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中山雅史と日本サッカー。ドーハの悲劇を原点とする成長物語。【第2回】

2013.11.26

中山雅史スペシャルインタビュー

インタビュー/岩本義弘 構成/細江克弥 写真=足立雅史、アフロ、ゲッティイメージズ

北朝鮮戦での勝利を機に、チームの雰囲気はガラリと変わる

 2試合を終えて1分け1敗。最下位。アメリカW杯の出場権をめぐるアジア最終決戦で、ハンス・オフト率いる日本代表は最悪のスタートを切った。

 強豪サウジアラビアを相手に1-1のドローで終えた初戦は、日本にとっては想定内の結果だった。ただし、イランとの第2戦で喫した黒星は「想定 外」と言っていい。同年のアジアカップを制して大陸王者に輝いた日本にとって、「2試合で勝点1」という結果は明らかに「誤算」だった。

 とはいえ、内容にはポジティブな要素もあった。2点のビハインドを追いかけたイラン戦、途中出場の中山雅史が奪ったゴールは、消えかけた闘志に火をつける起爆剤となった。

 ゴールラインを割ろうとする“死に体”のボール、それを生き返らせた決死のスライディング。立ち上がると同時に放たれた力のないクロスは相手の虚を突いてシュートに変わり、まるでゴールに吸い込まれるようにネットを揺らした。中山はそのボールに誰よりも早く駆け寄り、拾い上げ、抱きかかえるようにしてセンタースポットまで駆け抜けた。そのすべてに“らしさ”が感じられた彼のゴールは、敗戦のショックに直面したチームに勇気を与え、窮地から救い出した。

「まだ終わっていない」

「残り3試合に勝てばいい」

“終わり”を予感させる現実に直面してなおチームが死ななかった背景には、“スーパーサブ”が魂で奪ったゴールがある。


北朝鮮戦でスタメンに名を連ねた中山は値千金の追加点を挙げて勝利に貢献した

 中山が振り返る。

「イラン戦後のロッカールームで、オフトがホワイトボードに『3 wins』と書いた。そうなりゃもう、『やるしかない』という感じになりますよね。負けて吹っ切れたわけじゃない。でも、チーム全体がいい意味で開き直れた。そんな気がしますね」

 残る相手は北朝鮮、韓国、イラクの3チーム。メンタル的に解き放たれて本来の姿を取り戻した日本は、仕切り直しの“初戦”となった北朝鮮戦で3-0と快勝する。チームを勢いづける1点目、それから勝利を決定づける3点目を決めたのはエースの三浦知良。この試合から2トップの一角としてスタメンに名を連ねた中山は、後半開始直後の51分に値千金の追加点を奪った。この勝利を機に、チームの雰囲気はガラリと変わった。

「そう、確かにそうなんですよ。あの勝利でイケイケになるような雰囲気はありました。でも、今振り返ると、北朝鮮戦の3-0という結果は“オーケー”じゃなかったんですよね。あの試合であと1点奪っていれば、“ドーハの悲劇”は起こらなかったんだから」

 中山は言う。

「ドーハの悲劇は、最終戦のイラク戦で起こったことじゃない」

 初戦のサウジアラビア戦も続くイラン戦も、そしてこの北朝鮮戦も、どの試合でもいいからあと1点奪えればいい、それだけの話だった。何度も訪れたチャンスのうち、たった一つでも決めていれば、あの悲劇は起こらなかった。そうした思いが、今も頭の中をよぎる。

「韓国に勝って心のどこかに隙が生まれてしまったのかもしれない」

 第4戦の相手は宿敵・韓国。日本は三浦知良のゴールで、劣勢が予想されたこの試合をモノにした。この勝利には“勝点以上”の価値があった。だからこそ、誰もが期待に胸を膨らませた。しかし、あれから20年の歳月を経て改めて振り返ると、そこに落とし穴があったと言うこともできる。

「韓国に対するライバル心は強かったですからね。お互いにバチバチの感情を持って意識し合っていたと思います。だからこそ、あの試合に勝てたことは大きかった。でも、『これで出場権を獲得した』とは思わなかったですよ。安堵感はなかった……はずなんだけど、もしかしたら、心のどこかに隙が生まれてしまったのかもしれない。正直、イラクがあそこまで強いとは思わなかった。ピッチでそう感じたこと自体、どこかに油断があったということですよね」

 サウジ戦からイラン戦まで中2日。イラン戦から北朝鮮戦まで中2日。北朝鮮戦から韓国戦まで中3日。そして、韓国戦からイラク戦まで再び中2日。わずか14日間で5試合をこなす超過密日程を無我夢中で、しかも異様な緊張感の中でこなしながら、選手たちの体力はとうに底を突いていた。


「韓国戦の勝利で心に隙が生まれたのかもしれない」中山は20年の歳月を経て振り返った

 中山は笑いながら、その苛酷さを語る。

「あれはホントにキツかった。僕はイラン戦の途中から出場して、スタメンで出場したのは北朝鮮戦から。それでも、イラク戦では体が重たくて言うことを聞かなかったですからね。初戦からずっとスタメンで出ていた選手たちは、かなりの疲労を抱えていたと思いますよ。ほとんどが中2日ということもそうだけど、何しろ、とんでもなく暑かったですから」

 こんなエピソードがある。

 日本代表と同じホテルに宿泊していた韓国代表には、Jリーグのサンフレッチェ広島でプレーしていた盧廷潤(ノ・ジュンユン)がいた。日本と一緒にW杯に出場したい、心からそう願っていた彼は日本代表の選手たちにアドバイスを送った。

「最終予選の出場国の中で、イラクが一番強い」

「目では確かにゴールを確認している。でも、頭の中ではそれを受け入れられなかった」

 日本と同様、イラクにも出場権獲得の可能性がわずかながら残されていた。しかし、その可能性は日本と比較して限りなく低く、むしろ絶望的とも言える。日本との最終戦を本気で戦える気力が残っているとは思えない。誰もがそう高をくくっていた。

 ところが、イラクはキックオフ直後から猛攻を仕掛けた。極度の疲労感に襲われていた日本は前半5分に幸先良く先制ゴールを奪ったものの、その安心感からか突如として足が止まった。時間を追って激しさを増すイラクの攻撃に、防戦一方の展開を強いられる。後半9分にはついに失点を喫し、試合は振り出しに戻った。イラクは後半から、4人のFWを前線に並べていた。

 いつやられても不思議ではない。しかし中山は、そんな劣勢ムードを跳ね返して勝ち越しゴールを奪った。ラモス瑠偉のスルーパスに反応してDFラインの背後に走り込み、飛び出したGKの鼻先で右足を振り抜いた。

「オフサイドと言われればオフサイドでしたね。でもレフェリーがそうじゃないと判断しなければオフサイドじゃない(笑)。まあ、あのゴールはともかくとして、もう1点奪えなかったことがすべてだと思うんですよ。力が足りなかったということなんだと思います。リードした後はピンチの連続で、僕らはそれを守り切れなかった。その一方で、イラクは最後まで諦めなかった」


ロスタイムの悲劇の場面について「とにかくボーっとしていて状況を理解できなかった」

 中山のゴールで2-1とリードしたまま、試合はロスタイムに突入する。誰もが日本のW杯出場を確信したその時、悲劇は起きた。

「僕は途中で交代して、ベンチであのシーンを見ました。なんかもう、ボーっとしてましたね。目ではボールを追っているんだけど、とにかくボーっとしていて状況を理解できなかった。あの失点がショートコーナーから決まったことは、日本に帰国してから知ったんですよ。相手の選手がヘディングをして、それに誰も反応しない、GKのシゲさん(松永成立)も動けないまま見送っている。『あ、何? 外れるの?』って思ったら、そのままネットに引っ掛かるように入って……」

 ボールがゴールに吸い込まれる瞬間を、中山はベンチで目撃した。頭を抱え、崩れ落ちるように茶色のトラックに倒れた。

「わ~っていう感じで倒れはしたんだけど、『もしかしたら入ってないんじゃないの?』とか、そんなはずないのに『外側のネットじゃないの?』」とか、倒れながらいろんな理由を探していましたね。目では確かに、ボールがゴールに入るところを確認している。でも、頭の中ではそれを理解できなかった、というか受け入れられなかった」

 そう振り返って、さらに言葉を続ける。

「結果的には、僕らより状況が厳しかったイラクのほうが、最後までW杯に対する強い思いを持っていたということなのかもしれませんね。イラクは最後まで諦めなかった。あのゴールの直後、イラクの選手が先にボールを拾ってセンターサークルまで持って行ったらしいんですよ。本来、それをやらなきゃいけないのは日本ですよね。でも、僕らは立ち上がれなかった。同点にされたショックが大きすぎて、心のどこかで諦めてしまった。もう1点取ってやろうって、そう思えなかったことが日本の弱さだったのかもしれない。やっぱり、残された時間がたとえ数秒でも、その可能性に懸けてもう一度立ち上がらなきゃいけなかったんですよ。それはピッチに立っている選手だけじゃなく、ベンチにいた選手も含めて」

 イラクとの最終戦は2-2で幕を閉じ、日本はW杯出場を逃した。

「僕にとっては、W杯に挑戦する最後のチャンスだと思っていた。でも、あの出来事を体験して『このまま終わるわけにはいかない』と思えた。僕にとって“ドーハの悲劇”は、そういう出来事だったと思いますね」

 空前のサッカーブームに沸く喧騒の中で、中山は静かに、4年半後のフランスW杯へと続く道をゆっくりと歩き始めた。

(第3回「フランスW杯~日韓W杯」に続く)

第1回:“ドーハ以後”、世界へ急接近した激動の時代を生きた中山雅史

プロフィール

中山雅史(なかやま・まさし)
1967年9月23日生まれ。静岡県出身。サッカーの強豪・藤枝東高、筑波大を経て、1990年にヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)に入団した。98年にリーグ戦4試合連続ハットトリックを記録し、J1歴代最多の157ゴールをマークするなど、多くの輝かしい成績を収めた。日本代表としても通算53試合で21得点。ワールドカップは2大会に出場し、98年フランス大会ではジャマイカ戦で日本選手として史上初めて得点を挙げた。そして2012年、惜しまれながら一線から退いた。

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