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JFL昇格を目指す市民クラブに生きる―西村卓朗監督が率いるVonds市原の試合を見にいく―

2014.12.18

写真・文=川本梅花

「ゼットエーオリプリスタジアムまで1,200円」

 午前10時30分過ぎに千葉県市原市の五井駅に降り立った。ジェフユナイテッド市原・千葉のホームグラウンドがある蘇我駅から内房線の電車に乗り換えて10分。五井駅の改札を出てタクシー乗り場に向かう。乗り場のところに目立つ看板があって、「ゼットエーオリプリスタジアムまで1,200円」と掲示してある。

 看板に「ゼットエーオリプリスタジアムまで1,200円」と記してあったので、私は当然、タクシーを利用する多くの人がスタジアムと言えばサッカー球技場を示していると思った。「スタジアムまで行ってください」と告げる。

「どちらの?」と聞き返される。

 運転手は「野球場とサッカー場があるんですけど」と言う。

「市原臨海球技場にあるゼットエーオリプリスタジアムです」と私は答える。

「ああ。今日はなにか大きな大会でもあるんですか?」と運転手が再び尋ねてくる。

「ええ。KSL市原カップという大会の決勝戦があるんですよ」と話す。

「じゃあ、帰りはタクシーがいるかもしれないね。もしも、(タクシーが)いなかったらここに書いてある番号に電話してくれればすぐに来ますから」と言って一枚の紙を渡された。

 スタジアムに着くとタクシー料金は1,200円もかからなかった。スタジアムに入って関係者と思われる人に「取材できたので何か表示するものはありますか?」と尋ねる。事前に、主催者側に取材申請はしていたので、用紙に名前を記入するとか、取材者用のパスカードを渡されるとかするのかと考えた。「ああ、ビブスね」と言って関係者室に入っていき、しばらくして戻ってくると「『今日は何もいりません』ということですよ」と告げられる。

 ピッチからスタンドを見渡す。観客の数は約250人位か。各チームのサポーターと関係者、そしてジュニアユースの子どもたちが観戦する中、第7回KSL市原カップ決勝戦、Vonds市原と流通経済大学サッカー部の試合が、12月14日、午前11時、冬の晴れ渡った空の下でキックオフの笛が鳴らされた。

試合後に聞いた西村卓朗監督の思い

 Vonds市原の監督兼GMである西村卓朗氏は、大宮アルディージャやコンサドーレ札幌で活躍した元Jリーガーである。2013年に、関東リーグ2部に昇格した同チームの現在の職に就任する。2006年から2012年春に西村監督が引退するまで、私は彼を密着取材した。その内容は、季刊誌『サッカー批評』(双葉社)において「―哲学的思考のフットボーラー―西村卓朗を巡る物語」というタイトルで7年近く連載された。今回、Vonds市原を取材するきっかけは、監督となった西村氏がどのようなチームを作ったのかをこの目で見てみたいと思ったからである。

 決勝戦となった試合は、2-2の同点で延長戦に入っても決着はつかずにPK戦に突入した。流通経済大学は6人までを成功させる。一方のVonds市原の6人目のキッカーがゴール左上に大きくシュートを外して、Vonds市原はこの大会を準優勝で終える。試合後に西村監督に話を聞いた。

――決勝戦で惜しくも負けてしまって、残念な結果だったね。
「正直、今の時期は選手のコンディションのピークが過ぎてしまっています。試合に出ていた選手の中には、今季でチームを離れる選手もいました。リーグ戦のときとはメンタリティも違う。明らかに下がってしまっていた。そうした理由で、チーム全体の一体感が失われていたんですが、市原カップの決勝戦まで辿り着いたことで、もう一度モチベーションを上げて挑んだんです。でも、いろいろな意味で難しい試合でした」

――今季のチームはどこまで目標に達することができたの。
「関東リーグで1位を目指してシーズンをスタートしたんです。そして地域決勝大会に出場し決勝ラウンドの1次、さらには最終ラウンドまで進んでJFLに昇格する。これが今季の最大の目標でした。今季は、地域決勝ラウンドの1次予選で負けてしまった。ただ、関東1部リーグは3位だったので、全国社会人大会という5日で5連戦の過酷な大会なんですが、そこで3位に滑り込んだのでなんとか上にいけました。それは来季への大きな収穫ですね」

――JFLに昇格した奈良クラブと対戦したけれども、戦ってみて違いは何だった?
「クラブとしての成熟度と言うか、クラブとして地域として完成度が高かったのが奈良クラブだったと思います。選手のプレーについては、状況において選手たちが個々に判断して戦う。それは日々の練習や普段の試合の中で取り組んでいることなんです。局面がどんどん変わっていく中で、選手が正しい判断をできるようなチームにしていきたいですね」

――今は監督兼GMという立場で、選手のスカウティングもしているんだよね。
「今季に関しては監督とGM業ですが、営業もやりました。クラブ運営もやっていて、いろんなことをやらせてもらっています。クラブはセカンドチームもあって約45名の選手がいます。地域リーグになると、J3やJFLよりも低いカテゴリーになるので選手補強は簡単ではない。

このカテゴリーでプレーする選手は、本当にサッカーが好きだからやっているという選手が多い。彼らのモチベーションは何かと言えば、上のカテゴリーでプレーしたい、もっと上手くなりたいというものが支えになっている。Jリーグでプレーする選手は、お金をもちたいとか有名になりたいとか、プロとして当然のステイタスを手に入れるためのプロであるのですが、ここは時間もお金も犠牲にしてやっている選手の集まりです。

そう考えると、本当にサッカーが好きな人しかできないカテゴリーなんだろうな、と思います。サッカーに対する彼らの思いを見ていてそう感じます。だから、彼らをなんとかJというステージに、その近くまでは連れていくことが自分の今の役割なんだと考えているんです」

 インタビューが終えると、ファン感謝祭のための準備に取りかかる監督に私は尋ねる。

「誰がお勧めの選手というか、ちゃんと話せる選手を紹介してくれる?」と頼む。

「たくさんいますけど、濱屋祐輝がいいんじゃないかな」と答える。

「背番号は何番?」と聞くと「7番」と返ってくる。

「今日、得点を取った7番?」

「そうです」と言って背番号7番の濱屋祐輝を連れてきてくれた。

僕は何のためにサッカーボールを蹴っているのか


 27歳になる濱屋祐輝は、現在Vonds市原のフロントの仕事をしながらサッカー選手を続けている。濱屋は、JFLの佐川印刷SCから2011年に市民クラブとして旗揚げをしたVonds市原にやってきた。彼は地元の市原出身で、少年時代を柏レイソルユースで育ち、同期には松本山雅FCの船山貴之がいた。大学は国士舘大学サッカー部に所属して卒業と同時に佐川印刷SCに加入する。

「佐川印刷で最初は試合に出ていたんですが、途中から出られなくなったんです。『なぜ、試合に出られなくなったんだろうか』と考えていたときに、ちょうど、市原にサッカーの市民クラブができるという話が耳に入ってきた。僕は市原出身なので、なにか市原のためにできることはないかとずっと考えて。千葉県社会人リーグ1部からの出発だったんですが、そこは割り切って考えようと決めて、市原のためにできることがあればと思って帰ってきたんです」

 そう語る濱屋のサッカー環境は、佐川印刷SCのころの方が恵まれていた。佐川印刷では、午前中にサッカーの練習をやって、午後から5時まで仕事をするという毎日だった。市原に戻ってきてすぐは、警備員、居酒屋店員、郵便局集配部の配達員をやって日々の生活をしのいだ。現在はクラブ職員になれて月給制正社員として下部組織の営業から広報活動まで広い範囲で仕事をしている。

 JFLでのプレー経験をもつ濱屋に、関東1部リーグとの差を聞いてみた。

「千葉県社会人リーグに最初に来たときは、ずいぶんと差があるなと思ったんです。関東2部リーグ、関東1部リーグと上がってきたら、技術的にはJFLと変わらないと思いました。違いがあるとすれば、経験の違いかな。技術的には遜色がないです」

 確かに、この日の決勝戦を見ても、関東1部リーグにいるVonds市原の選手の技術の高さには驚いた。左サイドから右サイド前方に大きくボールがサイドに蹴られる。そのボールを受けた選手がバイタルエリアのFW(フォワード)にダイレクトで折り返す。FWはヘディングで中央にボールを落とす。そこにMF(ミッドフィールダー)が走り込んできてダイレクトでシュートする。

 この一連の流れは、4人の選手のダイレクトプレーから成り立っていた。「ダイレクトプレーが続いた」という話を濱屋にすると、「うちの得意なパターンなんです。練習から監督が口酸っぱく言ってますから」と教えてくれる。

 チームは戦術的にもオーガナイズされている。5バックの[5-4-1]が基本のシステムで、攻撃のときは両WB(ウイングバック)が攻め上がる。守備のときには、5人のDF(ディフェンダー)が横一列にきれいに並んでラインを作る。延長戦になって最後は、[4-3-3]にしてロングボールを前線に放り込んで相手DFの裏にFWが抜けようとするなど、試合の中で何通りかシステムを変更しても選手はきちんと対応できていた。

 戦術に関して濱屋は自信をもってはっきりと言う。

「戦術的にはこのままやっていけば間違いないと思っています。監督から『こうしよう』という指示があって、それに対応していけば絶対に勝てる、という確信があって選手もやっています」

 最後に、濱屋に「カテゴリーが上の佐川印刷から下のVonds市原に、地元に戻ろうと思ったきっかけは何だったのか?」と質問をした。

「自分が何のためにサッカーボールを蹴っているのか、と考えたとき、Vonds市原のチームコンセプトに『すべての子供達の夢のために』とあったんです。僕は、子どものころからいろんな指導者の方にお世話になった。指導者のおかげで今の僕があると思っている。僕らが子どもたちに夢を与えられるプレーや行動だったりを見せていければ、市原の子どもたちがもっとがんばれるのかな、と思って。それは今始めることがいいんじゃないのか、と考えて、地元のクラブに戻ろうと決めて帰ってきたんです」

駅までのタクシーの中で見える景色

 五井駅まで戻るために、タクシー運転手からもらった電話番号に連絡する。夕方を迎えようとする時間の中で、風が頬を強く打ちつける。両手をポケットに入れて、さっきまで話を聞いていた濱屋の「自分が何のためにサッカーボールを蹴っているのか」という言葉を思い出す。

 しばらくして、タクシーがスタジアム前にやってくる。私が車に乗り込むと運転手が「どこまでですか?」と尋ねる。「五井駅まで」と伝えて車が走り出す。午前中にスタジアムに来たときと同じ道路を折り返している景色のはずが、どこか雰囲気が違って感じられる気がした。

「そうか」と私は思った。景色は何も変わらないのだが、私の気持ちの何かが変わったことに気づいた。「自分が何のためにサッカーボールを蹴っているのか」と語った濱屋の言葉と姿勢に心を打たれた私がいたのだ。優越とか劣等とかは彼の言葉の中にはない。そこにあったのは、人が生きるということへの「ひたむきな姿」だけだったように思う。

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