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負けず嫌いの3歳の少年が世界最高の選手へ。リオネル・メッシ、そして伝説へ。

2013.02.20

ワールドサッカーキング 0307号 掲載]

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 ワールドサッカーキング最新号では、あらゆるサッカープレーヤーにとっての目標である“世界最優秀選手”、リオネル・メッシのリポートを掲載している。4年連続となるバロン・ドール受賞も、彼の実力とタイトルの数を考えれば当然のことかもしれない。あらゆる栄光を手に入れ、更に進化を続けるメッシ。彼が「伝説の存在」となるのも、そう遠い未来ではないだろう。

 

「リオネル・メッシは2位以下を大きく引き離して世界のトップにいる」

 

 アーセン・ヴェンゲルがそう語ったのは、2009-10シーズンのチャンピオンズリーグ準々決勝を終えた後だった。ヴェンゲル率いるアーセナルは前年度王者のバルセロナに挑み、2試合合計3-6で完敗。特にセカンドレグではメッシ一人に4ゴールを奪われ、息の根を止められたのだった。

 

 

 敗戦の理由をレフェリーのミスや不公平なマッチスケジュール、更にはUEFAの陰謀に求めるどこかの監督と違い、ヴェンゲルは常に勝者をたたえる指揮官だ。だから、メッシに対するコメントも彼なりの「紳士のマナー」だったのかもしれない。だが、それから3年が経過した現在、ヴェンゲルの発言に異を唱える者はいないだろう。事実、当時のメディアが大騒ぎした議論、「メッシはマラドーナを超えたのか?」というテーマは、今では誰も見向きもしない。答えがほとんど明らかになっているからだ。

 

 

 昨シーズン、メッシはリーガの記録を塗り替えるシーズン50得点を挙げ、リーガ得点王、更には4シーズン連続となるチャンピオンズリーグ得点王にも輝いた。2012年の1年間ではリーグ戦で59ゴールを決め、クリスチアーノ・ロナウドが持っていた「43」を大幅に塗り替える新記録を樹立した。バルサとアルゼンチン代表の公式戦で1年間に記録したゴール数は「91」。元西ドイツ代表の伝説的なストライカー、ゲルト・ミュラーが持っていた年間最多ゴール記録を40年ぶりに更新した。2012年、バルサの勝利につながるゴールを最も多く挙げたのもメッシだった。

 

 1月に発表された2012年度のバロン・ドールでは、全体の41.6パーセントと半数近い得票率を記録し、2位のC・ロナウド(23.7パーセント)に大差を付けた。これで史上初となる4年連続の受賞だ。ここまで来ると、もはやメッシを誰かと比較すること自体、無意味な行為にも思えてくる。

 

 

生まれ故郷を離れ13歳で大西洋を渡る

 

 アルゼンチンがワールドカップ(以下W杯)を制した翌年の1987年、メッシはロサリオ郊外の小さな町、ラ・バハーダで生まれた。そして、この国の少年のほとんどがそうであるように、3歳頃にはボールをおもちゃ代わりにしてストリートサッカーに興じるようになった。

 

「レオ(メッシの愛称)はまだ幼かったけど、俺たちは手加減しなかった。そんなことしたら面白くないからね。あいつは特に小さかったし、体をぶつけるとすぐに吹っ飛んだよ」

 

 兄のマティアスは笑いながら当時を振り返るが、大の負けず嫌いだったメッシは「何度倒されても絶対にプレーをやめなかった」のだという。

 

 とにかくサッカーが好きだったメッシは、毎日遅くまでボールを蹴っていた。場所はもっぱら近所の路地や自宅の小さな庭で、対戦相手は2人の兄とその友人たち。自分よりずっと体の大きい相手に交じってプレーする――。ボールを蹴り始めた時から、メッシにとってサッカーとはそういうスポーツだったのだ。

 

 初めてサッカーチームでプレーしたのは5歳の時。2人の兄が所属していた地元のクラブ、グランドーリに入団したのだが、このきっかけには逸話がある。母親のセリアに連れられてグランドーリの試合を見に行ったメッシは6歳のチームに欠員が出たため、人数合わせでチームに加えられたのだ。

 

「人数が足りなくてどうしたもんかと考えていたら、セリアのとこの末っ子が客席でボールを蹴っていたのが目に入ってね。『ピッチにいるだけでいい』と言ってチームに入れたんだ」。当時、グランドーリの監督を努めていたリカルド・アパリシオは振り返る。

 

 

 こうして試合にかり出された5歳のレオ少年は、心配そうに見つめる母親の前で人生初の試合に挑むことになった。

 

「どうなったと思う?」

 

 セリアの問いかけの答えは、誰もが想像するとおりだ。

 

「あの子は両足を器用に使って、年上の子たちを軽々とかわしていったの。見ていた大人たちはみんな拍手喝采だったわ」

 

 メッシがこの地元クラブに在籍したのはわずか3年間だったが、その3年間でグランドーリは参加したすべての大会に優勝する。「レオにボールを預れば、彼が何とかしてくれた。僕らは後ろで応援していればよかったんだ」とは、当時のチームメートの言葉だ。

 

 その後、8歳になったメッシは、ロサリオの名門ニューウェルス・オールドボーイズに入団し、プロサッカー選手への道を着実に進んでいった。しかし、サッカーの技術はどんどん上達していくものの、体が一向に大きくならないことが悩みの種だった。「成長ホルモンの分泌が正常にコントロールされていない」という事実が発覚したのは、メッシが11歳の時である。

 

 しかし、メッシに大きな試練を与えた病魔でさえ、彼の溢れる才能を潰すには至らなかった。1カ月に約10万円も掛かる治療費を負担してくれるクラブは、アルゼンチン国内では皆無。だが13歳の時、親戚を頼ってスペインを訪れ、バルサのカンテラ(下部組織)、「ラ・マシア」のトライアルを受けられることになったのだ。当時、ラ・マシアでU-14のチームを指導していたロドルフォ・ボレルは、その時の衝撃を今でも覚えている。

 

 

「トライアルは2週間の予定だったが、レオの才能を理解するには2分あれば十分だった。彼のプレーを見た瞬間、間違ってトップチームのグラウンドにいるのかと錯覚したよ。彼はとんでもないスピードで相手を抜き去り、まるで魔法使いみたいにプレーしていたんだ」

 

 

グアルディオラ監督が“新エース”に指名

 

 

 ホルモン治療の全額負担という待遇でバルサに迎えられたメッシはその後も順調に成長を続け、カンテラの各年代のカテゴリーを飛び級で昇進する。入団当初に143センチしかなかった身長も、治療のおかげで169センチまで伸びた。

 

 念願のトップデビューは2004年10月、エスパニョールとのダービーマッチ。このシーズンのバルサにはロナウジーニョ、デコ、サミュエル・エトオといった豪華タレントがそろっていたため、17歳のメッシに与えられた出場機会はわずかなものだった。それでも、第34節のアルバセテ戦でリーガ初得点をマークし、17歳114日のクラブ最年少得点記録(当時)を樹立。1年目にしてリーガ制覇も経験した。

 

 そしてシーズン終了後、05年夏にオランダで開催されたワールドユース(現U-20ワールドカップ)で、メッシの名はサッカー界の注目を一挙に集めることになる。フェルナンド・ガーゴ、エセキエル・ガライ、セルヒオ・アグエロといったタレントを擁するアルゼンチンは、準決勝でブラジル、決勝でナイジェリアを下して優勝。メッシは6ゴールを挙げて得点王とMVPに輝いた。

 

 ワールドユースで才能の片りんを示した彼は、2年目のバルサで飛躍の時を迎える。右のウイングというポジションを与えられると、シーズン後半戦でルドヴィク・ジュリからレギュラーの座を奪い、リーガとチャンピオンズリーグの2冠達成に貢献。更に18歳で挑んだ初めてのW杯では、アルゼンチン代表におけるW杯の最年少出場記録、最年少アシスト記録、最年少得点記録を更新した。チームはドイツとの死闘の末にベスト8で散ったものの、10代にしてW杯の歴史に確かな足跡を残した。

 

 

 バルサでの3年目となった06-07シーズンには更に出場機会を増やし、ロナウジーニョ、エトオと形成する3トップは欧州中のクラブから恐れられた。コパ・デル・レイのヘタフェ戦では、ディエゴ・マラドーナがW杯で披露した伝説の“5人抜き”を再現。「マラドーナの後継者」と呼ぶにふさわしいスーパープレーを連発した。

 

 そして08-09シーズン。メッシを世界最高の選手へと導く決定的な転機が訪れる。ジョゼップ・グアルディオラの監督就任だ。前シーズンにリーガで3位と低迷したバルサは、このクラブが生んだ英雄にチームの再建を託した。それに応えるように、新指揮官はクラブの象徴的存在だったロナウジーニョを放出し、背番号10をメッシに預けたのだった。

 

 新エースに指名されたメッシはプレッシャーに押し潰されることなく、最高のパフォーマンスを披露する。夏の北京オリンピックでの金メダル獲得を皮切りに、リーガ、チャンピオンズリーグ、コパ・デル・レイをすべて制覇。グアルディオラが取り入れた食事療法によって、唯一の悩みだった筋肉系の故障も激減した。フルシーズンを戦い抜いたメッシは、名実ともにバルサの中心となったのである。

 

 

史上最高の選手として“メッシ伝説”の完成へ

 

 これ以降の活躍は、もはや現在進行形で語られるべきだろう。09-10シーズンはリーガで34ゴールを記録して文句なしの得点王に輝き、リーガ2連覇に貢献。10-11シーズンは3トップの中央で新境地を開き、公式戦55試合で53得点という驚異の成績を残した。昨シーズンはリーガの記録を塗り替える50ゴールを挙げ、09年から4年連続となるバロン・ドールに輝いたことは前述したとおりだ。

 

「メッシはバルサに在籍したどの選手よりも偉大だ。すべての時代を通じてナンバーワンだよ。誰もできなかったことを、彼はやっている」

 

 そう語るのは、バルサのレジェンドにして元監督のカルロス・レシャック。つまり、メッシはヨハン・クライフやマラドーナ、ロマーリオ、ミカエル・ラウドルップ、ロナウド、ロナウジーニョといった名選手たちよりも偉大だということである。史上最高のプレーヤーが伝説を作っている瞬間をリアルタイムで目撃している我々は、この幸運に感謝すべきなのかもしれない。

 

 ただし、“メッシ伝説”はまだ完全ではない。

 

 一つだけ残された最後のピース、それがW杯だ。メッシは既にマラドーナよりも多い5回のリーグ優勝(マラドーナは4回)と、3回の欧州制覇(マラドーナはゼロ)を果たし、コパ・デル・レイやスペイン・スーパーカップ、UEFAスーパーカップ、クラブW杯も制した。ワールドユースのタイトルとオリンピックの金メダル、4つのバロン・ドール、2つのゴールデン・シューのトロフィーを持ち、リーグ得点王は2回、チャンピオンズリーグ得点王は4回。メッシが持っていない主要タイトルは、もはやW杯優勝くらいしか残っていない。しかし、それはサッカー界で最も重要なタイトルだ。更に言えば、マラドーナはそのタイトルを持っている。

 

 ブラジルW杯の決勝戦は2014年7月13日。それはメッシが、「伝説のサッカー選手」であることを証明する日になるのだろうか――。

 

 

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