのを察知した。シュートまでの動きをスローモーションのように感じていたが、どうすれば止められるのかわからなかった。
そのとき加藤は、自分と田中の2人で「シュートコースは切っているつもりだった」と言う。しかし右足のアウトサイドで蹴られたボールは、加藤が「そこに コースはない」と思っていた隙間を抜けた。相手が反対側に回り込んでくるのを警戒していた山口も、「そちら側は抜けない」と決めつけていたため、シュート に反応できなかった。安部は相手がいつシュートしたのかわからず、ボールが自分の脇をすり抜けてから「蹴られた」と思った。ボールはファーサイドのポスト に当たり、ゴールに入った。
0-1。攻撃に転じるしかなくなった日本は、山口に代えて佐々木を投入。そこからは連続でCKを取るなど、イランを押し込み始めた。
「あそこで入ってからは、相手とゴチャゴチャに絡みながら、必死でゴールに向かいました。トモ(黒田)が拾って前線まで運んでくれたボールを自分がキープ して、CKを取るところまではよかったんです。でも相手の寄せが早くて、コーナーからドリブルをすると2歩ぐらいで潰されてしまう。だから、寄せられる前 にゴール前に蹴り出して走り込んだり、早めにバックパスをしたり、いろいろやりました。でも気持ちが慌てていたせいか、どれも苦し紛れのプレイになってし まった」
ゴールの予感は十分にあった。イランが3つめのファウルを犯したのも、日本の圧力を感じたからだろう。もうひとつファウルをもらえば、第2PKだ。前日の韓国戦のことを考えれば、ロンドンへのチケットはまだ手の届くところにある。
しかし、落合のゴールで韓国に追いついたのとちょうど同じ時間帯に、日本は致命的な失点を喫した。エースの6番が右サイドでボールを持ち、壁際でマーク についた加藤を見事なターンで抜き去る。その後ろで待っていた落合は逆を突かれ、戻ろうとした味方をブロックしてしまった。GK安部との一対一。狙い澄ま したかのようにファーサイドに流し込む、完璧なシュートだった。
誰も諦めてはいなかった。残り時間が2分を切っても、加藤や佐々木が惜しいシュートを放つ。イランが4つめのファウルを犯し、日本が第2PKを得たとき も、佐々木は「まだ3分ぐらいあると思っていたので、これが決まればチャンスはあると思っていた」と言う。だが、残り時間はわずか15秒だった。
日本ベンチは、佐々木に代えてPKのスペシャリスト・葭原滋男をピッチに送り込んだ。とっておきの「代打」だが、これほど過酷な役割もなかった。葭原は 中国戦も韓国戦も、1秒も出場していない。陸上と自転車で数々の栄光を味わった49歳のパラリンピアンは、体を冷やさぬよう足首にホッカイロを巻き、常に 体を動かしながら、ずっと出番を待っていた。
「0-2になっても声がかからなかったので、もう出番はないものと思ってましたね。だから、体を動かすのもやめていました」
ゴール前8メートル地点にボールをプレイスするまで、頭の中では「どうせ負ける」「でも、もしかしたら何か起こるかもしれない」「いやダメだ」「でもま だ終わったわけじゃない」……といった思いが、ぐるぐると回っていた。蹴る前に大声で吠えたのは、その堂々巡りを止めるためだったのかもしれない。
しかし、気合いは入れたものの、冷え切って固まった脚はまったく言うことを聞いてくれなかった。それ以下はないほどのミスキック。ボールがゴールライン に届くかどうかも微妙な勢いだったが、ゴール裏でカメラを構えていた私は、それを見届ける前に、ピッチから目をそむけていた。
この大会は、宿舎と競技場を往復する選手の送迎バスが、常に対戦相手との相乗りだった。そのため前日は、あれほどの勝ち方をしたのに、韓国に気兼ねして 騒ぐことができなかった。そしてイラン人には、その配慮がなかった。初のパラリンピック出場を決めて盛り上がるイランの選手たちは、やがて大声で「ニッポ ン・コール」を始めた。佐々木は心の中で「鬱陶しい」と呪詛の言葉を吐いた。落合はイヤホンを耳に差し、音楽のボリュームをめいっぱいまで上げた。3日間、スタンドで選手たちを支え続けたニッポン・コールに、ここで耳を塞ぐことになるとは、誰が想像しただろうか。
キャプテンの三原健朗は、リーグ戦の3試合、まったく出番がなかった。いや、彼は4年前のアジア選手権も、開幕前の練習で故障して帰国している。4年間で1度も、パラリンピック出場を懸けた試合に出場していない。
「これがサッカーだとも思います。でも、できれば1分でもいいから使ってほしかった。やってダメなら納得できますから。精一杯に練習してきたので、チームに貢献できるとも思っていました。この4年間で監督の印象を変えられなかった自分が悔しいです」
3位決定戦での初出場は、複雑な心境だっただろう。しかし三原は「4位で終わった去年のアジアパラから1つでも順位を上げなければ、何も残らない」と考え、真剣勝負を挑んだ。温厚なキャプテンに見えるが、負けん気はチーム随一かもしれない。
イラン戦の夜は「3位決定戦なんて要らない」と思った佐々木は、一夜明けてから「1点も取らずに終わるわけにはいかない」と思い直した。
黒田は、前の晩に何人もの首脳陣から「明日はやめておけ」と言われたが、誰に対しても「はい」と答えなかった。当日の朝、トレーナーの阿部良平に「今日はテーピングしないよ」と引導を渡されて、ようやく諦めがついた。
試合は、佐々木と葭原のゴールで日本が韓国を下した。左足で1点を決めて最低限の目的を達した佐々木は、相手選手と交錯した際に、その左足首を捻挫し た。「点を決めた後でよかった」と思った。葭原は、イラン戦で失敗した第2PKをねじ込んだ。コーラーの魚住にポストの右上と右下を叩かせてGKの注意を そこに引きつけ、左下を狙う。当たり損ねの弱いキックだったが、反対側に重心を移していたGKは反応できなかった。
選手たちは、サッカーを楽しんでいるように見えた。いや、むしろスタンドの観客を楽しませようとしているように見えた。4年前、どこか投げやりな戦いぶ りでイランに負けた3位決定戦とは違う。ホームでなければ、決してできない試合だった。2日前の韓国戦とはまた別の意味で、観客はそこに「サッカー」を感 じたのではないだろうか。
ホスト国が閉会式で笑顔を見せたことで、大会は和やかな雰囲気の中で幕を閉じた。選手たちは周囲から、「また4年後のチャレンジを期待しています」「リオを目指して頑張ってください」といった言葉を掛けられたことだろう。
だが選手たちは、そう簡単に「次」を目指せるものではない。日本チームで唯一、4試合にフル出場した田中が言う。
「4年は長いですよ。簡単に『続ける』とは言えないし、『続けない』とも言えない。正直、今はまだ迷っています。もう少し自分の中で今回のことを整理しないと、答えは出ないでしょうね。それだけ重いものだと思ってるんです」
この4年間、選手たちは仕事や家庭などで多くの犠牲を払いながら、精一杯の努力を重ねてきた。それでも勝てなかったのだから、4年後にパラリンピック出 場を果たすには、これまで以上の努力が求められる。しかも日本代表は、平均年齢がライバル国よりもはるかに高い。中国やイランはほとんどが20代だが、日 本は26歳の加藤ひとりだけ。その次に若いのが、33歳の田中、黒田、山口だ。4年後には軒並み「アラフォー」になっている。本気で勝負を挑もうと思った ら、どれだけの努力が必要になるか見当もつかない。実質的には、このチームでパラリンピックを目指すのは今回がラストチャンスだった。このチームでパラに 行きたい――その思いで一致団結し、若いライバル国を相手にあそこまで惜しい戦いをくり広げることができたのだ。
一方、新たに代表入りを目指す選手は、ほとんど育っていない。今回のフィールドプレーヤー8人の座を脅かせそうな選手は、私の知る範囲では、たった2人だけだ。2007年以降、代表選考会の参加者は減る一方である。
それ以前に、各クラブチームが試合のための人数を揃えるのに四苦八苦しているのが実情だ。関東リーグのチーム数は徐々に減り、選手が足りないがゆえの 「不戦敗」も増えている。アジア選手権のような華やかなイベントの裏で、ブラインドサッカーの現場は徐々に痩せ細っていると言わざるを得ない。
この状況で4年後を本気で目指すとなれば、大変な覚悟が必要になる。風祭監督が後進に道を譲ろうと考えたのも、これ以上、選手に高いレベルの努力を求め にくくなってきたからだ。日本のブラインドサッカーをスタート当初から見てきた風祭は、「昔とくらべるとめっちゃ上手くなったから、今の代表選手たちのプ レイに満足してしまう」と言う。比較対象のレベルが低いから、つい要求が甘くなってしまうわけだ。しかしそれでは、常に半歩先を行くライバル国に勝つこと ができない。パラリンピックを目指すなら、選手たちにより高いレベルのプレイを求め、そのために過酷な練習を課すことのできる指導者が、代表チームを率い るべきだと考えているのだろう。
また、勝利への厳しさを求められるのは現場の選手や指導者だけではない。もし本当の意味でパラリンピックに「チャレンジ」するなら、代表チームの強化を 最優先にしたサポート体制の構築が不可欠だ。日本国内でも、パラリンピックでメダルを獲るような競技の中には、強豪国を招いて大会を開き、海外遠征を重ね るなどして、ひたすら代表チームの強化に励む団体もあると聞く。今回のアジア選手権参加国も、中国とイランは4月にトルコで行われた国際大会に出場した。 そこで欧州の強豪国を下して優勝したイランは、きわめて大きな経験値を得たに違いない。韓国も、大会前にマレーシアに遠征して親善試合を行っている。日本 は、昨年のアジアパラゲームス以来、1年ぶりの国際試合だった。
私は、それをやるべきだと言いたいわけではない。そんなことを言う立場でもないし、それが日本の選手たちにとって望ましいことなのかどうかも難しい問題 だ。そこに向かって進めば、引き替えに失うものも大きいだろう。今大会を通じて、私はパラリンピックの過酷さを再認識させられた。安易に「4年後を目指し て頑張れ」と言うのは、最大限の努力をしながら敗北した選手たちを、さらに苦しめることにしかならない。
日本のブラインドサッカーは、誕生から10年が経った今、大きな岐路に立たされているように思う。ここで必要なのは、すぐに次を目指して前を向くことで はなく、いったん立ち止まって議論することではないだろうか。その議論が、「選手第一」の方向に進むことを願ってやまない。