2013.08.02

ジョゼの奇妙な冒険譚…モウリーニョが歩んだ“スペシャル・ワン”への道

[ワールドサッカーキング0815号掲載]

人の言葉を伝えるだけの通訳ではなかった。ただチームを率いるだけの監督でもなかった。“スペシャルな通訳”から“スペシャル・ワン”へと進化を遂げた男は今、ロンドンの地で新たな冒険へと乗り出す。ジョゼ・モウリーニョの半生。その「奇妙な冒険談」は彼の今後の歩みを占う“指針”となるはずだ。ポルトガルが生んだ偉大な“冒険家”の針路をたどる。
ロブソン、モウリーニョ
文=アンディ・ミッテン Text by Andy MITTEN
翻訳=高山 港 Translation by Minato TAKAYAMA
写真=ゲッティ イメージズ Photo by Getty Images

 時は大航海時代――インド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマ、歴史上初の世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼラン、いわくつきの『遍歴記』を記したフェルナン・メンデス・ピントなど、ポルトガルは多くの冒険家を生み出した。

 1963年、この“冒険大国”で、一人の男が生を受ける。男の名はジョゼ・モウリーニョ。後にサッカー界という“荒波”の中で、多くの“革命”を起こす男だ。

 20代前半で選手としてのキャリアに見切りを付け、異例の通訳として絶大な存在感を放ち、名将の下で指導者としての力を磨き、母国ポルトガルのクラブを皮切りに、イングランド、イタリア、スペインと行く先々で栄冠を手にした彼は、迎える2013-14シーズン、自らの名声を確固たるものとしたロンドンの地で、新たな冒険に乗り出す。

「私はポルトガル人だ。過去のポルトガル人がそうであったように、私も冒険を心から愛している」

 チェルシー復帰の会見でそう宣言した男が、新たな航海の先に見据えるのは、更なる富か、更なる名声か、それとも更なる力か――。波乱に満ちた『ジョゼの奇妙な冒険譚』を、ここで振り返ってみる。

決してひるまない無名の“若造”

 バルセロナとアスレティック・ビルバオの間には“遺恨”がある。1983-84シーズン、“大聖堂”の呼び名で知られるサン・マメス・スタジアムで、その激しいタックルから“壊し屋”の異名を取っていたアンドニ・ゴイコエチェアが、リーガ優勝に向けてバルセロナを牽引していたディエゴ・マラドーナに危険なタックルを見舞い、彼を長期離脱へと追いやったことがその発端だ。それ以来、両チームの間には憎しみにも似た強烈なライバル意識が根づいていた。

 96-97シーズン、バルセロナの監督に就任したばかりのボビー・ロブソンは“大聖堂”でのビルバオ戦に臨んだ。ビルバオのベンチには、その前シーズン、パリ・サンジェルマンに初のヨーロッパタイトルとなるカップ・ウィナーズカップをもたらしたルイス・フェルナンデス監督の姿があった。

 当時のフェルナンデスは短気なことでも有名で、この日、ビルバオが2-1の勝利を収めたにもかかわらず、試合中に彼は“得意の癇癪”を起こし、バルセロナのベンチを終始、挑発。その挑発にロブソンが応じることはなかったが、彼の無名のアシスタントコーチは違った。何度となく、ベンチ越しにフェルナンデスと衝突を繰り返すバルセロナの若きアシスタントコーチ。ベンチ裏のサポーターは、自分のホームグラウンドで威圧的な態度を取るフェルナンデスの挑発に対し、徹底抗戦の構えを続ける無名のアシスタントコーチを驚きのまなざしで見守っていた。

 彼の名前はジョゼ・モウリーニョ。当時33歳だったモウリーニョは決して引き下がろうとはせず、更に言えば、レフェリーのジャッジにも繰り返し不満をぶつけていた。怒り狂ったフェルナンデスはついにモウリーニョの体を乱暴に押した。「若僧め、俺に逆らうつもりか?」。そんな勢いだった。

 しかし、そんな威圧的な態度に対しても、“若造”がひるむことはなかった。そう、彼は、この頃から既に「ジョゼ・モウリーニョ」だったのだ。ポルトを率いてチャンピオンズリーグ(CL)を制する前から、チェルシーで“スペシャル・ワン”と呼ばれるようになる前から、インテルにイタリアサッカー史上初のトレブルをもたらす前から、そして、レアル・マドリーで「世界のサッカーの中心」に身を置くようになるはるか前から、彼には彼特有の“不遜さ”があった。

 後に彼に大きな成功をもたらす「一つの大きなファクター」となる、この“大胆不敵さ”があったからこそ、モウリーニョはただのアシスタントコーチ、ただの通訳であるにもかかわらず、威圧的なフェルナンデスに正面から立ち向かえたのだろう。もっとも、仮に暴力を振るわれそうになったら、彼のバルサでの最大の盟友だったジョゼップ・グアルディオラが助けてくれると考えていた可能性もゼロではないが……。

通訳にふさわしくないモウリーニョ

 モウリーニョはロブソンのアシスタントコーチとして96年の夏にカタルーニャにやって来た。しかし、ヨハン・クライフの後任としてチームを率いるようになったロブソンとモウリーニョのコンビをファンは当初、懐疑的なまなざしで眺めていた。それもそのはず、バルセロナに4シーズン連続のリーガ優勝、更には92年にクラブ史上初のヨーロッパカップ優勝をもたらしたクライフを、ジョゼップ・ヌニェス会長が解任していたからだ。

 新任のロブソンはスペイン語もカタルーニャ語も理解しなかった。もっとも、それはある意味、幸運だったかもしれない。「知らずに済んで幸い」と言えることも少なくなかったからだ。一方、モウリーニョはすべてを理解していた。彼はスペイン語をマスターしていた。いや、より正しく言えば、モウリーニョがマスターしたのはスペイン語だけではない。英語、フランス語、イタリア語、スペイン語に加えて、カタルーニャ語も“理解する”に至ったのだ。

 ヌニェス会長は、モウリーニョのバルセロナ時代、常に彼を「通訳」と呼んでいた。「通訳」という言葉がモウリーニョのバルセロナでの役割を正確に言い当てていたとは思えないし、それはモウリーニョにとって軽蔑的な言葉だったかもしれないが、彼はカタルーニャのメディアの間では「通訳」として位置づけられていた。

 当然、バルセロナは望んでロブソンを新監督に招いたわけだが、無名のモウリーニョがアシスタントコーチとしてバルセロナに来ることを望んではいなかった。首脳陣は、かつてバルセロナで250試合プレーし、93年に現役を引退したホセ・ラモン・アレサンコをアシスタントコーチに指名していた。ロブソンはクラブの要請を受け入れ、アレサンコを助監督に据えたが、それまで4年間ともに仕事をしたモウリーニョへの信頼は揺るぎないものだった。モウリーニョは正式な肩書きのないまま、ロブソンの傍らで仕事を続けた。

 2人をよく知る当時のフロントの1人はこう振り返る。

「モウリーニョは通訳としてバルセロナにやって来た。だが、実際の彼はアシスタントコーチでもあった。もっとも、通訳とアシスタントコーチというものは相容れない仕事だったようだ。それは、ロブソンが記者会見を数回開いた時点で明らかになった。モウリーニョはロブソンが発した言葉をただ訳すだけでなく、密かに彼自身の意見を付け加えていたのだ。モウリーニョはロブソンを擁護していた。メディア対応に困った時、ロブソンはモウリーニョにその対応を任せることも多かった。最終的に、モウリーニョは彼自身の言葉でメディアに対応するようになっていたのさ」

 一方で、当時を知る記者の言葉を借りると事実は微妙に違っていたようだ。

「モウリーニョはオランダで行われた最初のプレシーズンマッチ終了後の監督会見で通訳を担当した。だが、その直後、彼が通訳にふさしくない人物であることが明らかになったんだ。なぜなら、彼は自分自身の強い意見を持っていたからだ」

『AS』紙の記者、サンティ・ヒメネスは当時をそう振り返っている。

「記者の何人かは英語を話すことができた。彼らには、モウリーニョがロブソンの言葉を正確に訳しているのではなく、彼が“好きな部分”だけを訳しているということが分かっていたようだ。モウリーニョは通訳を続けた。ただ、それはロッカールーム内の通訳に限られた。監督会見の通訳はしなくなった」

 更にヒメネスは続ける。「会見でのロブソンの答えは、まるでショットガンのようなものだった。一つひとつの質問に対し、彼は本能のままに答えていた。だが、モウリーニョという“フィルター”を通じて発せられる解答は、深遠で考え抜かれた上でのものだった」と。

誰もが認めた超一流のスカウトリポート

 モウリーニョは92年、スポルティング・リスボンでロブソンに出会った。ロブソンとの距離を縮めたのは、彼の高い言語能力だ。スポルティングの会長に就任したソウザ・シントラは、ポルトガル語を話せない外国人監督が快適に仕事をこなせるようにと考え、モウリーニョを雇った。当時を振り返り、ロブソンは「ジョゼは能力のある若者だった。彼はその卓越した英語力とサッカーに関する知識を買われて、私の面倒を見るよう会長に言われたのだよ」と語っている。

 ロブソンは続ける。

「ジョゼは学校の先生だった。体育の教師だったのだよ。私はジョゼと一緒に3つのクラブ(スポルティング、ポルト、バルセロナ)で働いたが、彼は私の“後方支援”だけでなく、私の面倒を本当によく見てくれた。とりわけ選手との関係を構築する点において、ジョゼは最高の資質を持っていた。選手がどんなことを言っているのか、彼は私に教えてくれた。私には選手たちの会話を理解することができなかったからね。私が彼のサポートを必要とする時、彼は常にそこにいてくれた。更に必要とあれば、私の代わりにメディアとのやり取りも担当してくれた」

 ロブソン率いるスポルティングはリーグを牽引した。だが、93年のUEFAカップ、ザルツブルグでのアウェーゲームに敗れた時、シントラ会長は帰りの機内で、選手、首脳陣、更にはファンに対して罵声を浴びせた。会長の言葉が分からないロブソンはモウリーニョに尋ねた。モウリーニョはためらいながらもロブソンに事実を伝えた。

「会長は『チームのパフォーマンスはスポルティングの面汚しだった。リスボンに着いたらすぐに監督にその旨を伝えるつもりだ』と言っています」

 会長は機内でアナウンスしたことを実行に移した。リスボンに戻った翌日、選手、スタッフ全員がそろった練習グラウンドでロブソンの解任を発表したのである。ロブソンにとってはキャリアで初の解任だった。途中解任のロブソンには年俸の残り分をもらう権利があったが、その支払いはなかったようだ。既にその時、会長の親友でもあるカルロス・ケイロスがロブソンの後継者として用意されていた。モウリーニョは、ここでまたしても、サッカー界の「はかなさ」と「汚さ」を体験することになったのだ。モウリーニョは10歳の時に、この「はかなさ」を経験していた。彼の父親は家族でクリスマスのランチを食べている時に、電話で職を解かれたことを知らされた。サッカー界では突然の解任が日常茶飯事だが、そのことを、モウリーニョはロブソンの解任で再確認させられることになったのである。

 スポルティングの監督を解任されたロブソンは、その後、94年の1月にポルトから監督就任の要請を受けることになるのだが、ロブソンはその際、モウリーニョのアドバイスを仰いだ。モウリーニョはポルトの現状を克明に説明した。そして、ロブソンのアシスタントコーチとしてポルトで働くことに合意したのである。だが、いったいなぜ、ロブソンは「1人の通訳」にこれほどまでの信頼を寄せるようになったのだろうか? 答えを明かそう。実は、スポルティング時代、ロブソンはモウリーニョに対戦相手のリサーチという役割を託していた。後にロブソンはこう語っている。

「彼はいつも最上級のリポートを提出してくれた。あれほど素晴らしいリポートは見たことがなかった。当時の彼は、まだ30代前半という若さだった。プレーヤーとしても、コーチとしてもたいした実績のない若者だ。そんな男が、私がそれまで見たことのないような超一流のスカウティングリポートを出してくれたのだよ」

 これほどスカウティングに卓越していた男の下でスカウトの仕事を務めるのは容易ではないだろう。余談だが、彼がベンフィカの監督だった頃のスカウトが、わずか9人のフィールドプレーヤーにしか触れていないリポートを提出した時、モウリーニョが怒りをあらわにしたことは想像に難くない。

ロブソンと出会った“指導者の卵”

 もともとモウリーニョは、スカウティングに関して“素人”ではなかった。彼は14歳の頃から、ヴィトリア・セトゥバルのGMだった父のためにスカウティングの手伝いをしていたのだ。

 モウリーニョの選手としてのキャリアは短かった。彼は23歳になった頃、既にプロの選手としてやっていくことへの限界を感じていたそうだ。選手として成功を収めることをあきらめた彼は、監督、コーチになるためのカリキュラムを受けるようになった。FA(イングランドサッカー協会)が実施する監督コースを受講したモウリーニョは、その過程で、元スコットランド代表監督、アンディ・ロクスバラのトレーニングメソッドに強い影響を受けたようだ。

 モウリーニョには、スポルティングで通訳として雇われる前にコーチの経験があった。ヴィトリア・セトゥバルの下部組織でコーチをしていたし、ポルトガル2部リーグのエストレーラ・ダ・アマドーラではフィットネストレーナーを務めたこともあった。92年に彼がリスボン空港で初めてロブソンに会った時点で、彼は“指導者の卵”でもあったのだ。

 長くポルトの正GKを務めていたヴィトル・バイーアは96年、「ロブソン&モウリーニョ」コンビの後を追うようにバルセロナに移籍している。バイーアはこう語る。

「俺はモウリーニョとは長い付き合いだ。彼のやり方をよく知っている。モウリーニョは選手を組織としてまとめる特別な方法を持ち合わせていた。それに、選手がどういうサッカーをしたがっているのかを、彼は驚くほど的確に把握していた」

“指導者の卵”モウリーニョは、ロブソンから多くを学び、バルセロナの新監督に就任するファン・ハールの下で更なる進化を遂げる……。続きは、ワールドサッカーキング0815号でチェック!

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