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藤田俊哉「ジーコの教えをうまく受け継いできた鹿島はすごい。見習うべきことは多い」

2013.10.01

Jリーグ草創期から今に至るまで、藤田俊哉は様々な角度から日本サッカー界を見つめてきた。ジュビロ磐田の背番号10として、日本代表の一員として――。新たなチャレンジに向かう彼にとって、Jリーグが歩んできた20年と、その先に見える未来とは。

インタビュー・文=青山知雄(本誌編集長) 写真=足立雅史 Jリーグサッカーキング11月号掲載(9月24日発売)

――藤田さんはJリーグ開幕からの20年を様々な立場から見てこられたと思います。

藤田俊哉 僕らが子供の頃はサッカー界の最高峰に日本リーグがあって、それが目標だったんだよね。プロのクラブに入りたいなら海外に行かなければならない。そういう時代だった。静岡ではヤマハ発動機と本田技研が実業団として日本リーグ1部に所属していて、2部にはトヨタ自動車東富士FCがあった。だから、高校を卒業したらそういう実業団のクラブに入ってお金をもらいながらサッカーをしたい……今思えば可愛らしい夢だったよね(笑)。

――そんな中でプロ化の話を耳にすることになったと思うのですが。

藤田俊哉 確か、日本リーグがプロ化されるということを初めて聞いたのは1990年くらいだったんじゃないかな。ある人が「俺は清水でプロになる」と言っていて、それを聞いてすごいなと思った。信じられなかったけどね。90年ということは、僕はまだ大学1年生。その頃から漠然と、大学を卒業したらプロになるんだという思いが芽生え始めた気がする。

――Jリーグ ヤマザキナビスコカップが開催されたのは、Jリーグ開幕の前年、92年のことでした。

藤田俊哉 その華やかさにビックリしたことを覚えていますよ。93年5月15日、横浜マリノス対ヴェルディ川崎のJリーグ開幕戦を国立競技場で見たんだけど、あれだけ大きな注目を集めるとは思わなかったし、同時に「俺も来年はあの舞台に行くんだ」という感じでテンションが上がった。

――94年に加入したのはJリーグに昇格したばかりのジュビロ磐田でした。

藤田俊哉 ジュビロは新しいチームだったから、クラブと自分の1年目が重なるということには確かに魅力を感じていた。ただ、正直なところ、情報がほとんどなくてね(笑)。事前にトレーニングに参加するようなこともないまま、何も分からないままジュビロに入った感じだったと思う。

――プロの世界に入って感じたことは?

藤田俊哉 ジュビロは1年目だけど、他の10チームは2年目ですよね。その1年の差がこんなに大きいのかということを感じながらプレーしていた。ヤマハは伝統的に強いチームだったけど、Jリーグに入ったら全く勝てない。ということは、プロの世界で過ごしたたった1年の差がかなり大きいということでしょ? それを痛感した1年目だった。

――それがプロの世界で戦うことの効果と言いますか……。

藤田俊哉 やっぱり、結果を求められる中でプレーすることでクラブも選手も大きく成長しますよね。だから他の10チームとの間にあった1年の差を埋めるのにかなりの時間がかかった。あれだけの盛り上がりの中で試合をすれば必然的にプレッシャーもかかる。試合数も飛躍的に増える。そういう状況に対応するのが難しかったですね。

――当時のJリーグには各クラブに世界的なスター選手が在籍していましたが、ジュビロには元オランダ代表のジェラルド・ファネンブルクや現役ブラジル代表のドゥンガがいました。

藤田俊哉 やっぱり、世界のトップレベルを体感してきた人たちの感覚や言葉は重かったよ。僕自身、ものすごく勉強になった。コーチと選手の間柄じゃないから何かを教わるという感じではないんだけど、身近にいて感じることのすべてが貴重だった。あの頃の外国籍選手は本当の“助っ人”という感じで、何から何まで日本人選手にはないものを持っていたと思う。だから、もしそうじゃない助っ人を呼ぶくらいなら、日本人選手だけでやればいいと僕は思いますね。

――特に印象に残っている選手はいますか?

藤田俊哉 鹿島アントラーズのレオナルドみたいな現役のブラジル代表選手もいたわけだから、どのチームの“助っ人”もすごかったと思うよ。ジーコは選手としてのピークを過ぎていたかもしれないけど、それでもものすごい影響力を持っていたことは対戦相手である僕にも伝わってきた。ジーコ、スキラッチ、ストイコビッチ、ジョルジーニョ、レオナルド、リトバルスキー、カレカ、リネカー……名前を挙げればキリがないよね(笑)。

――生まれたばかりのリーグにあれだけのビッグネームがそろったことの意味というのは、振り返って非常に大きかったのではないかと思います。

藤田俊哉 彼らがJリーグでプレーしたことの効果というのは、何も日本人選手や日本人ファンに与える影響だけじゃないんですよ。彼らがJリーグでプレーしたことで、世界中の注目が集まる。彼らが集まったからこそ、Jリーグが世界で注目され始めたんだと思う。

――藤田さん自身は、ジュビロの外国籍選手から何を学んだのでしょうか。

藤田俊哉 試合に勝つために何をすべきか、そのすべて。ただ、もちろん細かいこともたくさん教えてもらったけど、大切なのは彼らの背中を見て学んだことというか……プロとしての姿勢、と言うのかな。

――例えば、当時の藤田さんが肌で感じたドゥンガの教えは、今のチームにも残っていると感じますか?

藤田俊哉 いや、正直、今はもう残っていないかもしれない。それをうまく伝えられなかったのは僕らの責任でもあると思います。だからこそ、ジーコの教えをうまく受け継いできた鹿島はすごい。見習うべきことは多いよ。たぶん、「絶対に変えられないこと」と「時代に応じて変えなきゃいけないこと」がはっきりしているんだと思う。僕がいくつかのクラブを渡り歩いて感じたのは、歴史を感じられないクラブは寂しいということ。そのクラブで一生懸命に仕事をした人たちのことは、決して忘れちゃいけないと僕は思いますね。監督もそうだし、選手もそう。

――Jリーグの開幕から20年間が経過して、歴史を語り継ぐことの難しさを感じているクラブも少なくないかもしれません。

藤田俊哉 仕方のないことでもあると思いますよ。やっぱり、みんな今を生きているし、それが普通のことだと思う。ただ、だからこそしっかり受け継いでいかなきゃいけないこともあるというか。

――20年の歴史の中で、チーム数はJ2も含めれば約4倍になりました。

藤田俊哉 時代とともにブームは変わるでしょ。Jリーグもそれに合わせて変化してきている。もちろん波があって苦しい時期もあったし、これからもあるかもしれない。でも、それは“サッカー人”みんなで乗り越えていけばいい。日本代表があれだけの盛り上がりを見せているんだから、それをJリーグの人気につなげる策を講じていかないと。

――プロクラブの増加はプロ選手の増加にもつながりました。

藤田俊哉 プロの世界への間口が広がったことはすごくいいこと。ただ、一方でプロ選手の数に反比例してサッカーのレベルが下がるようじゃいけない。Jリーグはすごく高いところにあって、誰もがそこに行ってみたいと思う。そういうリーグにならないといけないと思う。

――藤田さんは磐田を退団後、ロアッソ熊本とジェフユナイテッド千葉でもプレーしました。J2という舞台でプレーすることの難しさを感じませんでしたか?

藤田俊哉 いや、僕にとってはどこに行っても何も変わらないんですよ。所属クラブが変わっても、目指すサッカーの本質は変わらない。だから難しさというのは感じなかった。

――大切なのは選手個々が持つ目標と、クラブの理念。

藤田俊哉 特にクラブの理念は大事だと思いますよ。クラブとしてどういうサッカーを確立したいのか、それを確立したクラブが勝つんじゃないかと思う。1万円のペンを使うのか、それとも100円のペンを使うのかという問題はそれぞれにあるけど、描きたい絵が同じならやることも同じ。もしかしたら、道に落ちていたペンで美しい絵が描けるかもしれないでしょ? 大切なのは「何を描くか」をはっきりさせておくことだと思う。

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