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どん底から日本代表のエースへ…岡崎慎司の成長を支えた兄との絆/言葉のパス-ぼくのサッカーライフ-

2015.01.15

Getty Images

サッカーノンフィクション『言葉のパス-ぼくのサッカーライフ- 第1回』
岡崎慎司(1.FSVマインツ05)

兄弟の絆は永遠に繋がっている

岡崎慎司
Photo by Getty Images

越境=ストライカーが兄を越えて行く日

「俺がプロになれたのは兄貴のおかげだよ」

 岡崎慎司は、空港のロビーから見えるドイツ行きの飛行機をぼんやり見つめて、遠い過去を懐かしみながら心の中で呟く。

 ドイツのブンデスリーガへの移籍が決まったとき、すぐに報告したのは妻子と両親、そして兄貴の嵩弘だった。岡崎のサッカー人生は2つ年上の兄の背中を追いかけて、2人でともに歩んできた道のりだと言える。

幼少=宝塚FCでの思い出

 岡崎がサッカーをはじめたのは小学2年のときだった。スポーツ一家の中で生まれた岡崎に、父の弘晄(ひろあき)は野球を勧める。母の富美代は、元テニス選手でインターハイの出場経験者だったことからテニスを勧めた。岡崎自身も野球かテニスかサッカーのどちらかを選択するべきか迷う。しかし、兄の嵩弘が「僕はサッカーをやる」と言い出したことから、「兄貴についていこう」と思ってサッカーを選択した。

 岡崎が加入した宝塚FCは、幼稚園から中学生の年代までそれぞれクラス分けされている。岡崎は、ジュニア部門のクラスでポジションはディフェンダーだった。

「小学4年のときだったと思うんですが、フォワードをやっていた子が転校したので『お前、やってみるか』と監督の田尻(克則)さんに言われたんです。子どものころからゴールに飛び込んでいくタイプのフォワードだった。あのときは、かなり足が速かったんですけどね」と、おどけて岡崎は語る。

 彼は、チームに加入した当時を回想して次のように話す。

「ただ夢中になってサッカーをやっていたという感じでした。宝塚FCに入ってから、もう毎日サッカーしかしていません。没頭したというか。遊ぶこともサッカー以外していなかった。学校でもサッカーしている奴らといつも一緒にいましたね」

 宝塚FCは、土曜日の午前と午後、日曜日の午前に全体練習がある。そして日曜日の午後から試合が行なわれていた。したがって、平日は自主練習になっている。つまり、平日は練習場に来なくてもいいことになっていた。しかし、岡崎は学校が終わるといったん帰宅してから、練習場のある小学校に自転車で40分かけて毎日通っていた。

「宝塚FCの練習が終わって再び家に帰ったら、今度は兄貴とマンションの砂場でサッカーをしました。兄貴がゴールキーパーをやったときは、俺がシュートを打つ。逆に俺がゴールキーパーをやったら、兄貴がシュートを打つ。2人とも裸足でやっていました。だから、ゴールキーパーが上手くなって……宝塚FCで練習中ゴールキーパーが足りなくなったんです。そうしたら、俺たちがゴールキーパーをやらされたことがあったくらい、上手かったんです」

恩師=田尻監督と山村コーチとの出会い

 宝塚FCの田尻には、サッカーの基礎を徹底的に叩き込まれる。

「宝塚FC時代は基礎練習の反復でした。その中でテクニックの練習が多かったんです。でも自分は、テクニシャンにはなれないなと思いましたね(笑)。練習内容は、六通りのテクニックを使ってコーンからコーンの切り返しをしました。50回くらいの往復を5セットとかですね。あとはリフティングや投げられたボールを蹴り返すとか。ほんと基礎的な部分ですよ。田尻さんの口癖は『まずは基礎をやれ』でしたから。そうした基礎の反復が今の身体のキレに役立っていると思います。基礎はやっぱり大事だったと改めて感じますよ」

 基礎的な練習を反復させた田尻監督とは対照的に、当時大学生でアシスタントコーチだった山村俊一の指導法が、岡崎には刺激的だった。

「山村さんはかなりユニークなコーチでした」と、岡崎は話す。

 ある日、練習中にシュートミスをした岡崎を捕まえて、両足を抱えてプロレス技のジャイアントスイングをして罰ゲームにする。また別な日には、「慎司、お前シュートミスしたから塀の上に登って好きな子の名前を叫んでこい」と言ったりした。時には、大差で勝っている試合中に「慎司!もっと点数取れるから走れ!」と指示を出す。

「勝った試合なのに終わってから走らされたりしました。それに試合に勝っても『気持ちが入っていないから』とダメ出しするんです。逆に『負けても気持ちは見えたからいい』という人でした」

 さらに山村のユニークさは練習内容にも現れている。

「シュート練習ばかりさせられていた印象があります。いや、実際、シュート練習ばっかりでしたよ」と、当時を振り返って岡崎は言う。

「全体練習が2時間だったとしたら、1時間はインサイドキックでのシュート。あとの1時間はヘディングシュート。クロスからのボールをシュートするというパターンが一番多かったです。ただしボレーシュート禁止令みたいな指令があって、『クロスは全部頭から行け』と言われました。それ以来、俺はダイビングヘッドが好きになりました。俺の今のサッカースタイルの原点はその時に育まれたんですよね」

 山村にやらされていた当時のプレーが今のストライカーとしての岡崎の代名詞となった「ダイビングヘッド」に通じていたのだ。これはよく知られた話だが、岡崎の座右の銘は「一生ダイビングヘッド」である。岡崎が清水エスパルスに加入する直前に、宝塚FCの当時の仲間たちからTシャツを贈られた。そのTシャツに寄せ書きがされてあって、ちょうど胸の部分にあたる真ん中に山村コーチが書き記したのが「一生ダイビングヘッド」という文だったのである。

追順=兄の背中を追いかける弟

 小学校4年生まで住んでいたマンションの1階に住居者共同の庭があった。そして、その庭の中に砂場が作られている。岡崎が話をした兄弟2人でゴールキーパーとキッカーを交互にした場所は、

 その砂場のことである。時にボールはプレーしている砂場を越えて、周りに生えている花壇の草花の上に転がっていく。ある日、マンションの住民や管理人に「どんどん草花がなくなっていくから、やめてくれないかな」と怒られたことがある。2人は「僕らが原因じゃないよ」と口を尖らせて抗議した。今でも岡崎は、「やっぱり僕らが原因だったんじゃない、と思うんですけどね」と当時を振り返って笑いながら話す。

 住人に叱られた2人は、場所を変えて再びボールを蹴り続けた。今度は、同じ敷地内の狭い通路でプレーする。どれだけ正確に真っすぐボールを蹴れるのかを競い合った。漫画の『キャプテン翼』に出てくる蹴り方をイメージして、「ドライブシュート」と叫びながら日が暮れるまでボールを蹴る。また、雨の日は、クッションボールを使って部屋の中でプレーした。当然、ドタンバタンという足踏みの音は下の階に響き同じように住人の苦情のもとになった。

「2人で一緒に自転車に乗って練習場に行きました。先陣を切って自転車をこいでいたのはいつも兄貴でした」と言って岡崎は懐かしみながら微笑む。

「いま思えば……兄貴が俺の前にいつもいたんですよね。ああ、そう言えば、小学校のときだったんですけど、テレビゲームをやって俺が勝って『やった!ウォー』と叫んで喜ぶと、普通にパンチが飛んできたりして……泣かされたんです。勝ち逃げするとパンチをくらう。サッカーに関しても、リフティングで俺が勝つと、またパンチが飛んできて、子どものころは兄貴にしょっちゅう泣かされていたことを思い出しましたよ」
 
 岡崎家は、慎司が小学校5年生の時に宝塚市から三田市という少し離れた場所に引っ越しをした。三田市にあるチームに移ろうかと考えたが、そのまま宝塚FCに新しい家から1時間かけて通うことを決める。

 中学生になって、けやき台中学校のサッカー部と宝塚FCの2つのサッカーチームに所属することになった。通常は、部活とクラブの両立を許す学校は少ない。しかし、両方でプレーすることを可能にしたのは、嵩弘が先駆者として部活の先生に了承してもらっていたからだった。

「兄貴が、いつも俺の先を歩いて道を切り開いてくれました。中学のときもそうだったんですが、学校の部活に入りながら宝塚FCにも所属できたのは、兄貴のおかげです。中学の先生に『部活に入らせてください』と言ったら、『嵩弘と同じように宝塚FCにも所属するか』と話されたので、『はい、お願いします』というやり取りがあって、クラブの練習がないときは学校のサッカー部の練習に参加しました」

 岡崎は中学校1年生の後半から上級生のチームの試合に出られるようになる。その後にレギュラーをつかんでからは、中学2年で兵庫県トレセンの候補メンバーになる。中学3年になると兵庫県選抜に選ばれてフランスに遠征した。

「世界に行ってサッカー観が変わりました。俺は上にいけばいくほど、そこの場所でも慣れていくタイプなんですよ。一歩一歩進んでいくのが俺のスタイルですね。エスパルスに加入して日本代表になれたのも、着実に前に進んでいける能力があるからじゃないのかな、と自己分析しているんです。サッカーをやっていて一番自信がついたのは滝二(滝川第二高等学校:以下滝川二高と略す)のときですね」
 
 岡崎が語った滝川二高時代に得た「自信」とはいったいどんなものだったのだろうか?

少年=滝川第二高等学校での思い出

「高校1年の時に、サッカーやっていてはじめて壁にあたったんですよ」と、岡崎は語り出す。

 高校進学にあたって滝川二高を志望校にしたのは、もちろん兄の嵩弘が在籍してサッカー部にいたからだ。しかし、高校サッカー界の名門校でレベルも高かった滝川二高を岡崎に勧める指導者はほとんどいなかった。兵庫県選抜の監督も「あそこはレベルが高すぎるぞ。もっと試合に出られる高校に行った方が慎司にとっていいんじゃないのか」と助言されもした。また滝川二高のセレクションを受けた際に当時の監督だった黒田和生に「3年になってもレギュラーになれないかもしれないぞ」と言われる。

 当時の滝川二高は、AチームからEチームまであった。岡崎は入学してしばらくはEチームに所属していた。

「サッカー部に入ったばっかりで、もちろん環境になかなか慣れていけませんでした。自分が他の選手よりも劣った状態だったと認識してはいました。レベルの高い状態に入るのである程度は覚悟をしていたんですが。

 苦しいときはありますよね。試合に出られないときとか。どうやったら試合に出られるようになるんだろうと悩んだりしましたね。中学までは順調に試合に使ってもらっていましたから。苦しいときはあると思うんですけど、逆に、一番下のグループから這い上がって上のグループに昇れたら絶対に自信になるだろうとは考えていましたね」

 岡崎がEチームにいたとき、嵩弘はCチームに所属していた。フォワードの嵩弘は、ボランチやサイドバックを任されている。岡崎も同様に、本職のフォワードではなくボランチのポジションについていた。

心音=弟の部屋のドアをノックする兄の想い

 2人は寮生活をしていたのだが、ある日、練習のあとに嵩弘が岡崎の部屋のドアをノックする。部屋に入ってきた嵩弘はいきなり大きなため息を吐く。

「俺ら……どうする?」と岡崎に問いかけて、さらに言葉を続ける。

「俺はサイドバックやらされたり、お前もボランチだしな。俺らフォワードやりたいよな」

 嵩弘の話を聞いて岡崎は「そうだよね」と言葉を返すだけだった。

「あの夜に兄が部屋を出てからいろいろ考えたんですよ。『フォワードをやるためにはいま何をすべきか』って。だから、ボランチをやっていた時でも前にいるフォワードの動きを気にしながらプレーするようにしたんです」

 それから1カ月後の夏のインターハイで、嵩弘は得点を決めはじめてAチームに呼ばれた。兄を追いかけるように岡崎も高校選手権を前にして1年生でAチームに参加することになる。

 嵩弘は、インターハイ前までBチームにいた。なんとかトップチームの試合に出場したいと願って、ものすごく必至に練習に取り組んできた。周りから見たら「体が壊れるんじゃないのか」と映ったほどだった。そんな嵩弘の姿を見て黒田はこんな風に話した。

「お前の頑張りが辛いんだよ。お前が頑張っているとは認めているし、試合に出してあげたいと思うんだけど、だからと言って試合に出してあげられないのが辛いんだ」

 黒田の言葉を聞いた嵩弘は、その晩1人で自分の置かれた立場をじっくり噛み締めて、「それでもどうすれば使ってもらえるのか」と自問自答する。

「俺はストライカーだから、誰よりも得点を取るだけなんだ」

 そのためには、どの場所でボールを呼び込めばいいのかとか、どういう動き出しをすればパスがくるのかを考えられるだけ考え抜いた。

 なぜ、嵩弘はそこまでトップチーム出場にこだわったのか?

「Bチームのままで卒業したくなかったし、兄として弟にいいところを見せたかったんです。やっぱり、選手権で一緒にグラウンドに立ちたかった」と、本心を打ち明ける。

 そうした秘めた思いをもっている兄のプレーを、岡崎はずっと見つめていたのだ。

「俺が試合に出られないときもずっと兄の試合は見ていたんです。『この高いレベルですごいな』と思いました。自分のスタイルでトップチームに上がったわけじゃないですか。だから『同じスタイルの俺も上にいける』というのを見せてくれたんですよ。

 俺のスタイルは、がむしゃらにプレーしてゴール前では相手に競り負けないこと。そしてシンプルにプレーして結果で力を証明するところです。それを兄貴が見せてくれた……暗闇の中で光を見たというか。ここで頑張れば絶対に上手くなれる環境にいると確信しました」

 入学前に監督の黒田から「レギュラーは難しい」と言われた岡崎は、「見返したい」という気持ちがあったという。同時に、「俺はやれる」という思いも同居していた。1年生の中で兵庫県選抜に選ばれたときには追加招集選手だった。だから、気持では「下から這い上がる」という決意と、サッカー選手として本当に上手くなっていきたいという希望だけを胸に潜めてやってきた。

並立=2人で一緒に選手権のピッチに立つ

 1年生の仕事は、グラウンドをならすためにトンボをかけないといけない。でも、寮が敷地内にあったので、どんなに遅くなってもそこにはいつもチームメイトがいる。だから自主トレの相棒には困ることがなかった。岡崎は、必ず誰かと夜遅くまでボールを蹴っていた。

「俺は、頭が悪いなりに考えてやったんですよ」と謙遜しながら、「そのときそのときに自分の課題を克服するために練習でも考えてプレーしました。1つひとつ課題をクリアーして、俺の感覚では『これは上手くなっている』とわかるんです。1年生のときに足りなかったのは、フィジカル的な力強さです。相手に簡単にボールをとられるのは、高校生のスピードとか自分より体が大きい選手に慣れていなかったから。環境に慣れればやれると思っていました」と、はっきりした口調で話した。

 岡崎が、滝川二高に入学して夢にまで見ていたことが実現した。それは、全国高校サッカー選手権大会で嵩弘とコンビを組んで試合に出ることだった。初戦の室蘭大谷戦で2人はフォワードとしてグラウンドに立った。試合前に「好きに動こうぜ」と2人で話し合う。しかし、ハーフタイムで「お前ら動きがバラバラ過ぎるよ。勝手にやるな」とチームメイトから釘を刺される。

 岡崎はまだ1年生だったので、注意の矛先は嵩弘に向けられる。
「嵩弘、お前が考えてやれよ」と、誰かが叫ぶ。
 結局、試合には勝利したものの2人のコンビネーションは活かされずともに無得点に終わる。

 試合後に2人で「次はアイコンタクトでいこう」と話し合う。しかし、2回戦は嵩弘が先発から外れ3回戦は岡崎がベンチを暖める。2人が待ちわびた3試合ぶりのコンビ復活の場面が訪れる。ベスト4を目指した対東福岡戦。岡崎と嵩弘が絶妙のコンビネーションを見せて攻撃をリード。1-1から後半4分、岡崎が勝ち越し弾を決める。

 そして、同点に追いつかれた後の同36分の決勝弾は、嵩弘が東福岡のディフェンダー陣のマークを引きつけたスキをついてゴールネットを揺らす。兄弟ならではの「あうん」の呼吸が、滝川二高を4年ぶりのベスト4へと導く。岡崎は、試合後のインタビューで「今まで決めていなかったのでうれしいです」と満面の笑みを浮かべて話していた。

 準決勝で市立船橋高校に敗れて決勝進出の大業は成し得なかったが、兄弟2人がストライカーとしてグラウンドに立つという夢は実現された。

兄弟の絆は永遠に繋がっている
ストライカーが兄を越えて行く日

岡崎慎司
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恩師の黒田和生とコーチの荒川友康との思い出

 黒田は、岡崎に「人間性=サッカー」であると常々言ってきた。

 岡崎は、その言葉が「一番好きな言葉なんですよ」と話す。

「黒田先生の言った言葉は、自分もそう思うし純粋にサッカーを好きな人にはいい人しかいないと思うんですよね。代表に行ってもツンツンしてる人なんていないですし。やっぱり『人間性=サッカー』って正しかったと思うんですよね」

 滝川二高は、選手だけのミーティング時間を多く持たせた。また、NHKで放送されていたドキュメンタリー番組『プロジェクトX』を毎週見せて、それに関する感想文を書かせた。選手に「コミュニケーション能力」と「ものを考えてそれを組み立てる(ロジック)能力」を養わさせるためだろう。

 黒田は岡崎に「おもいっきりやれ」とよく言った。
 しかし、派手なプレーは好まなかった。

 岡崎が黒田に本気で怒られたときがあった。それは2年生のときの高校選手権の2回戦のこと。1回戦では2得点を決めてチームを勝利に導く。好調のまま挑んだ2回戦で、岡崎はオーバーヘッドキックでゴールを狙う。シュートは惜しくも枠を外れた。試合後に黒田は鬼のような形相をして岡崎のもとにやってくる。

「こら、お前、天狗になってるんじゃない!」
 怒鳴り声がロッカールームに響きわたる。
 あまりの迫力に岡崎は震えながら泣き出した。
「す、すいません」
 か細い涙声が聞こえる。

 岡崎は、その出来事を振り返って次のように話した。

「俺は、おごっていたわけではなかったんですが、ただ、監督の指摘は鋭いなと思いました。俺、みんなの前で怒られて、泣きじゃくってすごく恥ずかしかったんですが、1人になったときに『何がいけなかったのか』と反省するんですよ。俺は、言われたことを吸収してすぐにいい方向にもっていけるタイプだと思っているんです。受け入れて消化できるのは自分の長所。受け入れて消化して、よりいいものを見ていくしかないんですよね」

 岡崎のサッカー人生に影響を与えたもう一人の人物がいる。それはコーチをしていた荒川友康だ。荒川は、サッカーアルゼンチン代表監督たったビエルサの通訳をしていた経験があり、アルゼンチンサッカーにも精通していた。

「ポテンシャル」という言葉の意味を考える

 岡崎が1年生だったときにコーチの荒川は選手と個人面談の機会を作る。その席で岡崎にこう話した。

「お前はダイヤの原石だけど、まだ石ころだ。ただし、磨けば磨くほど一番輝くダイヤモンドになれる選手だと思う」

 そう言われた岡崎は、「自分は可能性がある選手なんだ」と知らされたという。そして荒川は「お前はポテンシャルをもっている」とも付け加えた。

「俺、『ポテンシャル』という言葉の意味をそこではじめて知ったんですよ。それで、自分でもさらに上に行けるんだ、と思えるようになったんです。俺自身サッカー選手としてこれから先の『可能性』というものを見出せたんじゃないかなと思いました。

 それからなんですよ、急にAチームに呼ばれるようになったのは。あとから聞かされたんですが、それも荒川さんが推薦してくれたんだって。『自分の可能性を信じてプレーするんだ』と思えるようになったら、上級生との練習試合でも臆することなく点数がとれて、黒田先生にも認めてもらえたんです」

 荒川の指導で、滝川二高はアルゼンチン代表のシステムと同じ3-4-3のシステムを採用した。岡崎は3人のフォワードの真ん中のトップをやらされた。「センターフォワードのポジションが自分にはまったというか、俺のところにきたボールは身体を張ってキープして、サイドに流してから俺がバイタルエリアに入って中央でシュートを決めるという形だったんです。

 そのスタイルが合ったんですよ。荒川さんは、アルゼンチンのサッカーがどんなものかをよく話してくれて、練習内容もアルゼンチンスタイルだったのでとても新鮮でした。俺、思うんですけど、黒田先生の器のでかさというか、新しく入ってきたコーチの話を監督ってそんな簡単に聞かないじゃないですか。

 ましてや名将ならば余計そうですよ。たとえばランニングとかでも、以前はこの時間に無茶だなと思うランニングのトレーニングがあったんですけど、荒川さんがチームに来てからは変わったんです」

 どのように変わったのかと言えば、試合が土曜日か日曜日にあったなら、試合後は練習をしないで完全オフにする。そして水曜日にはフィジカルトレーニングをする。

 練習内容は、1-3-4-3のフォワード3人でボール回しのトレーニングを取り入れる。フォワード同士が連係してどうやってゴールエリアまでボールを運ぶのかをより具体的にそして実戦的に行なった。

 荒川は、「このミニゲームはこんなコンセプトがあってやっている」と予め選手に告げる。岡崎にとっては荒川の指導はとても刺激的な内容だった。
「コンセプトを中心にゲームを組み立てるとか。システムに合わせたコンセプトとか。たとえばフィールドの真ん中にあったボールを外へ送ったとしますよね。サイドにボールがいくと近くにいる相手選手はサイドに寄るから今度は中が空くことになる。じゃあ、その空いた真ん中を利用して攻撃しようか、と。

 今まで自分はがむしゃらにただサッカーをやってきたから、『ああ、サッカーってこんなにも奥が深いものなんだ』と考えるきっかけを与えてくれましたね。卒業するまでの3年間、荒川コーチが俺を見ていてくれたんです」

 高校3年生になった岡崎は、チームのキャプテンを任されるまでに成長する。

 それは黒田の教えの1つである「サッカー=人間性」という言葉を信じて実践した成果だろう。そして、高校卒業と同時に清水エスパルスへの加入というプロサッカー選手としての道が開かれることになる。

清水エスパルスへの加入

「プロになりたいと思ったのは小学生のころから考えていたんですけど、明確に目標として捉えるようになったのは高校に入ってからですね」

 2005年に清水エスパルスに加入した岡崎は、当時監督だった長谷川健太に「フォワードの中でも一番下」と言われた。そして、2008年にチームのFWの軸として活躍していたときでも長谷川に「予想外にいい結果を生み出した選手」と語られる。

「エスパルスに加入したときは、怪我をしていたのでマイナスからのスタートだったんです。実際にボールを蹴られるようになったのは、その年の3月過ぎからでした。高校を卒業してすぐだったので、『自分はこんなものじゃない』とか『ゴール前では負けない』という気持ちが正直あって、だからプロになったんだと。

 でも、実際にプレーしてみたら、チームメイトは全員サッカーのことを知っていて、俺だけが知らないという感じでした。その頃は、ノボリ(沢登正朗)さんとか斉藤(俊秀)さんとかテル(伊東輝悦)さんもそうですし、代表で活躍した人がいて、言われることが半端なく自分の知らない世界だったんですよ」

 ある日の練習で、沢登に「俺がここでボール持ったら普通はそこに動くだろう」と言われる。プロにとっては当たり前の動きが当たり前にできないでいた。

 次の日には、別の選手に「SBがボールを持ったらお前が縦に入るんじゃなくて角度をつけて斜めに入ってこないといけないだろう」と助言される。さらに次の日には「そのポジショニングじゃSBの動きは見えないぞ。相手のDFの前にパスをもらいに下がって来てくれないとパスがだせないよ」と話される。

 諸先輩たちの教えに対して岡崎は、「もっと動かないと」「ぼっとしているだけじゃボールをもらえない」と自分に言い聞かせて練習に励んだ。

 監督の長谷川は、プロになったばかりのぎこちない動きをする岡崎を練習後に捕まえる。
「慎司、お前サッカーの試合を見ているのか?」
「いいえ」
「ヨーロッパの試合とか、たくさん見たほうがいいぞ」

 そう言われた岡崎は、クラブの寮の自室に欧州サッカーのチャンネルを設置して、毎日試合を見るようにした。
 
 岡崎のロジックは、人のアドバイスに対して「なぜそのアドバイスをされたのか」をまず考えることからはじまる。次に、そのアドバイスが「正しいのかどうか」を思索する。そして、アドバイスが「正しいと思えたらすぐに実行」に移す。さらに、アドバイスから得たものを消化して「相手が期待した以上の結果」を出す。

 これが岡崎のロジックであり彼の生き方そのものなのだろう。また、岡崎の生き方を語るときには、両親への孝行という側面を語らなければいけない。プロになって、彼が最初にした孝行は親への仕送りだった。

「自分がプロになって稼ぎ出してから両親の大変さを思うようになりました。仕送りは、家の台所事情が苦しそうに見えたので自発的だったんですけど。『ちょっと苦しいな。あの時の分が返済できてないんだよね』と、こっそり話しているのを聞いたんです。その話を聞いて『今しか返せない。サッカー選手は選手生命が短いので返せる時に返しておかなければ』ととっさに思いました。

 高校のときも遠征費や寮費も兄弟2人分だったから『お金かかるな』と言っていたので、お金の面では苦労していたんじゃないかなと感じていたんですよ。両親は、あまり苦労してるって弱音みたいな部分を見せなかったんですけどね」

兄の嵩弘の葛藤

 岡崎が清水エスパルスで徐々に頭角を現してきたとき、兄の嵩弘は関西外国語大学のサッカー部に在籍してプレーを続けていた。プロになって活躍しはじめた弟と大学サッカーで活動する兄。

 本人たちはお互いの生き方を気にもとめないだろうが、周りの人々は次第にサッカー選手として兄弟を比較するようになる。特に、嵩弘にとっては他者の言葉に傷ついたときもある。

 大学の練習場でこんな出来事があった。パスの練習をしていると、チームメイトから心ない発言を浴びる。

「なんだよ、弟の慎司の方が上手いんじゃないか」。

 最初はそんな言葉も聞き流していた。しかし、相手の言葉はますます過激になっていく。
「やっぱり兄貴だからってサッカー上手いわけじゃないんだ」

 練習中に続けられた罵声に耐えられず、嵩弘が相手に詰めよりユニホームの襟を掴み殴り合いになりそうになる。すかさず周りの選手が止めに入った。嵩弘が意識するかしないかに関係なく兄と弟の比較は行なわれる。それも同じサッカー選手であればしかたがないことかもしれない。

「今まで弟を意識してサッカーをやったことがない」という嵩弘の意識の中に微妙な変化が起きはじめる。「弟がプロでやれているなら自分だってプロでやれるはずだ」という思いが嵩弘の心に日々募っていった。

 一方、岡崎は嵩弘が自分と比較されて、そのことでチームメイトと喧嘩になったり、嵩弘の中で「僕は何をやっているんだ」という自己葛藤が芽生え出したことは知らずにいた。
 
 大学での嵩弘のサッカー生活は、最終的にチームでキャプテンを務めるまでになる。練習の組み立てや試合でのプランは、彼が中心になってまとめる。プレーにおいてもフォワードとしてチームの軸になっていた。

 大学を卒業するとFC堺やFCグラスポkashiwaraなどに所属して関西サッカーリーグで活躍する。しかし、心のどこかでプロへの道を諦め切れないでいた。そんなある日のことだった。嵩弘が両親に自分の思いを打ち明ける。
「慎司がプロでやれるんなら僕もやれるはずだって思って諦めがつかない」

 両親との相談の結果、心に引っかかるものがあるならとことんまで挑んでみた方がいいという結論を得る。そして、「人生一度」と思って、知人の紹介でパラグアイに行ってプロを目指することになった。

南米への旅立ちと新たな人生への出発

 岡崎は、嵩弘がプロへの道を諦められないでいることを、このときに母から聞かされる。

「俺が、パラグアイでの生活費を出すよ」と、母に嘆願する。
「大丈夫、私たちがなんとかするから」
 母は、岡崎の提案を断る。

「兄貴のパラグアイ行きの話を聞いて、『頑張れ頑張れ』って思ったんですよ。俺はずっと兄貴の背中を追いかけてサッカーをやってきた。俺がプロになれたのは兄貴のおかげなんです。だから、プロになりたいという兄貴の助けをしたかったんです」

 岡崎はそう語ってじっと唇を噛み締める。

 嵩弘が、練習生としてトライアウトに参加したクラブは、廣山望がいたスポルティング・ルケーニョや福田健二が所属したグアラニなどである。トライアウトは、残念ながら年齢などがネックとなって合格通知は受け取れなかった。

 パラグアイで半年間が経過した日、嵩弘は母の富美子に電話する。母は息子の声を聞いてすぐに状況を察する。
「嵩弘、もう帰ってきな」
受話器の向こうから嵩弘の涙声が響く。

 嵩弘は、あの頃を回想して次のように語る。

「夢を叶えるには『準備』と『決断』がいると思うんです。僕は両方とも中途半端でしたね。慎司は小さいときから準備をしていましたから。絶対にプロになると決断していたし、それに必要な努力をずっと続けていました。優先順位をもって行動できるかが大事だと思うんです。

 僕にはそれが足らなかったし弱かった。パラグアイに行ってよくわかったんです。でも、プロになろうと決めてチャレンジできてすごく楽しかった。ひとつの後悔もありません。たとえば、一直線の道をバイクかなんかで走り抜けるのも気持ちがいいかもしれないんですが、途中休憩するのもいいじゃないですか。

 山や崖や森なんかの道を行くのも進んでるときは辛いでしょうが、達成感や充実感や経験はかなり得られるんじゃないでしょうか。僕の歩んできた道は、実はガードレールが多く守られていて、道に外れそうになっても助けてくれました。それが両親であったり恋人や知人であったり弟の慎司だったんです」

 兄が弟にいつの日か人生において追い越される運命にあるとすれば、先を行く兄はより高くあらなければいけない。なぜなら、後から来る弟が兄を追い越そうとしてより生きる力をつけようとするからだ。

 そのためにも、嵩弘が「プロになるための最後のチャンスだ」と決心してパラグアイに行ったのは正しい選択だった。結果がよかったとか、結果がよくなかったことが問題ではない。挑戦したことで、はっきりした結果が出たことがよかったことなのである。嵩弘にとっては、厳しい現実だったかもしれないが、彼が次に高く飛び立つためには必要なことだった。

 岡崎がドイツに行く日、嵩弘は飛行機が通る青空を見上げていた。

「僕とお前は、親子でもなければ友だちでもない。ずっとこれからも兄弟だ。だから、お前の成功は僕の喜びだ」

 嵩弘は、心の底から弟の慎司の成功を誰よりも願っていた。

 そうした兄の思いに弟の岡崎は、「ありがとう」ときっと答えることだろう。

〈了〉

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