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問題児から世界最高のストライカーへ…ファン・ペルシーが下した“正しい選択”

2013.07.07

MANCHESTER, ENGLAND - MAY 13: Robin van Persie of Manchester United poses with the Premier League trophy at the start of the Premier League trophy winners parade on May 13, 2013 in Manchester, England. (Photo by Matthew Peters/Man Utd via Getty Images)

[ワールドサッカーキング0718号掲載]

アーセナルから宿敵マンチェスター・ユナイテッドへ。ロビン・ファン・ペルシーは昨夏、“禁断の移籍”を決断した。かつての問題児は、アーセナルで生まれ変わり、更に新たなクラブで、そのキャリアに唯一欠けていたピースを加えたのだ。
ファン・ペルシー
文=スコット・シールズ Text by Scott SHIELDS
翻訳=影山 祐 Translation by Yu KAGEYAMA
写真=ゲッティ イメージズ Photo by Getty Images

移籍によって達成した悲願

 目の前の現実だけを追っていると、往々にして全体が見えないものだ。その時は不条理に見える事象も、長期的な視点に立てば「正しい」と言えるケースはよくある。だが予言者でもない限り、それに気づくためには時間の流れが過ぎ去るのを待たなければならない。昨夏、多くのファンの反感を買ったロビン・ファン・ペルシーのマンチェスター・ユナイテッドへの移籍も、今から振り返れば、彼にとっては極めて「正しい」キャリアのプロセスだった。

 2004年から昨夏まで、アーセナルでファン・ペルシーを指導したアーセン・ヴェンゲル監督は、各ポジションにはそれぞれ「最も旬な年齢」があると主張する。GKなら30歳から35歳、ストライカーは24歳から30歳。ヴェンゲルはその哲学に従って、時に非情なほど冷徹に、ピークを過ぎたプレーヤーを手放してきた。マルク・オーフェルマルス、ティエリ・アンリ、パトリック・ヴィエラ、ソル・キャンべル……。だが、昨年8月に29歳になったファン・ペルシーは、明らかにプレーヤーとして充実した時期を迎えていた。ヴェンゲルとしても、彼を放出する決断は難しかったに違いない。

 ユナイテッドはファン・ペルシー獲得のために3000万ユーロ(約39億円)を費やし、プレミアリーグの得点王をチームに迎え入れた。その9カ月後、ファン・ペルシーは新天地で2年連続となる得点王のタイトルをつかみ、12年間のプロキャリアで初となるリーグタイトルを手に入れた。

 その事実は、昨シーズンだけを見れば「一人の新加入選手がユナイテッドのタイトル奪還に貢献した」ということになるのだろう。だが、より長いスパンで考えると、全く異なる意味が見えてくる。それは、かつて「未熟なトラブルメーカー」として見捨てられた青年が、世界最高のストライカーとして悲願を達成した瞬間でもあったのだ。

ストリートで育んだ自由なスタイル

 ファン・ペルシーはロッテルダムのクラリンゲン地区で生まれ育った。父のボブは芸術家で、彼がリサイクル素材を使って作った作品はエミレーツ・スタジアムの一角を飾っている。母のジョゼ・ラスも同じく芸術家だった。「母も姉も妹もクリエイティブでね。だけど僕の場合、手じゃなくて足にセンスがあったみたいだ」とファン・ペルシーは笑う。彼の芸術とは、常にその左足が生み出すキックで表現された。少年時代、最も多くの時間を過ごしたのはストリートだ。

「ストリートサッカーではテクニックがすべてだ。戦術なんてないし、人数でさえどうでもよかった。“アメリカン・グラウンドルール”と言ってね。ストリートバスケのやり方なんだけど、勝ったチームがその場所に残って、次のチームと対戦するんだ。ゲームに勝ち続ける限り、永遠にプレーできる。素晴らしい方法だよ(笑)」。最高で40試合続けてプレーしたこともあったんだ、と彼は言う。

 彼のチームがかなり強かったことは容易に想像できる。何しろ、チームメートに現在フィオレンティーナでプレーするムニル・エル・ハムダウィがいたのだ。ファン・ペルシーとエル・ハムダウィのコンビがいれば、その地域では無敵だっただろう。

 彼らのピッチには決まったルールがなかったし、ファウルもFKも、すべては彼らがその場で決めていた。組織も規律もないストリートで育んだスタイルが、ファン・ペルシーというフットボーラーの原点だった。繊細なボールスキル、アクロバチックなシュート、大胆に相手を欺くフェイント。それらをどこで覚えたのかと問われれば、彼はためらいなく「ストリート」と答えるだろう。

未熟な性格がキャリアを阻む

 細身で左利きのテクニシャンだったファン・ペルシーは、同世代の中では最も早く頭角を現した一人だった。地元のエクセルシオールのユースチームからフェイエノールトのユースを経て、02年にトップチームにデビュー。18歳にしてU-21オランダ代表にも選出された。だが、その頃から既に、キャリアで最大の障害となる問題、そう、「トラブルメーカー」としての資質も存分に発揮していた。

 夜遊びのせいでトレーニングやミーティングに遅刻する。大ベテランのピエール・ファン・ホーイドンクを差し置いてFKを蹴ってしまう。取材を受ければチーム事情を簡単に漏らし、過激なコメントでメディアを喜ばせるゴシップを提供する……。

 象徴的だったのは02年のチャンピオンズリーグ予選3回戦、アウェーのフェネルバフチェ戦だ。ベンチ入りしたファン・ペルシーの態度が悪いことに怒ったベルト・ファン・マルヴァイク監督は、試合後にUEFAスーパーカップのレアル・マドリー戦のためにモナコへと向かう遠征メンバーからファン・ペルシーを外し、ロッテルダムの自宅に送り返した。彼はそのままトップチームからセカンドチームに降格して、数カ月をそこで過ごすことになった。その後、オランダ代表で再会するまで、ファン・マルヴァイクとの関係が修復されることはなかった。

 大きな転機が訪れたのは04年4月のことだ。それはリザーブリーグの一戦で、ファン・ペルシーはフェイエノールトの一員としてアムステルダムに乗り込み、アヤックスの練習場で試合をした。当時、両チームのフーリガンが激しく対立していたため、フェイエノールトの若者たちは格好の攻撃対象となった。

 1-3で敗れた試合が終了した瞬間、アヤックスのフーリガンはピッチになだれ込み、フェイエノールトの選手を襲撃し始めた。ファン・ペルシーも暴力を受け、彼をかばったホルヘ・アクーニャは意識不明で病院に担ぎ込まれた。フーリガンの最大の標的だったファン・ペルシーは、相手チームのアシスタントコーチだったマルコ・ファン・バステンに守られながらピッチから逃げ去った。「ロッカールームに戻った時、みんな大声で泣いていた。20歳かそこらの選手がボコボコにやられたんだ。俺も含めて」

 ファン・ペルシーはこの事件で精神的に大きなダメージを受けた。そして、フェイエノールトでプレーを続けることに限界を感じたという。

人間的成熟を促した恩師ヴェンゲル

 その「事件」があった同じ試合を、全く別の視点で見ている人物がいた。アーセナルのスカウト、スティーヴ・ローリーだ。以前からファン・ペルシーの才能に注目していた彼は、この試合で確信していた。この青年は未熟で素行が悪いかもしれないが、ピッチでは誰よりも冷静で勇敢だ、と。アヤックスのフーリガンから恐ろしい罵声を浴びせられながら、彼はこの試合でチーム唯一のゴールを奪っていた。CKを蹴る時も、発煙筒とビンが投げ込まれる中で正確にボールを蹴った。ローリーはすぐさまボスであるヴェンゲルに報告し、ファン・ペルシーを正式に獲得する許可を取りつける。そして、同じくこの若者を狙っていたPSVを出し抜いて、いち早く接触した。

 ファン・ペルシーの度重なる問題行動にうんざりしていたフェイエノールトは、トップチームのレギュラーですらない厄介者を追い払える機会に飛びついた。彼らは後にプレミアリーグの得点王に輝くストライカーを、わずか275万ユーロ(約3億6000万円)で手放してしまうのだ。ただし、これは仕方のない判断でもあった。04年の段階では、ファン・ペルシーに高い値段をつけるクラブなど見つかるはずがなかった。

 彼の人間的な成長を考える上で、大きな役割を演じたのは間違いなくアーセナルであり、指揮官のヴェンゲルだ。ファン・マルヴァイクが失敗した仕事を、ヴェンゲルは見事に成功させた。

 ファン・ペルシーには今でも忘れられない試合がある。アーセナル加入1年目の04-05シーズン、アウェーで戦ったサウサンプトン戦。荒れ模様だったその試合の前半、彼はイエローカードをもらい、サウサンプトンも退場者を出していた。ハーフタイムにヴェンゲルはファン・ペルシーに注意した。相手が1人退場になって有利な状況なのだから、落ち着いて冷静にプレーしなさい、と。だが、後半が始まって10分後、ファン・ペルシーはグレアム・ル・ソーに危険なタックルを見舞い、2枚目のイエローカードを受けてピッチを去った。前半で1点をリードしていたアーセナルは同点に追いつかれ、この試合をドローで終えた。

 試合後の記者会見で、ヴェンゲルはファン・ペルシーを痛烈に批判した。アーセナルの選手を滅多に非難しない彼が、だ。ファン・ペルシーは当時を振り返って言う。「翌日のトレーニングで、ヴェンゲルは俺を怒らなかった。ただこう言ったんだ。『もし、もっと高いレベルを目指しているなら、君は変わらなければならない』とね。俺はどういう意味か聞いたけど、ヴェンゲルは『自分で考えなさい』とだけ言った。彼は賢い人だ。その時点で答えを教えたら、俺がすぐに忘れると思ったんだろうね(笑)」

ついに覚醒したストライカーの才能

 その後、数年の月日を費やして、ファン・ペルシーとヴェンゲルは厚い信頼関係を築いていく。ファン・ペルシーは人間的にも、プレーヤーとしても成熟していった。

 ヴェンゲルは現在の4-2-3-1というシステムが定着する以前、4-4-2を戦術のベースとしていた。その中で、ファン・ペルシーはアンリのパートナーを務め、そのアンリがチームを去った07年からはエマニュエル・アデバヨールとコンビを組んだ。アデバヨールがマンチェスター・シティーへと移籍した09年からは不動の1トップとしてプレー。セスク・ファブレガスがバルセロナに移籍した2011年からキャプテンも務めた。何度かケガによる長期離脱を経験したものの、ファン・ペルシーはステップを一段ずつ上るようにして、アーセナルに不可欠な大黒柱へと成長していった。

 とりわけ10-11シーズンの彼を、アーセナルファンは決して忘れないだろう。シーズン序盤、ケガで長期離脱していた彼は、復帰した時からすさまじい勢いでゴールを量産し始めた。後半戦に突入した1月1日にシーズン初ゴールを挙げると、そこから5カ月間で18ゴールを挙げ、自身のシーズン最高記録を更新したのだ。長期離脱中にフィジカルを強化した結果、ゴール前での強さと安定感は格段に増し、ストライカーとして覚醒したことを印象づけた。

 そして、翌11-12シーズンはまさに「ファン・ペルシーのシーズン」だった。1年を通じて彼の左足はゴールを奪い続け、クリスチアーノ・ロナウドが記録して以来のプレミアリーグ30ゴールに到達。堂々の得点王を獲得しただけでなく、記者協会と選手協会が選ぶシーズンMVPもダブル受賞した。名実ともに、ワールドクラスのゴールハンターとしての地位を確立したシーズンだった。

悲願のリーグタイトルを求め、宿敵への移籍を決断。続きは、ワールドサッカーキング0718号でチェック!

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