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OB選手たちの現在――八木直生(元鹿島アントラーズ)「アントラーズのために恩返しをしていくことだけを考えています。本当に目の前のことをしっかりやるだけなんですよ。先のことがよく分からないことを、僕は誰よりも知っていますから」

2014.11.08

[Jリーグサッカーキング 2014年9月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、昨シーズン途中まで鹿島アントラーズでプレーし、21歳という若さで現役引退を決断した八木直生さん。現在、鹿島アントラーズのスクールコーチとして忙しい毎日を送る彼に、アカデミーから昇格したトップチームでの3年半のプロ生活について、さらに始まったばかりの第二の人生について、率直な言葉を求めた。
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文=米谷真人
取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
写真=神山陽平、オフィスプリマベーラ、足立雅史

出場できないからといって、ふて腐れたことは一度もない

 昨年8月に現役引退を発表したばかりの八木直生は、現在、小学生や幼稚園児を対象とする鹿島アントラーズのサッカースクールでコーチを務めている。身長199センチの彼と子供たちとのコントラストは何ともユニークだが、コミュニケーションはお手のもの。コーチとしてのセカンドキャリアは1年にも満たないが、優しい言葉で、丁寧に指導するその姿は何とも頼もしい。

 とはいえ八木は、まだ22歳の若者である。彼はなぜ、若くしてプロの世界から身を引く決断を下したのか。

 1991年、群馬県で生を受けた八木は、幼稚園に通っていた頃にボールを蹴り始めた。小学生時代はFWやMFとしてサッカーに打ち込んだが、中学生になると、活躍の場は攻撃的なポジションから最後尾へと移ることになる。

「小学校を卒業する直前にGKがケガをしたんです。その子の代わりに僕がGKをやることになりました。その流れで、中学でも自然にGKになっていましたね」

 桐生市立広沢中学校在籍時に群馬県大会に出場したのは、最高学年である3年時のみ。しかし2回戦で敗退するなど、決して輝かしい成績を収めたわけではなかった。

 地元の高校に進んでサッカーを続けよう――。アントラーズから声が掛かったのは、そう考えていた矢先だった。

「中学時代に特に活躍していたわけではなかったので、アントラーズから声が掛かるとは全く考えていませんでした。ただ、僕の周りには他県の学校に進学する選手もたくさんいたので、『俺も挑戦してみよう』という感じで決めたんです。今振り返ると、誰も知り合いがいない鹿島によく一人で行ったなと思いますね」

 そうして八木は、自身が「精鋭部隊」と考えていたアントラーズユースに籍を置くことになる。そこには彼が考えていたとおりの強者が集まっていた。

「レベルの高さに衝撃を受けました。本当に自分が下手すぎて……毎日ヘロヘロでした(笑)。周りとの差がはっきりしていたので、必死についていくしかなかったですね。でも、1年間頑張ったからなのか、高2になると少しずつ試合に出られるようになりました。そこで初めてプロというものを意識した気がします」

 当然のことながら、ユースの選手全員がトップチームに昇格できるわけではない。両親とは大学進学について話し合ったこともある。

「高3の10月に右足を骨折してしまったんです。それ以前に何度かトップチームの練習に参加させてもらっていたのですが、昇格するという話はもらっていませんでした。だから、ケガをしてしまった時はかなり不安でした」

 2010年、それでも八木は見事にトップチームへの昇格を果たした。押し寄せたのは相反する二つの感情だ。

「昇格の話を聞いた時はうれしかったですし、安心しました。でも、ケガをしていた分、不安もかなりありました。そんな大ケガは初めてでしたから」

 当時、八木がトップチームに対して抱いていたのは「無敵軍団」というイメージである。ユース時代にほぼ毎試合のホームゲームをスタジアムで観戦したが、そこで感じたのは、たとえリードされても必ず勝利を手にする名門の勝負強さだった。自分もこのチームの一員になりたい。そう憧れたトップチームの一員となった喜びと、「本当についていけるのか」という不安を同時に抱いた。しかし、そうした不安があったからこそ、良い意味での“割り切り”をして日々のトレーニングに取り組むことができた。

「正直、試合に出られるとは全く思っていませんでした。線も細いし、知識も経験も技術もない。こういう考えはあまり良くないかもしれませんが、3、4年は下積み期間として力をつけ、それ以降で勝負するというビジョンを勝手に持っていたんです。もちろんすぐに試合に出られるに越したことはありません。でも、自分がすぐに試合に出られるような選手ではなく、そのような甘いクラブではないことも分かっていましたから」

 トップチームに加入して、3シーズンが経過した。この期間、公式戦には1度も出場できなかった。当時のアントラーズは現在もなお守護神として君臨する曽ヶ端準が不動の地位を築いていた。

「自分がまだまだの選手だということはよく分かっていましたから、出られなくて当たり前です。もし曽ヶ端さんがいなくても、試合には出られなかったと思います。自分に力がないことはこれまでずっと感じていたことですから」

 力を込めて、こう続けた。

「試合に出場できないからといって、ふて腐れたことは一度もありませんでした。3年目になると、自分の意識もかなり変わってきていたんですよ。自分が出れば、あれは止められたんじゃないかという考えも少しずつ出てきました。それまではそんなふうに考えたことはなかったんですけど、徐々に自信をつけていった感覚はありました」

 たとえ試合に出場できなくても、目標を持って日々のトレーニングに励んだからこそ、新たな感情が芽生えた。自信など全くなかった自分が、徐々に手応えを感じつつある。この調子で取り組んでいけば、いつかチャンスが巡ってくるかもしれない――。そう考えていた矢先の出来事だった。

アントラーズのためにできることをやりたかった

 13年1月。八木にとってのアントラーズでの4シーズン目が始動しようとしていた。そんな時、メディカルチェックで心疾患が発見された。

「正直、やっぱりそうかという感じでした。というのも、小学生の時から学校の検査で引っ掛かることはあったんです。ただ、気にしなくていいと言われていたので、特に注意するようなこともありませんでした。でも、兄が僕の前に心臓を悪くして手術をしていたこともあって、自分にも何かあるんじゃないかと思っていたんです。日々の生活に支障をきたすような症状は全くありませんが、自分にも何かあるんじゃないかということは頭の片隅にありました」

 あまりに突発的な知らせではあったものの、心のどこかではそうした可能性を排除することなく生きてきた。だからこそ、驚くほど冷静に受け止めることができた。

「結果を聞いた瞬間に頭をよぎったことですか? まだまだ全然いけるって感じでしたね。手術すればきっと大丈夫。復活するために、実家でずっと走っていましたから。トレーニングをしながら手術を待っていました」

 メディカルチェックから3カ月後の13年4月、八木の手術は無事に成功した。これからはリハビリを懸命にこなし、練習に合流する。そのことだけを考えていた。

「復帰する気満々でリハビリをしていました。でも、リハビリをしていくにつれてそれは難しいのかなと思うようになってきて……。身体の感覚が思いどおりじゃないことが何度かあったんですよ。立ちくらみや頭痛も増えてきました」

 間もなく、担当医からこれ以上の激しい運動は避けるようにと指示を受けた。事実上の引退勧告だった。

「普通の生活は問題ないと言われましたが、サッカーは難しいと。自分の中では薄々分かってはいましたが、僕はそれまでサッカーしかやってこなかったので、これからどうしようって……。僕からサッカーを取ったら何が残るんだろうって。目の前が真っ暗になった気がしました」

 心疾患が見つかってもなお、諦めずに復帰を目指した。ところが、担当医からの言葉で初めて厳しい現実に直面した。これから、どうすればいいのだろう。失意の八木に手を差し伸べたのは、強化部長の鈴木満だった。

「鈴木さんは真剣に話を聞いてくれました。そこで、育成組織のコーチになることを勧めてくれたんです」

 自身のセカンドキャリアについて、サッカー以外のことを考えることはできなかった。地元に帰って何かをすればいいと言う人もいたが、八木には肝心の“何か”が思い浮かばなかった。その“何か”を考えるまでもなく、たった一つの感情が八木を突き動かした。

「とにかくアントラーズのために力になりたかったんです。アントラーズは1試合も出場できなかった僕に対して本当に良くしてくれました。正直、コーチになりたかったわけではありません。でも、コーチであれば選手だった経験を生かせるんじゃないかと思いましたし、基本的には子供が好きなので。これまでお世話になった分、アントラーズのためにできることをやりたかった」

 13年8月、こうして八木は、ひっそりと現役生活に幕を下ろした。公式戦への出場はついに叶わなかった。

「開き直りではないですけど、何度も言うように、試合に出られなくて当たり前の選手でした。もっとできたんじゃないかと思う部分もありますが、毎日腐らずにトレーニングに臨んでいましたから、仕方ないですね」

 育成組織コーチとしての第二の人生は、翌月から始まった。指導の対象は幼稚園児と小学生の計9学年だ。

「まずはみんなで楽しくサッカーをしようという感じです。1日の流れとしては10時に出社して事務作業。そこから、夕方から始まるスクールに向けた準備をしています」

 スクールは曜日によって対象学年が分けられており、さらに毎月ごとに「シュート強化月間」などのテーマが設けられている。ちなみに取材日の強化テーマは「フルターン」で、八木を含めたコーチ陣からは「ナイスターン!」という声がしきりに飛び交っていた。

「しっかりと褒めてあげれば身に付いていきますよね。子供たちに『これでいいんだ』と思わせてあげたい」

 同時に、指導の難しさについても言及する。

「正直、どうして子供たちにはこれができないんだろうと思ってしまいます。でも、できないことをできるように教えるのがコーチですから。その技術はもっと磨いていかないといけません。とはいえ、コーチングに絶対の答えはありませんから、そこが難しいですね。選手であれば、どのような結果になっても自分の責任。でも、コーチは他人を預かっている分、選手とは違う責任が生じます。そういう意味では、選手より難しい部分もあるかもしれません」

 子供たちにできないことをできるようになってもらうため、工夫していることも少なくない。

「やはり子供たちの目線に立つことが一番重要だと思います。それは当然、各学年に合わせた目線です。例えば幼稚園児は、基本的には“自分とボール”という意識しか持っていないと思うんですね。でも、小学校3、4年生くらいになると“仲間”を意識するようになる。そうなると周りの子供たちとのパスの練習も組み込みます。そうやって年代に合った特徴を頭に入れつつ、トレーニングを組んでいくようにしています」

 しかし、ジレンマもある。

「本当は子供たちに考えさせないといけないんですけど、僕はすぐに答えを教えてしまうんです。あと、僕は子供が大好きなので、できれば怒りたくないんです。それでも、子供たちのためになることは、プレー面であろうとそれ以外であろうと、しっかり怒るようにしています。でも、モヤモヤしちゃいますね(笑)。コーチングキャリアをスタートさせたところなので、本当に当然のことですけど、指導者としては、まだまだ青いですよ。日々勉強です」

突然訪れたセカンドキャリア。でも、後悔はない

 歩み始めたセカンドキャリア。将来的には、GKコーチとして“第一線”に戻りたいと考えているという。ただし、同時にそれが決して簡単なものではないことも分かっている。自身のスタンスは、現役生活と何も変わらない。

「ライセンスももちろんですし、GKを指導するための知識、技術を習得しなければいけません。そういう意味では現役時代と同様、目の前のことにしっかり取り組みたいですね。そうやって下積みをすれば、その後にチャンスがくるんじゃないかと思っています」

 現役時代は全く考えなかったセカンドキャリアについて、今はその思いを巡らせることがある。

「ほんの1年前まで、セカンドキャリアはまだまだ先のことだと思っていました。だから、全く考えなかったですね。なので、引退しなければならないと分かった時は、本当に戸惑いました。でも、後悔はないですね。現役選手に対して、僕はできるだけセカンドキャリアのことを考えないでほしいと思います。だって、目の前に現役選手としての現実があるわけじゃないですか。きれいごとではなく、今を頑張ってほしい気持ちが強いですし、セカンドキャリアはそうなってしまった時に考えればいいと僕は思います」

 さらに、こう強調する。

「今はやりがいのある仕事が目の前にありますから。それに向かって、アントラーズのために恩返しをしていくことだけを考えています。本当に目の前のことをしっかりやるだけなんですよ。先のことがよく分からないことを、僕は誰よりも知っていますから」

 緻密な将来設計をし、それに向かって一つひとつハードルをクリアしていくことも方法論としては有効だと言える。しかし、設計した将来が一瞬で崩れてしまうことを八木は知っている。だから、目の前のことに全力で取り組むことしかできない。

 もっともそれは、これまで彼が貫いてきたスタイルでもある。突然訪れたセカンドキャリアを大好きなサッカーのフィールドで過ごせることは、彼がそうしたブレないスタイルを持っているからであると思う。

「確かに、みんなそう言ってくれるので、そうであればうれしいですね。まあ、これからの人生のほうが長いので、頑張ります」

 お世話になったアントラーズのために――。始まったばかりの第二の人生、その下積み期間を八木は、楽しみながらじっくりと過ごしている。

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