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ミランの10番が思い描く“絵”…本田圭佑はいつだって壁を乗り越えていく

2015.04.19

[ワールドサッカーキング5月号掲載]

本田圭佑のキャリアは順風満帆とは程遠い。だが、最後はいつだって壁を乗り越えてきた。その日本人離れしたバイタリティーはついに「ミランの10番」をも手繰り寄せた。

本田圭佑

文=弓削高志
写真=ゲッティ イメージズ

オランダから始まった挫折と成功のキャリア

 2013年12月11日、チャンピオンズリーグ(CL)のグループステージ最終節を夜に控え、ミランのアドリアーノ・ガッリアーニ副会長が報道陣向けの午後の囲み取材に応じていた。そこで冬の移籍市場の動向について問われた副会長は、「昨夜のプルゼニ戦が本田のCSKAモスクワでのラストゲームだった」と説明し、彼のミラン加入を正式に認めた。「1月から本田はミランの一員だ」

 本田のミラン移籍は、夏に一度流れた後、フリートランスファーとなる1月の加入がほぼ確実視されていた。そして、この日のガッリアーニのアナウンスによって、ミラン初の日本人プレーヤーが正式に誕生したのだ。 ガッリアーニは筆者が見ていたイタリア『SKY』のニュース中継の最後に、さり気なく短いフレーズを付け加えた。聞き間違えではなかったと分かっていても、聞き返さずにはいられない言葉。即リワインド可能なHDデジタル放送のおかげで何度も聞き直したそのフレーズを聞くたびに、実感の伴わない緊張がのどを乾かし、心臓の鼓動を早くしたのを覚えている。「本田の背番号は“ヌーメロ・ディエチ”( 10番)だ」

 星稜高校を卒業後、05年に名古屋グランパスでキャリアをスタートさせた本田は、オランダで開催されたワールドユース出場を経て、08年1月にヨーロッパへ渡った。行き先はVVVフェンロだった。VVVでもすぐに主力の座をつかんだが、1年目に待っていたのはまさかの2部落ち。夏には北京オリンピックでグループリーグ3戦全敗という屈辱も味わった。もっとも、ゴールを狙う意識改革とともにオランダでの2年目に臨むと、16ゴール13アシストの活躍でクラブの1部昇格に貢献。自身は2部リーグの年間最優秀選手に輝いた。

 大きなステップアップを果たしたのは2010年1月。オランダでの活躍が認められた本田は、欧州カップ戦の常連だったCSKAモスクワへと引き抜かれる。セビージャとのCL決勝トーナメント1回戦では、30メートル超の無回転FKで決勝点を奪い、日本人初のCL準々決勝進出も手繰り寄せた。

 モスクワの地でもレギュラーの座をつかんだ本田は、シーズン終了後の南アフリカ・ワールドカップで2ゴール1アシストを記録。ベスト16進出の原動力となった。翌2011年にはアジアカップを制して大会MVPを獲得。ひざの故障を乗り越えた2013年には、ロシアリーグとロシアカップの国内2冠を達成している。


本田圭佑

入団会見で与えた絶大なインパクト

 オランダでもロシアでも、彼は驚くべき順応性と、日本人離れした強烈なメンタリティーを発揮した。前述のセビージャ戦後のコメントには彼の強烈な“個性”が表れている。「自分が目指すところははるか先にある。“日本人初”ということに興味はない」 本田は以前からスケールの大きな未来を描いていた。しかし、その先に待っていたのが名門ミランのエースナンバーだとは、周囲には想像すらできなかった。

 7度のCL制覇に加え、4度のインターコンチネンタルカップ優勝など、長大なタイトル歴を誇るミランは、紛うことなき名門中の名門だ。そのクラブの10番は、4大リーグを含む広大なヨーロッパはもちろんのこと、南米やアフリカ大陸のあらゆるプレーヤーが羨望の眼差しを送るユニフォームに他ならない。

 ジャンニ・リヴェラ、ルート・フリット、デヤン・サヴィチェヴィッチ、ズヴォニミール・ボバン、マヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフといったレジェンドたちによって連綿と引き継がれてきたロッソネーロの背番号10番は、2013年夏のケヴィン・プリンス・ボアテングの移籍以来、空き番となっていた。ミランの新たな10番の入団会見が凡庸であっていいはずがない。

 2014年1月8日、サン・シーロは異様な熱気に包まれていた。本田の入団会見のために会見室に集まった日伊両国を中心とした世界各国の報道陣は軽く200人を超え、TVカメラの数も優に30台を超えていた。ミランは会見に先掛けて「10」の数字に本田自身のシルエットを重ねた特別キービジュアルを作成、数日前にミラノ入りしたばかりの本田を主役に仕立てたミニムービーまで上映する用意周到ぶりだった。

 地元のベテラン記者たちは「昨年の(マリオ)バロテッリ獲得時にもこんな演出はなかった。会見の規模としてはロナウドやロナウジーニョの入団の時よりも上かもしれない」と驚き、「メディア的な注目度は( 09年1月加入の)デイヴィッド・ベッカム級だ」と口をそろえた。本田がイタリアメディアに与えたインパクトは絶大だった。

 W杯優勝4度を誇るサッカー大国へ挑戦するにあたり、本田は当時在任中だった日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督から有形無形の恩恵を受けたことは特筆しておくべきだろう。1999年にミランでスクデットを獲得したOB監督の“お墨付き”があったことは、彼のミラン移籍決定の過程で大きなアシストになったはずだ。


本田圭佑

紆余曲折の先に思い描く“絵”

 入団会見での質疑応答中、本田は移籍交渉の過程で自ら10番を所望したことを明かしてその場にいた記者たちを唖然とさせた。欧州サッカー界きっての大物フィクサーであるガッリアーニを相手に、不遜とも言える同様の要求を突きつけたのは、08年夏にバルセロナから加入したロナウジーニョくらいのものだ。

 もっとも、会見後の日本メディア向けの囲み取材で、本田は平然とこう言い放った。「逆に皆さんに質問しますが、10番をつけるチャンスが目の前にあって、違う番号を選びますか?」

 本田は試合後に取材を受ける際もよく記者へ逆質問をする。彼はそうすることで、新聞や雑誌、TVを通して、己を見ているファンへ“より高みを目指している自分を理解してほしい”と訴えているように見える。日本サッカー界にも強烈な個性を持った幾多の先達がいたはずだが、ヨーロッパのど真ん中で、本田ほどのバイタリティーを発揮できた人間はいなかったのではないか。

 しかし、当然ながら名門の10番には乗り越えるべき障害も多い。セリエAでのデビュー戦はその後の波瀾を予感させるものだった。本田はサッスオーロとのアウェーゲームで劣勢の後半にピッチに投入され、いきなりポストを直撃するシュートを放った。しかし奮闘虚しくチームは3-4の敗戦。当時の指揮官マッシミリアーノ・アッレグリが解任される事態となった。

 日を置かずに就任が決まった後任のセードルフは、先々代のミランの“ヌーメロ・ディエチ”であり、オランダサッカーを経験している本田の良き理解者となるはずだった。だが、指導者経験ゼロの新人監督は選手たちの人心掌握に失敗、ロッカールームは分裂し、采配は迷走した。

 本田の天職が2列目中央であることは周知の事実でも、ミランのトップ下には06-07シーズンにビッグイヤーをもたらしたバロンドール受賞者のカカーがいた。不慣れな2列目右サイドから、当時エース待遇を受けていたバロテッリとの共存を強いられた結果、コンディションは上がらず、チームは8位に沈んだ。更にシーズン終了後のブラジルW杯ではグループリーグ敗退の屈辱も味わった。

 迎えた今シーズン、フィリッポ・インザーギ新監督から3トップの右ウイングにコンバートされた本田は、ラツィオとの開幕戦でチームのシーズンファーストゴールを奪い、以降の7試合で6ゴールを挙げる活躍を見せた。その後、インザーギの経験不足や故障者続出の影響でチームは失速。そんな中でも本田は確固とした地位を作り上げている。クラブは今後の本田に、日本を筆頭とするアジア市場とイタリアをつなぐワールドワイドな存在になることも期待しているようだ。

 入団会見の折、本田は“ミランの先に描くもの”を問われた。彼は落ち着き払った口調でこう答えた。「自分の中には小さい頃から思い描いている“絵”というものがある。それは後に皆さんに話すことができたらと思います」

 セリエAでの日本人プレーヤーの挑戦は1994年、三浦和良から始まった。そして20年余を経た今、リアルタイムで進行中の本田圭佑のストーリーは、確実に日本サッカー界の歴史に刻まれていくだろう。そしてその歴史は、現在の本田が思い描く“絵”とそう違わないはずだ。

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