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宮本恒靖インタビュー「優れた指導者になれるかは分からない。今はすべてを学びたい」

2011.12.28

現役引退発表の翌日、宮本恒靖に話を聞いた。日本のサッカー史にその名を刻む“クレバーな名キャプテン”が、過去と今、そして未来のビジョン、さらには日本代表への思いをよどみない言葉で語ってくれた。


写真=樋口涼

「自分の中では最後までやりきれたと思います」

現役引退を発表し、率直な今の心境はどのようなものですか?
宮本「すっきりしている感じですね。いろいろと自分の中で迷いながら決めたことですけど、それをみなさんに発表したことで次に進めるかなと感じています」

引退を決断するに至った経緯は? また、最終的にその判断を後押ししたものは何だったのでしょう?
宮本「最後のほうはなかなか試合に出る機会も少なくなり、自分の契約している最後の年で、ピッチの中でできることもなくなってきたかなと感じていました。同時に、これから先は違った形、違う分野でサッカーに貢献できることが多くなると思いましたし、漠然とですが、2002年終えたときに、あと10年間トップレベルでプレーしたいと思っていて、それがタイミングとして来た、これからは新しい試みにチャレンジしたいと、そういう思いでしたね」

現役ラストゲームとなった最終節の仙台戦は、どんな気持ちで試合を迎えましたか?
宮本「勝てばクラブ最高位、勝たなきゃいけないけど、現役ラストマッチを純粋に楽しみたい思いもありました。それが、とんでもない雨で(苦)。ついてないな、とも感じたりしました(笑)。キャリアの中でもワーストと言えるようなピッチコンディションでしたね」

完全燃焼したという実感はありますか? それとも何かしらの未練のようなものはありますか? 
宮本「はい、最後までやりきれたと思います。まあ、来シーズンが始まる時期になれば自分がそこにいないことに寂しさを感じるかもしれませんが、それも時間が解消してくれると思います」

最も印象に残っている試合・シーンは?
宮本「たくさんあるので絞るのは難しいですけど、やっぱり、ワールドカップ(2002年)のロシア戦、ヨルダンに勝った試合(2004年アジアカップ)、ガンバ(大阪)で初優勝を決めた試合は印象深いですね」

17年のプロキャリアで最高の思い出は?
宮本「勝利の瞬間はいつもうれしいです。ワーストは、オーストラリアに負けたとき。1−0でリードしていて、後半の終盤に3失点。あの敗戦は衝撃でした」

G大阪のユースからプロ選手になりました。Jリーグにデビューしたときはどのような気持ちでしたか? 当時の夢や目標を覚えていますか?
宮本「デビューは1年目の6月だったんですけど、同期入団の選手が他のチームで4月くらいから試合に出ていたので、負けたくない、早く試合に出たい、と考えていました。当時は、チームでレギュラーになるにはどうすればいいかを常に考えていましたし、97年のワールドユース、今で言うU−20ワールドカップにも出場したかったですし」

その後G大阪の中心選手として数々の試合を戦い、2005年には悲願のリーグ優勝を果たしました。G大阪時代、特に印象に残っている試合はありますか?
宮本「1年目、出られない時期が続いて、突然10月の終わりくらいにベンチメンバーに選ばれて、同じポジションの選手が一発退場になってチャンスが回ってきて、そこから残りのシーズン全試合に出ることができました。ああいうきっかけがなければ2年目の開幕も出場できなかったかもしれないし、そういう意味でターニングポイントでしたね。自分の中で準備はできていたかと聞かれると、1年目の自分がそこまで準備できていたかというとそこまでではなかったです。『あれ、なんでこのタイミングでベンチに?』という感じでしたね(笑)」

2006年にオーストリアのザルツブルクに移籍し、優勝も経験しました。海外リーグでのプレーを経験して得られものはどんなものですか?
宮本「代表の一員として海外のチームとやるのではなく、海外のチームの一員として海外のチームとやる。これは全然違うことなんですよ。自分としては、国際試合も経験しているし、『大丈夫だろう』くらいの感覚でしたが、パワーやスピード感が違ったりしましたし、力の出しどころの違いとか、そういうのも感じましたね。ピッチの質も違いましたし。日本で、恵まれた環境でやるっていうのとは、また違う、いろいろな経験ができました。もしかしたら、ガンバでずっとその先も何年かやれていたのかもしれないですけど、あのタイミングで海外に行ったことは、自分にとってすごくプラスになったと思うし、何よりも視野が広がって、そういうチャレンジを続けることの大切さを感じました」

海外でのプレーを経て、Jリーグの優れているところ、逆に足りないところは何だと感じましたか?
宮本「Jリーグが優れているところは、特にオーガナイズの部分。ピッチのコンディションを保つ姿勢は素晴らしいですし、あとは子どもや女性の方も安心して観戦できるというところですね。向こうはスタジアムによっては、ちょっと怖いなっていう雰囲気もありましたし。そういう点を比べると、安全面での配慮っていうのはすごく日本のいい部分だと思います。逆に、改善したほうがいいなと感じるところは、最近は減ってきましたけど、プレー面で簡単に倒れたり、ファイトしないで時間稼ぎをしたりとか、そういったものは、たぶんお客さんにとっては面白くないと思います。でも、そういった面も本当によくなってきている、改善されてきていると感じています」

現役最後のクラブとなったヴィッセル神戸、最も印象に残る試合、場面はどんなものですか?
宮本「自分が神戸で初めて勝った試合ですね。2009年の第2節なんですけど、開幕戦を落とした状態で迎えた2試合目に勝ったことで、自分も神戸の一員になれたかなというか、そういう感じがしました。シーンとしては、(2009年の第18節、川崎戦で)オーバーヘッドキックでゴールを決めたんですけど、あれは『何でできたのか』と自分で思うくらいのプレーでしたね(笑)」

あのオーバーヘッドは体が自然に反応したんですか?
宮本「自然ですね。オーバーヘッドなんか試みないタイプなんですよ、普段だと。でも、あのボールが来た瞬間に、何か自然に体が反応しました。そもそも、『オーバーヘッドって、手どうやってつくんや』みたいな感じでしたから(笑)」

「『このDFは嫌やな』って思わせることが大事」

体格的には決してDFとして恵まれた体ではなかったかと思います。世界と戦う上でどのようなことを心掛けていましたか?
宮本「自分のキャリアが始まったころと比べても、どんどん大型化は進んでいったので、『せーの』で競っても難しい瞬間があるんですけど、例えば、ジャンプの時に先に体を当てておいて相手を飛ばせないようにするとか、自分も触れないけど相手も触らせないとか、強めに当たっておいて相手の体勢を崩してから自分がジャンプしたりとか、あとはタイミングによってですが、自分が先に飛んでジャンプしてくる相手の上に乗ったりとか、その辺は本当に駆け引きもありますし、同じ相手に同じことをやり続けてもだめなんで、今回これでいったら、次はこれでいこうとか常に考えていました。やっぱり、『このDFは嫌やな』って相手に思わせることがすごく大事だと思うんですよね。だから、ちょっと触ったりとか、相手が走ろうとすると体を寄せたりとか、身長190センチぐらいの人には必要ないのかもしれませんけど、自分のやり方として、自然とそういうことが増えていったと思いますね」

対戦してきた中で手ごわかった選手は誰ですか?
宮本「(マイケル)オーウェンもそうですし、(フランチェスコ)トッティと(フィリッポ)インザーギのラインとか、FWではないですけど、ロナウジーニョの意外性もそうですし、あとは、アルゼンチン代表の全員のプレッシングとかも嫌でしたね。個人ではないですけど、アルゼンチンのようにレベルの高いチームとやると、日本代表がボールを動かしているときに、相手の中にサボっている人がいない。間接視野で、次のイメージを持ちながらボールを受けたりするじゃないですか、あの辺が空いているなとか、ボールを受ける前にそこに出そうと考えていたものが、ルックアップしたときにもうそのスペースをケアする動きが視野に入ってくると、『ああ、これだけ鍛えられているんだな』と、『レベルが高いな』と感じさせられましたね。トッティは常にビジョンが自分たちの攻めるゴールに向いていました。ディフェンスラインからボールが来ると、それを反転しながら裏に出す。そして、そのボールに合わせてインザーギが動き出している、と。インザーギはインザーギで『フラット3』に何回も引っかかるんですけど、でも、それでもやり続けるっていう、インザーギは自分の生きる道をここに持っているんだなと感じましたね」

自分が攻撃的なプレーヤーだったとしたら、こういう選手になりたかったというのはありますか?
宮本「(ジネディーヌ)ジダンのプレーは好きでした。相手を引きつけることもできるし、パスも出せるし、ゴールも奪えるし」

いろいろな監督の下でプレーされてきましたが、代表で印象の強いフィリップ・トルシエとジーコについてお話を聞かせてください。
宮本「トルシエはすごく強烈なキャラクターの持ち主でしたけど、ああいう風に若い選手に刺激を与えることでうまくチームをまとめたし、『フラット3』という明確な戦術を植えつけたことで、自国開催のワールドカップである程度の成績を残せたと思いますし、それは、『与えられる戦術』というか、指示待ちの当時の日本代表選手にとってすごくマッチした感じでしたね。それ以外にも、『海外に行ってプレーすべきだ。そのほうが自分のレベルが分かる』というようなことを常に言っていましたし、そういう点でも選手の目標、目線を高めてくれた監督だと思います。僕自身にとっても、海外に行ってやりたいと思うようになったきっかけでもありますし。ジーコは、うまい選手、ジーコが思う能力のある選手を集めて、その選手たちが自分たちの思うようなプレーをピッチですれば、それでサッカーができるし、強くなれるというスタンスでした。ただ、そういうやり方にまだ慣れていない日本の選手はすごく戸惑って、途中から築けていけましたが、最初はコンビネーションも選手同士だけではそこまで作れなかったですね」

時期尚早だったと?
宮本「でも、世界のスタンダードで考えれば、選手が自分たちの発想でプレーする、ある程度の自由を与えられてやるっていうのは、割と当たり前のことですし、たぶん、ジーコにしてみれば、『普通に自由にやってください』と言っているのに彼らは何でやらないだろうって感じていたと思うんですよ。日本の選手、僕らは当時、決めごとばかり求めていた気がします。ただ、それでは、たぶんその先には進めない。2002年で、ある程度の結果を出した。2006年は2002年以上を目指して達成できなかった。そして2010年から今、今は、ある程度みんなで判断してプレーするシーンが増えてきていると思います。もちろん、戦術的なチームのベースとかはあると思いますが、そのベースを打ち破ってプレーする瞬間があるなと。歴史的にも日本の選手はいつも指示待ちでやってきた経緯があると思うので、自分で決断してプレーする、そういうシーンがこれから増えていってほしいと思いますね」

外からのイメージ的にも、トルシエとジーコは、ある意味、対極的なタイプの監督だったように感じますが、プライベートで仲良くなれそうなのはどちらですか?
宮本「両方ですよ。ピッチを離れると、トルシエはトルシエですごく紳士的な人物ですし。ただ、ジーコは朝、ものすごくテンションが低いですね。『大丈夫?』て心配になるくらい(笑)」

選手として影響を受けた選手はいますか?
宮本「木場(昌雄)選手ですね。2つ年上のガンバの選手で、彼の背中は常に見ていましたし、同じディフェンスの選手として、彼に追いつきたいと考えていました。もちろん、代表チームで一緒にやった選手、あるいは同い年、黄金世代の選手たちは競争相手としてもちろん充実していましたし、影響を受ける選手は、その都度、いたという感じですね」

センターバックを務めていて、パートナーとして一番プレーしやすかった選手は誰ですか? 逆にライバルだと感じていた選手は誰ですか?
宮本「代表ともなると、みんながそれぞれ合わせることができるので、誰とでもやりやすかったですね。中田浩二とか、その後は(中澤)祐二もそうですし。田中マコ(田中誠)とも、共通する感覚でした」

「若いうちから海外に挑戦することはとてもいいこと」

ここ数年は出場機会が減少していましたが、どんなことを考えながらプレーしていましたか?
宮本「試合に出ていない状況であっても、準備を怠らないようにしていました。選手のけがなど、何らかのタイミングで出番が回ってきたとき、そこでしっかりしたパフォーマンスを出せなければ、それはプロではないと思うので。準備を怠らずにやろうという気持ちは自分のモチベーションになりましたし、毎日、毎試合、しっかりやるということが自分に課していた一つの課題でしたので、特に最後の1年間はそういう思いでやっていました」

宮本選手らが海外に挑戦したことによって、現在は海外で活躍する選手も増えました。そのことについてどう思いますか?
宮本「香川(真司)なんかはチャンピオンズリーグでプレーしているし、本当にレベルの高いところで、純粋にサッカーを追求していますよね。でも、サッカー以外のところ、他の国に行って苦労もあるし、他の国の人と違う言葉で話をするとか、人間的なところがそれ以上に鍛えられると僕は思います。個人的な考えかもしれませんが、レベルの高い選手は、やっぱり人間としてもしっかりしていると思うし、そういったものを磨くチャンスは若いうちに海外に行ったほうがあると思うので、そういう意味でも若いうちから海外にチャレンジすることはとてもいいことだと思いますね」

G大阪の後輩、宇佐美選手についても聞かせてください。宇佐美選手にアドバイスをするとしたら?
宮本「どこかにレンタルで行って試合、実戦に出たほうがいいと思いますね。バイエルンというクラブにいるということは自分の中で大事にしながら、試合に出られるところで経験を積んで、バイエルンに呼び戻されるくらいの実績を残してほしいという意味です」

ワールドカップに2大会出場されました。日本中を熱狂の渦に巻き込んだ2002年大会は、今改めて振り返ると、どのような心理状態だったのでしょうか? 
宮本「自国開催のタイミングでワールドカップに出場できたのは、本当に運が良かったと思います。正直なところ、あれだけ熱狂してくれるとも思っていなかったですし。もう一度あの熱狂があれば、もっとサッカーを好きな人、ちょっと好きになるだけじゃなく、本当のサッカーファンを増やすことができるんじゃないかと思いますし、また日本でワールドカップが開催できれば素晴らしいですね」

当時は、バットマン・フィーバーもすごかったですね。
宮本「確かに、すごかったですね。本意ではなく、偶然の産物ですけど(笑)。以前、ブログにも書いたんですけど、今年、そのきっかけになった人にも会ったんですよ。2002年、ワールドカップの直前合宿で大学生のチームと試合をしたときに、相手の肘が僕の鼻に当たって骨折したんですけど、今年、その方と約10年ぶりに偶然再会して、『あの時、鼻を折ったのは僕なんです…本当にすみませんでした』と言われて。本当に丁寧に謝ってくれました。僕としては、もうずいぶん前のことですし、鼻を折られたなんて気持ちは全くなくて、あのときの人に会えたこと自体が何だか嬉しくて、懐かしくて、ただただ驚くのみでした」

4年後のドイツ大会は悔しい結果に終わりました。チームをまとめあげるのに苦心している姿がたびたび報じられましたが、当時はどのような気持ちで戦っていましたか?
宮本「勝つためにどうしたらいいか、そのことしか考えていなかったです。ほんまに、勝って、勝つことがみんなにとってハッピーなことだから、そこを出発点に考えていました。ただ、初戦、オーストラリア戦の前ぐらいから、だんだんチームがぎくしゃくしていたときもありましたし、そこで勝っていればまた違ったんですけど、オーストラリアに負けてしまって、いろいろネガティブな要素が入ったのは確かですね」

今の日本代表をどう見ていますか?
宮本「みんなのびのびとプレーしていると思います。(アルベルト)ザッケローニという素晴らしい指導者の下で、自分たちが日本のサッカーを引っ張っていくという気概が感じられますね。若い選手が多いぶん、勢いもすごく感じるので、これからアウェーの最終予選だったり、そこでチーム力が伸びれば、もっともっと発展していくチームだと思います」

代表キャプテンとして後輩にあたる長谷部誠選手についてはいかがですか?
宮本「コメントを見ていても、すごく正しいことを言っているし、チームをまとめる力があると思いますね。もちろん、そういった部分だけじゃなく、パフォーマンスにも期待しています」

今後についてですが、多くの人が「優れた指導者になりそう」という印象を持っていると思います。今後はFIFAマスターを目指し、その後の指導者としてのイメージとして、ご自身はどう感じていますか?
宮本「(優れた指導者になれるかは)分からないですよ。指導者の、そういう勉強ももちろんしていきたいと思いますし、今はただ、もう一回、しっかりすべてを勉強したいと思っています」

最後にスパイクについてお話を聞かせてください。ご自身が着用されていたプレデターは、「キング オブ フットボールシューズ」としてフィット性・軽さ・機能性のすべてにおいて頂点を追求しているモデルです。実際に履かれていてどのような印象をお持ちですか?
宮本「自分が一番求めている安定性、安定感というものが、特にかかとのホールド感の感じとか、常にプレデターを履いている時は安定していましたね。それからラバーの部分、キックのインパクトの瞬間に助けてもらう感じというものは他のスパイクよりもありますし、スパイクの刃もポイントなんですけど、芝生の噛み具合もいいですね」

カラーリングもご自身で?
宮本「はい、自分で選びました。紫は好きな色ですし、赤はユニフォームに合うような色ということで使っていました。好きなイニシャルを入れることができるとか、mi adidasのシステムはすごいなと。是非、お勧めですよ」

プレデターはいつから履かれていますか?
宮本「98年ですかね」

長年パートナーとしてともに戦ってきたアディダスというブランドについて、改めてそのイメージを教えてください。
宮本「いつも一緒にやってきたというか、やってきてもらった感謝はもちろんありますし、安心感、いつもそこにいてくれるとか、いつも手厚くサポートしてもらってきたという気持ちがあります。商品開発のときも、自分の意見もちょっと聞いてもらったりしましたし。他のスパイク、他のウェアを着る自分はイメージできないですね」


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 個人的にも同学年ということで、注目し続けてきた選手。サッカー選手としての能力はもちろんだが、やはり、そのクレバーさに引きつけられてきた。前職のファッション誌時代にインタビューをした際、「読者投票で『かっこいい選手』のトップでした」と伝えると、「ベッカムは別部門ですよね」の切り返し。今回のインタビュー後の立ち話でも、「サッカーから少し離れようという考えはなかったんですか?」との質問に「旅人ですか? 旅人のプランは今のところありませんね」と華麗に応じてくれた。
 
 宮本恒靖、34歳。スパイクを脱いだ彼の動向をこれからも追いかけていこう、そう感じることのできる貴重なインタビューだった。

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【浅野祐介@asasukeno】1976年生まれ。『STREET JACK』、『Men's JOKER』でファッション誌の編集を5年。その後、『WORLD SOCCER KING』の副編集長を経て、『SOCCER KING(@SoccerKingJP)』の編集長に就任。『SOCCER GAME KING』ではCover&Cover Interviewページを担当。

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