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中山雅史と日本サッカー。ドーハの悲劇を原点とする成長物語。【第3回】

2013.12.02

中山雅史スペシャルインタビュー

インタビュー/岩本義弘 構成/細江克弥 写真=足立雅史、アフロ、ゲッティイメージズ

“潜伏期間”を経てたどり着いたワールドカップの舞台

 1993年10月28日――。

 ロスタイムに起きた“ドーハの悲劇”によって、ワールドカップ初出場を目指した中山と日本代表の戦いは幕を閉じた。

 それからフランスW杯までの4年間は、中山にとって、成功と失敗が繰り返し訪れる不安定な時期だった。しかし迎えた1998年、ようやくたどり着いたW杯のピッチの上で、彼はそれまでの4年間が大舞台で輝くためのポジティブな“潜伏期間”だったことを証明する。

 1993年には所属するヤマハ発動機をJFL(ジャパンフットボールリーグ)2位に導き、悲願のJリーグ昇格を達成。しかし“J”の仲間入りを果たした翌1994年は、恥骨炎を発症して約8カ月という長期戦線離脱を余儀なくされた。

 1995年は開幕からピッチに立ち、1990年W杯で得点王に輝いた元イタリア代表FWサルヴァトーレ・スキラッチとのコンビでチームを牽引。しかし日本代表への復帰を果たした矢先、6月のイギリス遠征で再び故障し日の丸からも遠ざかる。

 再ブレイクを果たして再び表舞台に返り咲いたのは、ケガの痛みがようやく和らぎ始めた1997年のことだ。Jリーグ第2ステージで絶対的なエースとしてクラブ史上初のステージ制覇に貢献すると、フランスW杯予選で窮地に追い込まれていた日本代表の救世主として“復帰待望論”が巻き起こった。その声に後押しされるように再び日の丸を背負い、「ジョホールバルの歓喜」と称されるアジア最終予選第3代表決定戦の勝利に貢献した。


ドーハの悲劇から4年、度重なるけがを乗り越え、中山はついにW杯の舞台にたどり着いた

 そして1998年6月、中山はついにW杯の舞台に立つ。

「ああ、これがW杯か……。そういう気持ちであのピッチに立ちました。実は、それほど高ぶっていたわけでもなかったんです。超満員のスタジアムは何度も経験していたし、日本のサポーターもたくさん応援に来てくれてしましたからね。だから、僕自身は意外なほど普段どおりというか、あくまで冷静にあの瞬間を迎えました。心の中にあったのは、『W杯が始まるんだ』というちょっとした緊張感だけ。あとはいつもどおり、気持ちを込めてピッチに向かいました」

 初戦の相手は、優勝候補の一角にも挙げられていたアルゼンチン。前線にはガブリエル・バティストゥータやクラウディオ・ロペス、中盤にはフアン・ベロンやアリエル・オルテガ、さらに最終ラインにはロベルト・アジャラやハビエル・サネッティが顔を並べるスター軍団だった。

 結果は0-1。日本はバティストゥータに奪われたたった一つのゴールで敗れた。スコアだけを見れば下馬評を覆す大善戦だったと言っていい。しかし中山は、そこにある“世界との差”を感じていた。

「第2戦のクロアチア戦もそうでしたけど、スコアだけを見ればどちらも0-1。だけど、そこにはまだ大きな差があると感じました。一つひとつのプレーの精度、マークの厳しさ、ポジショニングの正確さ。日本はそうした要素にほんの少しのズレがあって、結果的にはそこを突かれる形でやられてしまった。確かに善戦したけど、終ってみれば勝てない。そういう試合だったと思います」

夢の大舞台で味わった“世界との差”という現実

 初めて立ったW杯のピッチ。結果的には、この舞台に特有の緊張感にも支配されていたと振り返ることができる。

「自分たちのペースでやれていると思えるところもあった反面、何て言うか、ふわふわした感じというんですかね? そう、地に足がついていないような。アルゼンチンと向き合って、『コイツらに一泡吹かせてやるんだ』『絶対にぶっ倒してやる』っていう思いはあるんだけど、頭のどこかで、安全に、リスクを避けながらボールを回そうとしている」

 トゥールーズのスタッド・ムニシパルに立っていたのは、いつもとは違う自分、いつもとは違うチームだった。

「安全なプレーを選択しているはずなのに、ミスをしてしまうんですよ。僕は自分自身で、『どうして俺はこのプレーを選択したんだろう』と考えながらプレーしていた。そう考えると、W杯という舞台の緊張感にのまれて浮き足立っていたのかなと思いますね。頭も体もふわふわした状態のままプレーして、そこを相手に突かれてやられてしまった」

 アルゼンチンに0-1。続くクロアチアにも0-1。この時点で日本の決勝トーナメント進出は消滅し、同じく2敗でグループリーグ敗退が決まっていたジャマイカとの第3戦を迎える。


日本サッカー史上初となるW杯でのゴールを挙げたが、勝利にはつながらなかった

 ジャマイカが相手なら勝てる――。おそらくサッカーファンなら誰もがそう思っていた“消化試合”で、しかし日本は黒星を喫した。0-2のビハインドで迎えた74分、中山がついに奪った日本サッカー史上初となるW杯でのゴールも、結局、勝利には結びつかなかった。

「0-2からのゴールだったんでね。自分のゴールがどうのこうのということより、とにかくもう1点欲しかった。そういう気持ちが強かったですね。ゴールについては、ただボールをゴールに流し込むことしか考えていませんでした。当たったのは右足の太もも。ヘディングなのか、胸なのか、太ももなのか、それとも右足のインステップキックなのか、インサイドキックなのか。選択肢はたくさんあったと思うんですよ。でも、変なところ当ててゴールの枠を外すことだけは避けたかった。とにかくゴールに流し込むことだけを考えて、右足の太ももが最もいい選択肢であると判断したんです」

 残り時間は16分。中山は同点、あるいは逆転を目指して懸命に走り続けた。ゴール後の接触プレーで骨折の重症を負っていたが、ピッチに立つ彼はいつものように、痛みなど気にする素振りもなく貪欲にボールを追った。

「骨折じゃなくて、打撲だと思っていたんですよ。まあ、『なかなか痛みが引かないな』とは思っていましたけどね(笑)」

 しかし、中山を始めとする11人の総攻撃も虚しく試合終了のホイッスルを迎え、日本代表にとって初めてのW杯は3戦全敗という結果に終わる。残ったのは夢にまで見たW杯の舞台に立った達成感ではなく、世界の舞台でたった一つの勝利も挙げられなかったという現実だった。唯一のゴールを奪った中山にも、“祭典”の余韻に浸れるほどの余裕はなかった。

「フランスW杯を経験してその次の日韓W杯にも出たいと思った」

「やっぱり、帰ってからいろんな人に『ゴールどうだった?』『おめでとう』と言われました。でも、僕自身はあのゴールに対する特別な喜びはなかった。嬉しいという感情はなかったですね。ただ、何年か経って『W杯第1号ゴール』と言われるようになって、初めて『決めておいて良かった』と思えるようになったというか。それくらいなんですよ、本当に」

 半永久的に語り継がれる歴史的なゴールを味気なく振り返る背景には、その舞台で突き付けられた現実の厳しさがある。日本は初めて、世界との真剣勝負を経験した。そこで初めて、本当の意味での世界との差を痛感した。たった一つのゴールでぬか喜びしている場合じゃない。きっと当時の中山は、心の中でそう感じていたに違いない。


初のW杯で世界との差を実感した中山は、2002年日韓W杯でも再びピッチに立つことになる

 だからこそ、彼は再びW杯のピッチに戻ることができた。

「1993年に“ドーハ”を経験する前は、それから5年後のW杯も、まして9年後のW杯にも出場するなんて全く思えなかったですね。でも、“ドーハ”を経験してフランスW杯に出たいと思ったし、フランスW杯を経験してその次の日韓W杯にも出たいと思った。井原(正巳)と話したんですよ。シャワーで2人きりになった時に。『もう1回出たいな』って」

 “ドーハ”をともに経験した井原の念願は叶わなかったが、中山はその言葉のとおり、2002年日韓W杯のピッチに立った。

「正直、『W杯っぽくないな』って思ったんです。W杯って、海外でやるものというイメージが強いじゃないですか(笑)。僕ら選手はずっと宿舎に滞在していて外の雰囲気は分からなかったんですけど、テレビやいろんな人の声を通じて、日本中がものすごく盛り上がっていることだけは伝わってきました。不思議な感覚ですよね」

 W杯の歴史を紐解くと、グループリーグで敗退した開催国は過去にない。そのプレッシャーを跳ねのけて、日本は自国開催の大舞台で躍動した。初戦のベルギー戦は2-2のドロー。第2戦はロシアに1-0、第3戦はチュニジアに2-0と競り勝って、グループ首位で決勝トーナメント進出を決める。16強でトルコに敗れたとはいえ、4年前に成すすべなく敗れ去った“後進国・日本”の快進撃は世界を驚かせた。

「緊張? もちろんしますよ。僕はJリーグの試合でもいつも緊張しますから。プレッシャーだっていつも感じています。でも、走り出せば、ガーッと走り出せば無我夢中になれちゃうんですよね。そうやってプレーしているうちに、緊張なんて忘れてしまう。ゴールを決めれば疲れも吹き飛ぶ。だからとにかく、走り出せばいいんですよ。ガーッとね(笑)」

 2002年日韓W杯終了時、中山はすでに34歳になっていた。しかし無我夢中の全力疾走は、それから10年も続くことになる。

(第4回「現在の代表と自分について、ドーハの意味について」に続く)

第2回:20年の歳月を経て振り返った“ドーハの悲劇”の真実

プロフィール

中山雅史(なかやま・まさし)
1967年9月23日生まれ。静岡県出身。サッカーの強豪・藤枝東高、筑波大を経て、1990年にヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)に入団した。98年にリーグ戦4試合連続ハットトリックを記録し、J1歴代最多の157ゴールをマークするなど、多くの輝かしい成績を収めた。日本代表としても通算53試合で21得点。ワールドカップは2大会に出場し、98年フランス大会ではジャマイカ戦で日本選手として史上初めて得点を挙げた。そして2012年、惜しまれながら一線から退いた。

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