2013.05.10

【インタビュー】松本山雅・反町康治監督 松本に導かれたアウトロー指揮官の流儀

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インタビュー・文=元川悦子 写真=藤巻祐介、足立雅史

■青天の霹靂だった監督打診のオファー
 爽やかな快晴に恵まれた2013年3月3日、栃木グリーンスタジアム。3000人を超える熱狂的サポーターとともに敵地へ乗り込んだ松本山雅FCは、昨シーズン残り3試合というところでJ1プレーオフ進出への道を断ち切られた因縁の相手、栃木SCを抜群の走力で圧倒していた。

 33分、右サイドの玉林睦実のスローインから新戦力・北井佑季が中央へ折り返したボールを、ファーサイドで待ち構えていた塩沢勝吾が頭で叩き込む。長野県出身のエースFWの貴重な決勝点を守り切った山雅は、勝負の2年目を白星発進することに成功した。
 
 開幕前からのフィジカル強化で「走るサッカー」の土台を築いたのは、就任2年目の反町康治監督だ。11年にJFL4位でかろうじてJ2昇格を果たした地方のクラブに、北京オリンピック代表を率い、アルビレックス新潟と湘南ベルマーレをJ1昇格に導いた大物指揮官が赴くというのは、大きなサプライズだった。

 山雅が反町に接触したのは、11年12月末。湘南が天皇杯準々決勝で京都サンガF.C.に敗れた直後のことだった。反町は同シーズン限りで湘南の監督を退任することが決まっていた。

「善之(加藤/GM)から『相談がある』と電話をもらって、湘南が京都に負けた天皇杯翌日に会う約束をしたんだよ。俺はてっきり松本山雅のクラブ運営か何かについて話があるのかなと思ったんだけど、行ってみると隣に見たことのない人がいた。『山雅の社長の大月(弘士)です』と挨拶されて、初めて監督のオファーだと分かったよ」

 前日まで湘南を率いていた反町にとって、まさに青天の霹靂だった。

「俺としては少し充電して、海外に行ったり、ロンドン五輪を見たりしようかな、なんて考えていたからね。ビックリはしたけど、善之や社長が真摯な姿勢で向き合ってくれるのを見て、やろうかなという気になってきた」

 引き受けたのは、加藤GMや大月社長の真摯な姿勢に共鳴したから。という理由だけではないだろう。反町監督の中で、元来のあまのじゃくが騒いだ。

「松本ってさ、サッカーのサの字もなかった街だけど、スタジアムとモチベーションだけはあったんだよね。山雅ってチームがまだ何の色にも染まっていないっていうのも、面白いかなと思った。それに俺はほら、北京五輪が終わってから、『自分はアウトローだ』って決めたからさ。松本みたいなところへ行くことにアレルギーはなかった」

 新潟でゼロからサッカー文化を作り上げた経験もあり、同じ地方都市として松本での新たな仕事をイメージしやすかったのかもしれない。

「00年に新潟に行った時は、すべてがゼロからのスタートだった。02年の日韓ワールドカップ開催に向けてビッグスワンができて、ようやくお客さんが集まるようになった。だけど、松本の場合は既にアルウィンがあったし、お客さんもそこそこいるでしょ。J2に上がったばかりのチームには新鮮さや新たなモチベーションも感じられたしね。でも、他には何もない。スポーツ文化自体があんまり栄えてないし、地元から良い選手も取れない。そのバックグラウンドを考えたら簡単ではないよね。やるとしたら相当な覚悟が必要だなとは思ったよ」

 松本、ひいては長野県はサッカーの後進地域であり、優秀な人材は高校進学の時点で前橋育英高(群馬)や山梨学院高(山梨)、新潟や名古屋グランパスのユースといった他県へ出ていってしまうことがほとんどだ。そうした土壌にサッカー文化を根付かせるのは、並の仕事ではないだろう。

「大変だろうけど、そういう土地柄だからこそ、プロのクラブがあれば優秀な人材を集結させられるかもしれない。クラブの未来にはすごく興味が湧いた。新潟も10年経ってようやく酒井高徳(シュトゥットガルト)みたいな選手が出てきたでしょ。松本の場合もやり方によっては5〜6年後には生え抜きを育てられる可能性もあるんじゃないかなとね。まあ、いろいろ考えたけど、『迷ったらトライしろ』っていうのが俺のポリシーだから」

 反町監督らしい、少し皮肉交じりの言葉で、就任までの経緯を打ち明けてくれた。


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■急逝した松田直樹との縁
 12年1月、反町監督は縁もゆかりもない松本へ家族とともに移り住んだ。その時点の山雅は、半年前に起きた松田直樹の急逝というアクシデントの影を引きずっていた。実は反町監督自身も、松田とは浅からぬ縁があった。

「松田がマリノスを戦力外になった10年の冬、本人から2度3度、電話をもらって『湘南へ行きたい』と言われたんだ。湘南は若手を鍛える方向性でやってたから断らざるを得なかったけど、あそこで湘南に入っていたら、あいつの運命も変わってたかもしれない。そういう意味では、俺もあいつの死とは無関係ではないんだよ。実際、あいつのことは自分が現役だった頃からよく知ってる。中田英寿と入れ替わりで平塚の練習参加に来たからね。若い頃のマツは体格的にも技術的にも優れていたし、勘の働く選手だった。中澤佑二(横浜F・マリノス)と並ぶ日本サッカー史上最高のDFの一人だったと言っていいね。ただ、晩年になってからはDFにしては珍しく自分の好きなことしかやらなくなった。自分の中で落ちた部分をごまかしながらやってたのかもしれないよね……」

 松田が山雅というクラブに残したものの大きさは、就任してすぐに感じた。ただしそれは、すべてが美談ではないとも言う。

「松田も縁があって松本に来たんだから、もう少しプレーさせてやりたかったよね。松田を見たくてアルウィンに来て、山雅を好きになったお客さんもたくさんいるわけだからね。大物選手というのは正直言って、使う側は難しい部分があるし、実際失敗してるクラブも多いけど、松田の存在は松本というクラブが発展する上で重要だったのは間違いない。鐡戸(裕史)や玉林なんかは、今でも3番のリストバンドをつけて、ゴール後には高々とこぶしを掲げてるよ。松田直樹という人間の影響力は大きいんだよ」

 松田という選手は日本人離れしたスケールの大きさを持つ反面、破天荒なところがあった。そのアンバランスな部分がサポーターに強く愛されたが、ピッチ上ではマイナスに作用することも少なくなかった。

 11年のJFLでの警告・退場数の多さはその一例だろう。最も経験豊富であるはずの松田自身が、レフェリーの判定に納得できずに文句をつけたり、派手なアピールをしたりすれば、周りも少なからず影響される。反町監督はJFL時代の試合をビデオで見ながら、ラフプレーの多さを何とかしなければいけないと強く感じたという。

「JFL時代の松本は何も整理されていなかった。一番良くないのが10人で終わってる試合が多すぎたこと。退場するやつは試合では使えないというのが俺の信念だから。スポンサーへ挨拶回りに行った時も『今のままだと子供たちに試合を見せられない。退場者をなくしてくれ』と厳しく言われて、『やります』と約束したくらいだよ」

 JFL時代の山雅は半数の選手がアマチュア契約であり、アルバイトをしながらプレーしている者も多かった。恵まれない環境にいた分、ハングリー精神や貪欲さは人一倍あるのだが、練習に遅刻したり、酒臭い匂いをさせてグラウンドへやってきたりと、ストイックになり切れない者もいた。破天荒なスターという松田の存在は、彼らにとって危険な憧れでもあったかもしれない。

「すべてが美談ではないし、そういう形で流してはいけないんだよ。なぜならグラウンドの上で倒れたんだから。その事実を指導者として、クラブとして、もっと重く受け止めなければいけないんだ。プロフェッショナルの監督として、俺はそう思うよ」

 反町監督は現実から目を反らさず、選手たちと対話を重ねながら、プロフェッショナリズムを叩き込み、ピッチ上での最低限の約束事を徹底させるところからチーム作りを進めていった。

 だが、マイナスからのスタートを強いられた上、選手一人ひとりの見極めにも手間取り、1年目の序盤は足踏み状態が続く。4月15日の第8節対ロアッソ熊本戦から3連勝してやっと勢いが出てきたが、指揮官としてはチームを機能させるまでに時間が掛かり過ぎたという反省があるようだ。

「ブラジルでは結果が出なければ監督はすぐクビになる。だからブラジル人監督はパッとチームを作れるし、先入観を持たずに選手を使える。セレッソ大阪のレヴィー・クルピ監督なんかはその典型例だよね。南野拓実みたいにさ、若くて実績のない選手でも、良いと思ったらすぐ使う。そういう大胆な選手起用は自分にはできないんだよな。まだまだ監督として未熟だね」


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■真にサッカーが松本に根付くために
 それでも、試行錯誤の連続だった春が過ぎ、飯田真輝、飯尾和也、多々良敦斗の3バックが徐々に安定。前線の塩沢や船山貴之がゴールという結果を出し始め、6月に補強したユン・ソンヨルが中盤を落ち着かせるなど、12年の山雅は徐々に完成度を高めていく。後半戦に入ると7試合無敗を2度も演じ、上位陣を猛追した。シーズン中に移籍してきた選手たちが「松本ほど厳しい練習をしたことがない」と口々に言うほど、トレーニングで容赦なき追い込みをかけ、走力を徹底的に鍛え上げたことが、後半戦の大躍進の原動力となった。

 J1プレーオフまであと一歩というところで栃木に敗れた際には、さすがの反町監督も「自分の力のなさをまざまざと見せ付けられた」と反省しきりだったが、圧倒的な走力を養っていなければ、そこまでの追い上げもあり得なかった。最終順位は12位だったが、「現有戦力でいっぱいいっぱいのところまでやった」と指揮官が語ったとおり、限られた陣容で最大限の結果を残したのは間違いないだろう。

 12年の松本山雅のボールポゼッション率は、J2・22チーム中最下位だった。京都やジェフユナイテッド千葉のようなタレント集団に比べると、個々のスキルは明らかに低い。それでも泥臭くひたむきにボールを追い、守から攻への素早い切り替えで敵陣に迫る躍動感あふれるサッカーに、松本の人々は胸を熱くした。

「『走力』という看板を残せたのは、大きな一歩だったと思う。ウチはボールの取り合いでは負けるかもしれないけど、スペースの取り合いなら勝てる。山雅らしいスタイルで戦えたことで、Jのレベルを知らなかった選手たちも自信を付けたんじゃないかな」と反町監督も嬉しそうに言う。サッカー不毛の地での第一歩は、ある程度の成功を収めたと言っていい。

 反町体制1年目の躍進によって、山雅人気は更にヒートアップした。13年の新体制発表会には1500人ものサポーターが集結し、会場は凄まじい熱気に包まれた。今シーズンの山雅は戦力の半数を入れ替え、J2での実績がある岩沼俊介や川鍋良祐、韓国人のパク・カンイルらを補強。選手層も確実に厚くなっている。J1昇格への期待は高まる一方だが、厳しい現実を知る指揮官は全く楽観視していない。

「今年はJ1でもトップクラスの資金力を持つガンバ大阪もヴィッセル神戸も落ちてきたし、昨年上がれなかった京都も千葉もいる。言うなればそれだけの『格差社会』なんだから、簡単に上へ行けると思ったら大間違いだね。山雅はまだまだそんなレベルには達してないよ。V・ファーレン長崎がJFLから上がってきたから、1年先だった俺たちは21番目からのスタート。そのことを忘れちゃいけない。正直、俺はこの3年が勝負だと思ってる。あれだけ超満員のお客さんが来てくれた新潟だって、今は1試合2〜3万人が普通でしょ。アルビレックスが日常になり、新鮮味がなくなったのかもしれない。松本の場合はまだサッカーが非日常だから、お客さんが増えてる今のうちに手を打たないと。『J2トップクラスの観客動員を記録してるからそれでいい』なんて油断していたら大間違いだと思うよ」

 口を突いて出るのは苦言ばかりだ。しかしそれは、松本と、山雅の未来を思うからこそだ。

「今年はJ2に上がって2年目だし、サッカーのクオリティーも、環境面も、全てをレベルアップさせる必要がある。急激な変化の中で、周りが騒いで初めて『あれもこれもやらないといけない』という雰囲気になっている。練習場や寮の問題にしてもそう。やっとメドが立った段階で、実際に使えるようになるのはまだ先の話だしね。更にプロらしいクラブになっていくためには、クラブを支える人材も、専門性の高いスタッフももっと揃えていかないといけない。新しい選手は、長野県出身者を優先的にチェックしてるよ。地元の選手が11人並べばバルサみたいになれるじゃん。そういう方向にしていかないとね」


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■山雅で心底楽しむ指揮官の心意気
 反町監督はないない尽くしの環境にもめげず、やれることは片っ端からこなしている。大雪が降れば真っ先にグラウンドへ駆けつけて雪かきをするし、コーンやマーカーの準備や片付けも率先して行っている。練習着を自宅に持ち帰り、洗濯もしているというから驚きだ。

「昨年まではユニフォームも選手個人が管理することになっていたんだけど、ホームゲームに忘れてきたやつがいた。その時はマネージャーに取りに行かせて何とか間に合ったけど、さすがにまずいと思って今年からはチームで管理することにしたよ。しょうがねぇじゃん。本当は俺だってやりたかねえよ」

 そう苦笑いをする顔は、まるで子を見る親のようでもある。

「ピッチ上のことも、ここでは全部チャレンジしようと思ってる。トレーニングも、システム変更も、選手起用も含めていろいろだね。監督も歳を取ると、同じ練習をする傾向が強いみたいだけど、俺は選手やチームの状態を見ながら臨機応変に変えてるつもり。今のチームの半分は去年からいる選手だから、俺がどんなことをやるかだいたい予想してる。そこで意表を突くように内容を変えれば、彼らも新鮮でしょ。(イビチャ)オシム流を消化できるほどのキャパシティはまだないから、ベースを大きく変えずにアレンジしてる程度だけど、みんな一生懸命ついてきてる。昨年からの選手たちはかなりスムーズにこなせるようになってきたかな」

 環境の不備を嘆いたり、言い訳にする指揮官が多い中、反町監督はむしろ現状を楽しんでいる。何もないなら自分がゼロから作り上げていくしかない。そう考えるのが、「アウトロー」を自称する男の心意気なのだろう。

「久しぶりに知り合いに会うと『ソリさんは松本に行ってから、これまでにないほど楽しそうにやってる』と口々に言われるんだ。ふざけんじゃねぇよ、大変なんだよって思うけど、まあ、確かにそうかもしれないな(笑)。指導者が楽しまないと、選手たちも楽しくないだろ。だからといって、自分の色に選手たちを染めようなんて考えてないよ。個人個人の良さを出しつつ、ひたむきにやらせて、山雅らしさを追求しているつもりだよ」

 サッカー不毛の地のクラブ発展にこれだけ心血を注げば、地元での反町監督の支持が高まるのも当然だろう。長期政権を担う話が出てもおかしくない。しかし、反町監督自身は「サッカークラブの監督は3年が1つのサイクル。それ以上やると自分もチームもフレッシュじゃなくなる」と以前語っていたことがある。

「マンチェスター・ユナイテッドの(アレックス)ファーガソンみたいに永久監督なんてとんでもないよ(苦笑)。ただ、いつか自分がいなくなったとしても、ここまで作ってきた土台を生かしてもらえたら嬉しい。そうなるように頑張るよ」

 長期政権を即座に否定したのも、アウトローを貫く男の照れ隠しか。そう思えるほど、山雅について話す反町監督は、本当に楽しそうだった。

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