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Jヴィレッジの現在~福島第一原発事故収束の最前線から作業員の中継地点へ~

2013.08.24

東日本大震災に伴って発生した福島第一原発事故。この未曾有の大事故を早期収束に向かわせたのが、日本サッカーの発展を支えたJヴィレッジだった。“フクイチ”から約20キロ。事故発生当時から大きく役割を変えたJヴィレッジの現状を追った。

取材・文=青山知雄(Jリーグサッカーキング編集長) 写真=足立雅史
Jリーグサッカーキング10月号掲載

防護服を着用した人の姿はなし、5年後の施設再開を目標に……

 福島県楢葉町と広野町にまたがり、福島第一原発から半径20キロにあるJヴィレッジは避難対象地域との境目に位置することから、日本サッカー協会が2011年3月15日以降、国及び東京電力に事故収束のための前線・中継基地としての使用を許諾。収束拠点施設として活用され、昨年1月からは東京電力の福島復興本社も置かれる。

 今年6月30日から除染施設や資材置き場などが福島第一原発周辺に移され、現在のJヴィレッジは作業員のバスへの乗り換えと使用したバスのスクリーニング、除染が主たる役割。防護服を着用した人の姿は見られない。日本代表が練習に使用したピッチが駐車場として使用されている状況は変わらないが、一時期ほどの緊張感はなくなっている。

 7月4日には日本サッカー協会がJヴィレッジで理事会を開催し、大仁邦彌会長をリーダーとする「Jヴィレッジ復興サポートプロジェクト(仮称)」の設立を決定。11面あった天然芝ピッチは大半が砂利やアスファルトに覆われているが、2面だけは天然芝として残されている。芝が伸び放題のため、整備にはかなりの時間を要し、運営資金の問題も抱えるが、5年後の施設再開を目標に掲げ、徐々に動き出している。

 東京電力の関係者は「Jヴィレッジがなかったら、これほど早く福島第一原発を落ち着かせることはできなかった」と話していた。日本代表を支えたJヴィレッジが日本の危機を救う一助になったのは事実。一日も早い原発事故の完全収束、そして緑に覆われた美しいJヴィレッジが戻ってくる日が待たれる。


西シェフが料理を出していたレストラン「アルパインローズ」は原発事故以降、自衛隊の会議などに使用され営業中止に。現在はJヴィレッジ横の二ツ沼総合公園で同店名にて営業を続けている


入口付近には2006年のドイツW杯直前合宿を行ったジーコ・ジャパンの寄せ書き色紙が展示。その色紙の周りを原発作業員への激励メッセージが囲んでいたのが印象的だった


正面玄関の自動ドアには南アフリカW杯を目指す日本代表チームの写真が。建物内には南アフリカ大会の写真ギャラリーやキャンプを実施したJクラブの寄せ書き色紙などの展示物が多く残されている


福島第一原発へ向かう作業員が乗り込むバスがJヴィレッジの正面玄関に。第一便は午前3時発。現場では防護服を着用するため、熱中症防止が不可欠。夏の昼間は作業を中断するという


大量の資材置き場となっていた屋内練習場からも荷物がなくなり、人工芝のグラウンドが再びお目見え。ハーフコートのラインが描かれている練習場に選手たちの声が戻ってくる日はいつになるのか


日本代表専属シェフの西芳照さんが腕を振るうレストラン「ハーフタイム」。ランチタイムは一般の方も利用可能。お店の入口で食券を購入するシステムを採用している


エントランスを入ると福島第一原発の作業員に宛てて全国から送られてきた激励のメッセージが数多く貼り出されていた。仙台レディースに移管された東電マリーゼのフラッグやバナーも


正面ロータリーには多くの作業員が乗り込むためのバス待合所が。奥に見える大型テントは6月までモニタリング(放射能汚染チェック)とスクリーニング(除染作業)の施設として使用されていた

[手つかずの被災地]福島浜通りの厳しい現状

 福島第一原発から20キロ圏内の警戒区域が徐々に解除され、今年3月25日には富岡町も日中限定ながら往来が可能になった。だが、福島県浜通り地区は長期間にわたる立入禁止で復興が手つかずになっている地域が多い。今回はJヴィレッジから国道6号線を北上し、富岡町までの現状を取材した。

福島第二原発周辺の海岸付近は道路のアスファルトが割れた状態。堤防付近には津波で流された家具などが散乱していた。



JR富岡駅は駅舎が流され、看板や電柱も傾いたまま。ホームには切れた電線が垂れ下がり、駅構内には流された自動車が泥まみれのまま放置されていた。


駅周辺には津波の被害を受けた建物が手つかずのまま残されており、線路には雑草が生い茂る。建物が被災直後の状態である一方で、雑草の背丈に時間の経過を感じた。


駅前商店街の美容室で壊れた時計が示していたのは地震発生時刻の14時46分。


津波被害にあった建物も、建物の中も全く整理されていない。


福島県の強豪として知られる富岡高は高台に位置していたため津波の被害こそ受けなかったが、生徒は学び舎と練習環境を失った。


さらに北上して福島第一原発へ近づくと、通行許可書が必要な立ち入り制限区域に。広野町からの道中、町に人影は一切なかった。


町中の至るところに大量に置かれている黒い袋は、除染作業で発生した土砂を入れる土のう。今後はこういった放射性廃棄物の扱い方や処理方法も課題になる。

原発事故との戦い――。福島県浜通り地区は、他の被災地とはまた違った難しさを抱える。まずは人が住める環境を整えるために。復興への道のりはまだまだ手探りの状態にある。

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