2016.12.05

“監督”ジダンに影響を与えた指導者たち

「一流は一流に学ぶ」と言うように、ジダンもまた、“監督像”の形成において、名将たちから多くを学んできた。ジダンが選手時代に指導を受けた監督は延べ20人。
彼らは“監督”ジダンにどのような影響を与えたのだろうか。[ワールドサッカーキング 2016年3月号]

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 ジネディーヌ・ジダンは昨年5月に母国フランスでコーチングライセンスを正式に取得したばかりの“新米監督”だ。しかし選手時代には、「名将」と呼ばれる数多くの指導者から学んできた。

 例えば、ユヴェントス在籍時代に「勝者の哲学」を叩き込んでくれたのはマルチェロ・リッピである。1996-97シーズンにセリエAを制し、ジダンに初のメジャータイトルをもたらしたイタリア人指揮官は、世界で最も結果にこだわる“カルチョの流儀”を教え込んだという。とりわけフィジカル面と戦術面での準備の重要性を繰り返し説いたそうだ。

 時を同じくして、ジダンは98年のワールドカップでフランス代表の初優勝に貢献した。自国開催の大会でチームを頂点に導いたエメ・ジャケについては、「大舞台において監督はどう自然に振る舞い、チームを管理するか」というマネジメント術を学んだと述懐している。既にこの時期には、ジダンのサッカー観の土台が形成されていたと言えるだろう。

 一方、ジダンが考える“理想の監督像”に多大な影響を与えた指導者として、ビセンテ・デル・ボスケとカルロ・アンチェロッティの名も外せない。特に後者とは、2シーズン前に監督とアシスタントとしてタッグを組んだことも記憶に新しい。対話を通じて我の強いスター選手と良好な関係を築きながら、現有戦力のタレントを最大限に生かした攻撃的なチームを作り上げる。両者の指導スタイルには共通点が多く、スペイン国内ではアンチェロッティが「イタリア版デル・ボスケ」と呼ばれたこともある。実際、ジダンは監督就任直後から選手たちに自由を与え、サイドを起点にした攻撃的なサッカーを披露しており、地元紙には早くも「デル・ボスケ式」や「アンチェロッティ式」という言葉が並んでいる。

 ただしジダンには、彼らにはない“カリスマ性”という大きな武器がある。「あくまで自分のやり方を追求していきたい」と話すとおり、今後は“ジズー”のオリジナリティーが見られるはずだ。

ジダンを指揮した歴代監督
■カンヌ時代(1988-1992)

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ジャン・フェルナンデス(1988~1990)
89年5月、当時16歳だったジダンの才能を見抜き、トップチームへ引き上げたジダンの“恩師”に当たる人物。のちにマルセイユやオセールでも指揮を執った。

ボロ・プリモラク(1990~1991)
現アーセナルのコーチ。名古屋グランパス時代から長くヴェンゲル監督の右腕として仕事をしている。

エリク・モンバエルツ(1991~1992)
現横浜FM監督。戦術本を出版するほどの戦術家で、若き日のジダンを約半年間にわたって指導した。

■ボルドー時代(1992-1996)

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ローラン・クルビ(1992~1994)
ジダンと同じマルセイユ出身で「ジズー」という愛称の名付け親としても知られる。現在はレンヌを指揮。

トニ(1994~1995.4)

エリック・ゲレ(1995.4~1995)

スラヴォリュブ・ムスリン(1995~1996.2)
ジダンを始め、若き日のビセンテ・リザラズやクリストフ・デュガリーらを擁したチームを率いたが、1年も持たずに解任された。

ゲルノット・ローア(1996)
95-96シーズン途中でチームを引き継ぎ、その年のリーグ・アン年間最優秀選手に輝いたジダンを中心に据えてUEFAカップ準優勝を果たした。

■ユヴェントス時代(1996-2001)

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マルチェロ・リッピ(1996~1999)
フィジカルと戦術脳を徹底的に鍛え上げることでジダンを“カルチョ仕様”のテクニシャンへと大改造。有望な若手の一人に過ぎなかったジダンを世界的スターへと飛躍させ、以後のキャリアにおける“伝説”の礎を築いた。ジダンの選手キャリアを輝かしいものにした最大の功労者と言える。

カルロ・アンチェロッティ(1999~2001)
イタリア人らしからぬ攻撃志向の持ち主で、戦術の引き出しも豊富。レアルの監督時代には、ジダンをアシスタントコーチに抜擢し、ともに“デシマ”を達成した。

■レアル・マドリード時代(2001-2006)

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ビセンテ・デル・ボスケ(2001~2003)
全盛期の“銀河系軍団”を率いて二度の欧州制覇を成し遂げた名将。人心掌握術やメディア対応力の高さはもちろん、典型的なトップ下の選手であったジダンを左MFとして輝かせた手腕も光った。2012年には地元サポーターが選ぶ「クラブ歴代ナンバーワン監督」にも選出されている。

カルロス・ケイロス(2003~2004)
選手育成を得意とする指導者だったが、カリスマ性に乏しく、ビッグクラブ向きの監督とは言えなかった。

ホセ・アントニオ・カマーチョ(2004~2004.9)

マリアーノ・ガルシア・レモン(2004.9~2004.11)

ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ(2004.12~2005.12)
南米屈指の理論派として知られるが、戦術におぼれる悪癖も。一貫性のない補強でチームに混乱を招いた。

フアン・ラモン・ロペス・カロ(2005.12~2006)
クラブレベルで“選手”ジダンを最後に指導した監督。ただし指揮官としての成果はゼロで、印象も薄かった。

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ジョゼ・モウリーニョ(2010~2012)
09年にペレス会長のアドバイザーという肩書きでレアル・マドリードに復帰すると、モウリーニョ政権下では、クラブのスポーツディレクターを務めるとともにトップチームのトレーニングにも積極的に関わった。

■フランス代表(1994-2006)

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エメ・ジャケ(1994.8~1998.7)
90年、94年と2大会連続でW杯出場を逃していたフランス代表で抜本的な改革を実行。カントナ、ジノラ、パパンといったベテランを一掃して、ジョルカエフやジダン
ら若い才能をチームの核に据えた。自国開催のW杯では悲願の優勝を達成。「フランス=育成」を知らしめた人物と言える。

ロジェ・ルメール(1998.7~2002.6)
ジャケ体制で副官を務め、その後監督に昇格。ユーロ2000優勝など代表の黄金時代を築いた。ただし、ジダンを始めとするW杯優勝組に依存した結果、日韓W杯では惨敗に終わった。

ジャック・サンティニ(2002.7~2004.6)
日韓W杯後に就任し、ブラン&デシャン引退後の代表チームでベテランと若手の融合を実現。ただし、ユーロ04ではベスト8という結果に終わり、ジダンも代表からいったん身を引いた。

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レイモン・ドメニク(2005.8~2006.7)
選手選考に星占いの結果を用いたり、暴言を吐いたりと、“お騒がせ監督”として有名に。05年にジダンを代表に復帰させ、ドイツW杯でチームを準優勝に輝いたことが唯一の功績か。