ラモスや松木、武田、北澤らに混じって、中1の女の子がボール回しに参加している。日本サッカー界のトップスターたちが未来を託しながら、輪の中に小さな種を蒔いたのだ。その種は、20年のときを経て、女子サッカー界を牽引するフットボーラーという芳醇な実をつけた。

文=増島みどり 写真=早草紀子
私は、ベレーザに上がったばかり、中1でした。女子サッカーでは雲の上の存在だったあこがれの本田美登里さん(現U-20女子代表コーチ)、高倉麻子さん(現解説者)、野田朱美さん(現日テレ・ベレーザ監督)を前に、わぁ、私、何てすごい人たちとサッカーしているんだろう、と毎日興奮し、練習なのに、試合以上に緊張してガチガチになっていました。
当時、練習や試合で右のハーフのポジションに入ることが多く、右サイドバックには本田さんがいて、ボールを持つとどうしても本田さんを頼ってボールを戻してしまうんです。緊張しちゃって、前に相手選手がいるかどうかなんて、冷静に見えていなかったんでしょうね。あるとき、本田さんに、ピッチで怒鳴られました。「コラッ、澤! どうしてボールを戻すの? 前を向いて、自分で行きなさい!」って。「前を向いて、自分で行く」。それは、あこがれの人たちに囲まれたあのベレーザのピッチで、私が最初に教えてもらったことかもしれない。今でも覚えています。
今になると、どうしてあんな豪華なボール回しの輪に、いいプレーもしていなかった自分が混ぜてもらったのか本当に分からないんです。本田さん、野田さん、高倉さん、それに、Jリーグの開幕を前にして大変な人気だったヴェルディのラモス(瑠偉)さん、松木(安太郎)さん、武田(修宏)さん、北澤(豪)さんが人工芝でやっていたボール回しに、呼んでもらったことがあるんです。
今だって考えられないほどのスターが勢ぞろいしている中に、中1の私がポツン、と。想像どおり、皆さん、特にラモスさんなんて手を抜きませんから、1回もボールを取れなくて、とにかく私、ずっと輪の中にいました。股抜きされると1回ペナとか、プロなのに子供相手にいっさい手加減なし。私は一生懸命やっているのに、皆さん、もう笑っちゃうほどうまくて、とにかく一度もボールを奪えませんでしたね。
なぜあのとき、人工芝のピッチに呼んでくれたのか、後になって、フッと思い出し、考えることがあります。理由は分かりませんが、中一の私を、一人前のサッカー選手として扱ってくれたのかな。そしてサッカーを続ければ続けるほど、あのときのことがどんなに特別なことだったか分かるようになりました。
中学でもJリーグが大変な人気でしたから、クラスメートには「ねぇ、サインもらって来てよ!」と、よく頼まれました。でも、そんなクラブに自分がいることがすでに自慢でしたから、「ちょっと無理だと思うよ」なんて大人ぶって断ったりして。本当は、大好きなラモスさんとの2ショット、ちゃっかり撮影してもらっていましたけれどね。
ベレーザとヴェルディのオールスターキャストによる「ボール回し」の輪の中心に、女子チームに入ったばかりの中1がいる。他のクラブでは実現しないような不思議なシーンの背景には、両クラブの歴史、気風、そして彼らが13歳の女の子を見つめる柔らかく、熱い「視線」があった。
1991年春、澤穂希はベレーザの下部組織『メニーナ』の入団テストを受け、50メートル走、リフティング200回、ゲームの3つの試験項目に合格し入団が決定。わずか1カ月後には、早くもベレーザに上がった。そんな頃に経験したボール回しは、ドイツワールドカップ優勝で大会のMVPを獲得し、さらに年間女子最優秀選手の受賞と、女子サッカー選手として世界の「頂点」を極めた澤の、「原点」とも言えるプレーシーンかもしれない。澤は以前、「どうして混ぜてもらえたのか分からない」と話していたが、混ぜたほうには明確な理由があったはずだ。「なでしこ」と命名される以前から女子サッカーを牽引してきた野田は今、ベレーザの監督としてピッチに立っている。澤を輪に入れた日の記憶は明確ではないが、それは特別なことではなく、むしろ日常の光景として印象に残っているという。クラブに入ったばかりの中1の女の子も、男子のトッププロも同じ。それが当時の、ヴェルディというクラブの気風だった。自身もまた、澤とまったく同じ経験をしている。「私なんて、1時間以上出られなかったんです」
ラモスさん、松木さん、都並(敏史)さん、ジョージ(与那城)……と自分を囲んでいた「輪」を思い出しながら笑う。澤と同じで、あまりのうまさにただ振り回されるだけ。まったくボールを奪えず1時間半、中にいた。しかし終わったときに、ラモスが優しい笑顔で掛けてくれた言葉を今でも忘れられないと野田は振り返る。
ボールは自分で奪わなかったら一生手にできない。
そして、一度奪ったボールはどんなことがあっても失っちゃダメだ。
中学生の女の子は、1時間以上ボールを追い掛けた後のその言葉に、強くうなづいた。「ラモスさんをはじめ、当時のヴェルディには、出る杭は打つのではなく、出る杭を皆んなで引っ張ろう、そういう自由で、だからこそ厳しい雰囲気がありました。澤にも同じことを伝えたかったのだと思います」
事あるごとにベレーザを、女子サッカーを応援するためスタジアムに足を運び続けたラモスは、澤をボール回しに加えたことを今もよく覚えていた。野田の次の世代を引っ張るのは澤。クラブに入ってきた、どちらかと言えば大人しくて主張しない女の子に、抜群のテクニックとセンスを見出していたのだ。「ベレーザのトップにいた高倉や野田を抜けるのは澤しかいないと思ったし、まだか細かったけれど、あの子はものすごくうまかった。彼女が何時間もボールを取れなかったのもよく覚えている。必死でボールに食らいついていた。テクニックだけではない、根性があったからね」
日本サッカー界のトップスターたちが、未来を託して「輪」の中に小さな種を蒔いた。あの日から20年が経過した今、種は、男女を通じて史上最多の国際Aマッチ出場、最多ゴールと、日本サッカー界、そして世界の女子サッカーを牽引するフットボーラ―という芳醇な実をつけた。
93年12月、澤が初の国際Aマッチに出場を果たしたのは15歳の冬だった。
そして96年、アトランタで初のオリンピックの舞台を踏む。男子の五輪代表がマイアミでブラジルを破り、まばゆいばかりのスポットライトを浴びていた頃、「ただ怖いもの知らずだった」という17歳は、注目もされていなかったスタジアムでドイツ、ブラジル、ノルウェーに体当たりし、ピッチに跳ね返されていた。出場を逃がしたシドニー五輪を経て、25歳で迎えた2度目の五輪、04年のアテネ大会は予選ラウンド1勝1敗でアメリカと対戦し、審判のアメリカ有利とも取れる判定もあり1-2で敗れた。「もう2度とオリンピックに来ることはないと思って、アテネを後にした」
アテネでアメリカ戦に敗れた後の落胆に、そう言ったこともある。引退が頭をよぎったこともあっただろう。しかし、「2度と来ることはない」と思ったオリンピックに、澤は8年経っても挑み続けた。北京では、史上最高の4位にまで上り詰めたが、それでも「何としても手にしたい」と渇望したメダルにはまた手が届かなかった。「私は日本代表と一緒に成長してきました。あっという間に終わってしまったアトランタ、アメリカに敗れ本当に悔しかったアテネ、北京では4チーム中自分たちだけがメダルに届かなかった。自分がどう考えて、何を目標としたのか。試合を思い出せば、そのときの自分もすぐに思い出せる。オリンピックがいつでも世界との距離を教えてくれました」
初挑戦から、人生の半分もの年月を掛け、不出場のシドニーを含めれば実に5度も挑み続けたオリンピックは、ロンドンで何を教えてくれるのだろう。
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