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好スタートを切った清武、“新たなカガワ”ではなく“キヨ”の名で愛される存在に

2012.09.19

サムライサッカーキング Oct.2012 掲載]

「(香川)真司君ができるなら、僕にもできると思う」。今夏、ニュルンベルクへ移籍した清武弘嗣は、自信に満ちた表情で、そう語った。そのプレース タイルやセレッソ大阪出身という共通項から、ブンデスリーガに衝撃を与えた香川と比較されることも多い清武。開幕からの3試合で好パフォーマンスを披露す る彼は、現地では一体どう見られているのだろうか。ニュルンベルク最大紙『ニュルンベルガー・ナハリヒテン』記者が、自身の見解を綴ってくれた。

清武弘嗣

Text by Hans BOLLER/Nuurnberger Nachrichten Coordination and translation by EIS Photo by Itaru CHIBA

 ニュルンベルクのスポーツディレクターであるマルティン・バーダーは清武弘嗣に魅せられていた。日本へ行き、彼のプレーを一目見た時から「絶対に欲しい選手」と話していたのだ。ただ、バーダーが彼に魅了された理由は、技術的な能力だけにあったわけではない。

「人間性もウチにピッタリ合う」

 バーダーは「プレーだけでなく、人柄も重要だった」と話している。こうして今夏、ニュルンベルク史上初の日本人選手は誕生した。

  清武がセレッソ大阪からやって来ると聞き、ニュルンベルクのファンは特別な期待を抱いた。それはC大阪が、かつて香川真司が在籍したクラブだからだ。ブン デスリーガは過去2シーズン、“KAGAWA”という日本人プレーヤーを見ることで、現在のJリーグがどれほど高いクオリティーの選手を輩出しているのか を知った。だからこそ、ファンたちはワクワクしながら問うのだ。「キヨタケは、もしかすると次のカガワになれるんじゃないか?」と。

 クラブに関わる誰もが、彼の到着を待ちわびていた。そして7月初旬のある日、地元紙『ニュルンベルガー・ナハリヒテン』に、「一人の小柄な日本人が、クラブを“ひっくり返した”」という見出しが踊ることになった。

  清武の加入会見は、ニュルンベルクにとって、それほど大きな出来事だった。人々は、12年前に元ドイツ代表GKアンドレアス・ケプケが2度目の契約を結ん だ時のことを思い出した。これほど多くのカメラマンやテレビクルーを目にしたのは、クラブのアイドルであった彼が再びニュルンベルクの地に戻ってきた、あ の時以来だったからである。

 フラッシュの嵐の中、会見室に入ってきた清武を見て、なぜバーダーがそれほどこの若者に魅了されたのか、誰 もが理解した。清武はニコニコと微笑みながら、非常にフレンドリーに、ちょっとはにかみながらカメラに向かい、ぎこちないドイツ語を披露したのだ。 「Guten Tag. Ich heisse Hiroshi Kiyotake. Nennen Sie mich bitte Kiyo.(こんにちは。清武弘嗣です。どうぞ、キヨと呼んでください)」。そして、今度は日本語で「チ
ームができるだけたくさん勝てるよう、助けになりたい」と続けた。

 翌日、地元各紙は「キヨタケはクルップ(ニュルンベルクの愛称)に少し国際的なグラマラスさを与えてくれるだろう」、「もしかしたら、キヨタケは新しいカガワでさえあり得るのでは」と書き立て、このチャーミングなサッカー選手に心酔したかのようだった。

  ニュルンベルクは非常に古いクラブだ。創設は100年以上前の1900年にまでさかのぼる。そして20世紀初頭、このクラブはドイツでダントツに有名で成 功したサッカークラブでもあった。1920年から1936年の間に6度もドイツ・マイスター(リーグ王者)に輝き、当時のドイツ代表選手の多くはニュルン ベルク所属のプレーヤーたちで構成され、クラブの名もヨーロッパ中に知られていた。しかし、それ以降、クラブに当時を超える栄華が訪れることはなかった。

  63年に現行のブンデスリーガがスタートすると、5年後の68年にタイトル獲得を祝ったが、翌年には何と突如2部へと降格してしまう。こんな出来事は過去 に例がなく、現在までの歴史を見てもリーグ優勝したチームが翌年に降格したことはない。ニュルンベルクはそんな“前代未聞の事件”の後遺症に、しばらく悩 まされた。

 降格してからの10年を2部リーグで過ごすと、79年に一度は1部へ復帰するものの、翌年に再び降格。96─97シーズンには何と3部リーグ(地域リーグ南)にまで沈んでしまう。

  しかし、クラブがこれ以上の深みに転落することはなかった。近年は健全な経営によりクラブ運営は安定し、2007年にはDFBカップを制覇。永遠のように 長く感じられた39年の時を経て、再び歓喜を味わうことができた。08年に再び2部降格を味わったが、翌年にすぐさま1部へ復帰。一度は3部落ちまで経験 したクラブは、それからの15年間で手堅く、また時としてアグレッシブなサッカーを展開しながら、ブンデスリーガで確かな足跡を残している。

「キヨタケのような選手を獲得できたことは、クラブが歩む道が正しいことを示している」

  そう話すのはチームを指揮するディーター・ヘッキング監督だ。清武の獲得に投じた100万ユーロ(約1億900万)という移籍金は、ニュルンベルクにとっ ては決して安い金額ではない。しかし、清武の才能を見れば、安いようにさえ思えるとヘッキングは言う。そして清武がニュンベルクに与えた最初のインパクト は、指揮官の彼に対する高い評価を裏づけるものだった。

「軽快で速く、一対一にも強く、敵陣深くへのパスも完璧。キヨは、今までウチにいなかったタイプの選手だ」

  7月6日、5部リーグのアイントラハト・バンベルク戦でニュルンベルクの一員としてデビューした清武は「フランケンのカガワ(フランケンとは、ニュルンベ ルクの位置するフランケン地方のこと)」と紹介された。そして試合を見たファンたちは、その評価が正しいことに納得した。

 4ー0で勝利 したこの試合で、背番号13を付けた清武はスピードに溢れ、テクニックに優れたプレーを披露。さらに、見事なヘディングシュートで早速ゴールも決め、足を 運んだ約3000人の観衆を魅了した。GKでキャプテンを務めるラファエル・シェーファーも「クラブは本当に幸運な買い物をしたね」と喜んだ。

  清武について、シェーファーは「愛されるべき性格だ」と言う。人口約50万人のニュルンベルクは、フランケン地方で最も大きな街であるが、フランケン地方 の住民はどちらかというと控え目で謙虚なタイプが多い。清武の振る舞いも彼らと通じるものがあり、この地方の人たちにとっては大いに好ましい性格なのだ。

 ある時、清武がシェーファーと一緒にクラブの敷地内を散歩しているのを見かけた。「バウム(木)、ハウス(家)、アウト(車)……」。シェーファーの話したドイツ語の言葉を清武が楽しそうに真似る。そこには、すでに愛され始めた若者の姿があった。

  ブンデスリーガ開幕戦、ニュルンベルクはアウェーのハンブルガーSV戦で1─0と勝利を収めた。清武もCKから決勝点を演出し、ブンデスリーガのデビュー 戦でいきなりゴールに絡む活躍を見せた。得点を決めたハンノ・バリッチュは「個人として強い選手でありながら、とてもチームに貢献してくれる選手だ」と清 武を絶賛した。

 ヘッキング監督も「キヨにとって非常に良いスタートだった」と話したが、同時に「これからはもっと難しい試合も経験することになる」と付け加えることも忘れなかった。

  ニュルンベルクの基本布陣は4─2─3─1である。ハンブルガーSV戦でトップ下の位置で起用されたことを考えても、現時点では清武がポジション争いのラ イバルである背番号10、ティモ・ゲプハルトを一歩リードしていると言えるだろう。清武は続くドルトムント戦で1アシスト、第3節のボルシアMG戦でブン デス初ゴールを含む1得点2アシストを記録するなど、ここまでチームの総得点すべてに絡む活躍を見せている。

 ゲプハルトは清武と同じ 89年生まれで、年代別のドイツ代表の常連だった。この夏にチームに加わったという点でも、よく清武と比較される。だが、現時点では技術、実績ともに清武 が上回っているのは間違いない。監督も「我々はキヨをベンチに置くために獲得したのではない」と話しており、本来の実力を示せば今後も出場機会をつかめる はずだ。

 また、指揮官は「カガワとの比較は全く適切ではない」とも語っている。「キヨはキヨであって、キヨ独自のクオリティーを持っている」と。

  良いプレーをしつつも、謙虚な態度を崩さない。そんな彼らしい姿勢を見せ続け、同時にファンが最も期待する結果を示すことができれば、清武はきっとフラン ケンの人々から真に愛されるプレーヤーになり得るだろう。“新たなカガワ”としてではなく、“キヨ”というニュルンベルク初の日本人選手として。

 

【浅野祐介@asasukeno】1976年生まれ。『STREET JACK』、『Men’s JOKER』でファッション誌の編集を5年。その後、『WORLD SOCCER KING』の副編集長を経て、『SOCCER KING(@SoccerKingJP)』の編集長に就任。『SOCCER GAME KING』ではCover&Cover Interviewページを担当。

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