2014.12.12

内気で無口な少年は世界的ビッグスターへ…“ハメス”が過ごした少年時代に迫る

[ワールドサッカーキング1月号掲載]

無口で恥ずかしがり屋、病的なまでに内気だった少年は、今やファーストネームだけで通じる世界的ビッグスターとなった。世界を虜にする“ハメス”がたどったキャリアとは? コロンビアとアルゼンチンで過ごした、努力と忍耐の少年時代――。
Real Madrid CF v Elche CF - La Liga
文=マルティン・マズール
翻訳=加藤 富美
写真=ゲッティ イメージズ

「はい、今日はここまで」

 時は2004年夏。コロンビアのクラブ、エンビガドFCの下部組織であるエル・ドラドの練習が終わった。灼熱の太陽から逃れるため、ほとんどの少年が足早にロッカールームへ引き上げる中、ただ一人ピッチにたたずむ少年がいた。誰も驚かない、いつもの光景。13歳の“リトル・ハメス”である。

 とても恥ずかしがり屋で、チームメートの中には彼の声を聞いたことのない者も複数いた。吃音のため、口を開いても出てくるのはわずかな言葉のみだった。だが、幸運にもハメス少年には言葉以外にコミュニケーションの手段があった。彼の両足は、口の代わりにハメス・ロドリゲスという人間を十分に語っていたのだ。一人で黙々とトレーニングを続ける彼は、足と会話していたのかもしれない。

 30分後には監督も練習場を後にしたが、ハメスは無人のゴールに向かって黙々とシュートを打っていた。それから10年後、ワールドカップ(W杯)で得点王となったコロンビア国民の“息子”は、レアル・マドリードというスター軍団の一員となった。だが、子供の頃からハメスを知っている人間にとっては、世界を席巻する彼の姿は驚きでも何でもなかった。

 今や「ハメス」というファーストネームだけで世界に通じる青年。その成長と台頭に、人々が期待するようなシンデレラ・ストーリーは存在しない。古いソックスを丸めたボールでストリートサッカーをしたこともなければ、学校をサボって友達とミニサッカーをするのが日課だったわけでもない。南米の選手によくある、サッカーが「貧困から抜け出すための手段」だったというわけでもない。彼のサクセスストーリーはカカーのそれに似ている。中流階級に育ち、成長の過程では他の選択肢もあった。その中から彼はサッカーを選んだのだ。

 彼のキャリアを形作ったのは、毎日の熱心な練習と指導者の叱咤激励、そして涙。ハメスはサッカーを始めたきっかけについて、「5歳の頃、継父がトリマのアカデミーに連れて行ってくれた。それがすべての始まりだった」と話している。初めて手にした黒と白のアディダスのスパイクも継父のフアン・カルロス・レストレポからのプレゼントだった。レストレポは控え選手としてトリマに所属していたが、サッカー選手の道を諦め、のちにエンジニアの職に就いている。

 母親のマリアはこう振り返る。「ハメスがプロサッカー選手になりたいと言ったことは一度もなかったわ。でも、あの子はサッカーをするために生まれてきたと私は信じていた」

 ハメスがプロの世界で初めて指導を仰いだウーゴ・カスタノ監督は、サッカーに対する彼の姿勢は母親のしつけの賜物だと話す。「親御さんの努力が報われた最高の例だ。あの年の少年が、文句を言わずに2部練習をこなす姿など見たことがない。家庭で学んだ規律が彼の姿勢の基本となっているのは間違いない」

 この「規律」はその後、トップクラスの指導者たちによって育まれることになる。ハメスはクラブでの指導に加え、個人コーチの指導も受けていたのだ。与えられる課題は日を追うごとに厳しいものとなった。テクニックや戦術だけでなく、ジムに通って体の強化も図った。年上のチームメートに当たり負けしないようにするためである。

 このようなトレーニングは通常、テニスや器械体操、ゴルフといった、個の力で勝負するスポーツ選手を対象としたものである。だが、ハメスにとっての意味合いは違っていた。「サッカー選手はある意味、変人じゃないといけない。普通の人は飲みに行って夜更かしする。でも、サッカー選手はバランスのいい食事をとって、早寝して、ランチの後は昼寝もしなきゃならない。もっとも、僕はそんな健全な生活を苦にしたことは一度もないけど(笑)」。07年のインタビューで本人はそう答えている。

 ハメスは世界が注目する攻撃的MFになった。それを実現できたのは、彼のたゆまぬ努力があってこそだ。成長過程で所属したチームではいつもトップクラスだったが、それで満足したことは一度もなかった。ファーストネームだけで顔が思い浮かぶ選手はなかなかいないが、彼は努力によってその難題をやすやすとクリアしたのである。

ギャングとの争いで叔父が死去

 ハメスが生まれたのはベネズエラとの国境にほど近いククタという街だった。父親のウィルソンは市のトップクラブ、デポルティーボでプレーしていたが、ハメスが3歳の時に家族の下を去っている。以降、幼いハメスは母に連れられ、3つの都市を渡り歩いた。1990年代、コロンビアは有名な麻薬王パブロ・エスコバルによって支配されていたが、ハメスが身を置いた環境も、血で血を洗う権力抗争や、通りでの傷害事件は日常茶飯事だった。

 それは決して他人事ではなかった。叔父のアーリーはインデペンディエンテ・メデジンで将来を嘱望されるMFだったが、95年、19歳の時に殺害されている。オートバイを盗まれそうになり抵抗した結果、刃物で切りつけられた。友人と病院に逃げ込んだが、彼を襲った一味が病院の外で待ち伏せ。アーリーは6発の銃弾を浴び、友人とともにこの世を去った。アメリカW杯でオウンゴールを献上したアンドレス・エスコバルが凶弾に倒れてからわずか1年と1週間後のことである。

「アンドレスに続いてアーリー。サッカー界をどれだけの不幸が襲うのか誰にも分からない状況だった」。そう話すのはアーリーの元同僚で、後にアストン・ヴィラなどでプレーしたフアン・パブロ・アンヘルだ。

 ハメスは混乱の地メデジンを離れ、イバゲのアカデミア・トリメンセで年上の子供たちとボールを蹴っていた。ユースの監督、アルバロ・グスマンは「ハメスは素晴らしい足を持つ、知的で華のある少年だった」と話す。「最初は地元の大会で有名になった。チームが全国で試合をするにつれ、彼の名前はどんどん知られるようになったよ」

 当時のチームメート、ディエゴ・ノローナは、飛び級で上がってきたハメス少年のことを今も鮮明に覚えている。

「FKは大抵僕が蹴っていたんだが、彼はボールをつかんで自分に蹴らせてくれと目で訴えるんだ。そして無言のまま、外側から壁を巻く見事なシュートをゴールマウスに沈めた。壁の上を越えるキックはよく練習するが、外側を通すなんて聞いたこともなかった。彼が特別だということをすぐに理解したよ」

 ハメスが他の少年と違う点は、類まれな能力だけではなかった。周囲の人間が心配するほど、内気で無口だったのだ。アカデミア・トリメンセの指導者の一人、ホセ・コルテスは当時を次のように振り返っている。「ハメスは自分の感情をほとんど表に出さなかった。周りの人間は少し心配していたよ。いつも受け身で自分の意見を言わないので、カウンセラーに相談したほどだ」

 その後、ハメスはコロンビアのユースサッカーの頂点を競うポニーフットボールカップで活躍、誰もがプロとしての資質を認める存在となった。11歳のハメスはこの大会で9試合に出場して13ゴールを記録。決勝ではCKを2度直接ゴールに沈めるという離れ業も披露した。それを見ていた5000人の観客の中に、グスタボ・アドルフォ・ウペギ・ロペスがいた。エンビガドに資金提供していた、麻薬王エスコバルと親しい人物である。彼はスタンドで「この子と契約しよう」と口にしたという。

 メデジン郊外でエンビガドのアカデミーを立ち上げたロペスは、のちに同クラブの大株主の一人となるが、プロの殺し屋集団を率いたという容疑で98年に逮捕された。コロンビア第一位の発行部数を誇る週刊誌『Semana』によれば、彼は「パブロ・エスコバルの死後、メデジン・カルテルから独立し、悪の同盟を築いた人物」とされている。それを踏まえると、過去20年のうちにエンビガドの会長3人と取締役会の役員1人が殺害されているという事実を聞いても、驚くことではないのかもしれない。

理想とは掛け離れた環境のエンビガドで数シーズンを過ごしたハメスは、バンフィエルドに活躍の場を移すが、アルゼンチンの地でもすべてがうまくいったわけではなかった。記事全文は発売中のワールドサッカーキング1月号でチェック!