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オシム氏が説くマラドーナ像…「スペクタクルに生きる選手」と評するも“愚かな行為”の謝罪望む

2016.06.29

2006年から日本代表監督を務めたオシム [写真]=Getty Images

 サッカー史に残る名選手ディエゴ・マラドーナ。生きる伝説として、現代のサッカー界にも多大なる影響を及ぼしている。

 そのマラドーナが伝説の存在となった大会が1986年に開催されたメキシコでのワールドカップだ。カルロス・ビラルドに率いられたアルゼンチン代表のエースとして参加したマラドーナは準々決勝のイングランド戦で、サッカー史に残るプレーを見せた。

 クロスに飛び出した相手GKに先んじてボールを触りゴールを決めた“神の手”ゴールと、センターライン付近からイングランド守備陣を手玉に取るドリブルでの“5人抜き”からのゴール。この2点で勝利したアルゼンチンは決勝でも西ドイツを下して、同国2度目となるW杯トロフィーを掲げた。

 マラドーナが伝説の選手となったメキシコW杯からちょうど30年。『サッカーキング』ではその偉業を振り返るべく、サッカー界の様々な人物に話を聞き、偉大さを再認識するべく、『マラドーナ特集』を実施する。

 第8回のインタビューでは元日本代表監督で、1990年W杯ではユーゴスラビア代表監督としてアルゼンチン代表選手だったマラドーナと対戦経験のあるイビチャ・オシム氏に選手としてのマラドーナ、人間としてのマラドーナについて聞いた。

ディエゴ・マラドーナが1986年のメキシコ・ワールドカップに優勝してから30年が経ちました。

オシム 私はあの大会を現地まで見に行った。もちろん試合も見た。マラドーナだけではなく、負傷のジーコやミシェル・プラティニも……。素晴らしい大会だった。

準々決勝イングランド戦の“神の手ゴール”や“5人抜きゴール”など、あの大会でマラドーナは伝説になったと言えるのでしょうか?

オシム マラドーナが行った不正行為については、残念と言うしかない。もしもあの行為がなかったら、彼はサッカーの歴史において真の英雄になっていただろう。彼のキャリアを考えたときに本当に残念だし、サッカー全体に対してもそうだ。マラドーナばかりではない。他の選手たちにも、同じような状況でどうすればいいかという問題を提起しているからだ。

他にも同じような例が繰り返されています。

オシム 南アフリカ・ワールドカップ予選・欧州プレーオフ、対アイルランド戦でのティエリ・アンリのプレー(※)がそうであったように、サッカーにこのようなことが起こるのはとても残念だ。選手がどれだけプレッシャーを受けているかの証明であり、自分の望むようにプレーができないことの現れでもある。私が思うにマラドーナの行為を肯定するのは、サッカー全般に対する否定だ。サッカーはその妥当性を保ち続けねばならない。もちろん結果は大事だが、不正を働いてまで得るほどのものではない。フェアプレーは遵守されるべきだ。

※フランス対アイルランドにおいて、セットプレーからアンリが手でボールを触れた後、ウィリアム・ギャラスのゴールをアシスト。この結果フランスがW杯出場権を獲得した。その後、両国間で政治問題に発展するまでになる。

マラドーナ個人にとっても、否定すべき負の物語だったのでしょうか?

オシム メキシコでの神の手がなかったら、彼の個人的な物語はもっとずっと素晴らしいものになっていただろう。

[写真]=Getty Images

ではそれ以外では……。

オシム それ以外では私はいろいろな選手を見てきた。ルイス・スアレスやリオネル・メッシ……。彼らもまた葛藤を抱えながらプレーしている。私はイタリアでマラドーナがプレーするのを何度か見た。セリエAのリーグ戦で、彼にとっては簡単ではなかった。ナポリというクラブが、マラドーナの個の力に頼りきっていたからだ。

そんなに極端でしたか?

オシム 私が見たのは、彼が自分ひとりの力だけで勝った試合だった。当時のナポリは……、私には信じられなかった。ウディネでのウディネーゼ戦だったが、本当に彼はひとりでチームを勝利に導いた。アウェーで5対1の大勝だった。それはマラドーナがひとりで得た勝利で、他にもユヴェントスやミラン、インテルなど決定的な試合で彼は、どうすればいいかを良くわかっていた。

とはいえ周囲を固める選手たちも、どうすればマラドーナを有効にサポートできるかをわかっていたのでは?

オシム 彼の力は突出していた。加えて彼はとてもスペクタクルだったし、彼はそれを十分に利用した。メッシや他の選手たちよりも、そこはずっと巧かった。常に自分に注目が集まるように仕向け、すべてのメディア、すべての新聞が彼を大々的に取り上げた。他の選手と比べたときに、それは彼の大きなアドバンテージだった。

それだけメディアティックでもあった。

オシム 自らスペクタクルを作り出せる選手であったし、スペクタクルに生きる選手でもあった。

[写真]=Getty Images

スペクタクルに生きるとは?

オシム 人間としてもスペクタクルだった。選手としては……、思うがままに好き勝手をやり尽した。とりわけワールドカップでの彼のあの行為は……、本当に残念だ。彼ほどの選手が、あんなことをする必要はまったくなかった。少なくとも2~3年後には、愚かなことをしたと反省すべきだった。世界は彼の釈明を受け入れただろう。彼は世界中の誰からも愛されていたのだから。それならば彼の行為も忘れられただろう。

あれはあれで伝説ではないのでしょうか?

オシム そう言えないのはマラドーナの場合、あの素晴らしかったワールドカップか、それとも彼のあの愚かな行為かという二者択一であるからだ。だからこそ私は、彼が何の釈明もしないのが残念でならない。彼はもっとエレガントに振る舞えたはずだ。ところが誰も彼にあれは大きな過ちだと言わなかった。サッカーの歴史上稀に見る過ちだとは。すべての選手とFIFA、サッカーそのものを汚す行為だ。彼自身はあの行為が、サッカーを貶める悪いイメージになるなどとは想像しなかったかも知れない。だがまあいい。それが明日になるのか、それとも3年後なのかはわからないが、彼が自らの過ちを認め、サッカーのイメージを損なったことを謝罪するのを私は望んでいる。

今からでは遅くはありませんか?

オシム いつだろうと遅すぎることはない。彼はすべてのサポーターやメディア、サッカーに関わる人々に謝罪すべきだった。サポーターやメディアが、マラドーナの今の姿を作りあげた。だから彼を称賛する普通の人々に対して、彼もまた他の人々と同じ人間であること、まだ若く成熟してはいなかったこと、まだまだ人としては一人前ではなかったことを説明すべきだった。今だから良くわかるが、当時は若くて理解できなかったと。絶対的なスターだったから、誰も自分には何も言えなかったと。だからやり放題だった。自分自身がそういう環境に耐えられなかったことを。

[写真]=Getty Images

[写真]=Getty Images

しかしマラドーナは、天性の野生児ではありませんか?

オシム 彼には他の人間には許されないことも許された。ただ、それは彼ひとりだけのことではない。アンリもそうだしスアレスも何度となく同じことをしている。ジネディーヌ・ジダンは南アフリカ・ワールドカップ決勝で、マルコ・マテラッツィに対して頭突きを食らわせた。そうしたコントロール不能な行為は常に起こり得る。

たしかにマラドーナは、自分をコントロールする術を知らないしその気もない。

オシム だから彼はワールドカップとサッカーを台無しにした。そういうことだ。社会的な行為としてはそれほど酷くはないのかもしれないが、サッカーの世界では彼の犯した行為は重大すぎる。ただ、残念ながらサッカーの世界には、そういう人々が他にも存在する。その結果、世界中で同じようなことが起き、人々は今、少しずつだが着実にサッカーへの信頼感を失いつつある。

その通りかもしれません。

オシム サッカーにおける真実はプレーであり、試合でどうプレーするかだ。それこそマラドーナやメッシが、ピッチの上で実践してきたことだ。だが、マラドーナに関しては、彼の名声にそぐわないプレーに誰もが失望した。繰り返すが、そのことが残念でならない。

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