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流経大の歴史を変えた阿部吉朗…恩師の中野監督が語る思い出「阿部の成功がなかったら、監督を辞めていた」

2015.10.30

TOKYO, JAPAN - MAY 16: (EDITORIAL USE ONLY) Yoshiro Abe of FC Tokyo and Cezar Sampaio of Sanfrecce Hiroshima compete for the ball during the J.League Division 1 first stage match between FC Tokyo and Sanfrecce Hiroshima at Ajinomoto Stadium on May 16, 2004 in Tokyo, Japan. (Photo by Etsuo Hara/Getty Images)

文=平柳麻衣 写真=Getty Images

阿部吉朗なくして流経大は語れないんです」。流通経済大学を率いる中野雄二監督に、印象に残っている選手をたずねた時の答えだった。

 1998年に流経大の指揮官に就任し、これまでに関東大学リーグ、総理大臣杯、全日本大学サッカー選手権(インカレ)という大学3大タイトルをすべて獲得した中野監督。卒業生には武藤雄樹や宇賀神友弥(ともに浦和レッズ)、林彰洋(サガン鳥栖)、山村和也(鹿島アントラーズ)といったそうそうたる顔ぶれが並び、大学サッカー界において、約60人と最も多くプロサッカー選手を育てた監督でもある。

 阿部吉朗(現松本山雅FC)が流経大に入学したのは、監督が就任2年目の1999年だった。「彼がいた頃のサッカー部は、やんちゃな子が多かったんです。ルールを守らない、髪は茶髪、部員の半分以上はタバコを吸っている、乗っている車は改造車。そんなサッカー部でした」

 しかし、そんな環境でも阿部はひたむきに上を目指した。「今の流経大の設備や環境だったらプロへ進むのも普通のことだと思うんですけど、当時は弱かったし、土のグラウンドで寮もなく、コーチも今ほどいなかった。それでも横道に逸れることなく本当にがんばってくれて、輝いていたんです」

 阿部が在学していた4年間で、流経大は茨城県大学リーグから関東大学リーグ2部へ昇格を果たし、関東大学サッカー選手権大会や関東大学サッカー新人大会では準優勝と、一歩一歩着実に歩みを進めた。また、阿部個人としては4年時のリーグ戦や、関東大学選抜として出場したデンソーチャレンジカップサッカー大会で得点王を獲得。全日本大学選抜にも選出され、デンソーカップサッカー(日韓大学選抜戦)でMVPを受賞するなど、華々しい成績を収めた。

 それらの活躍が評価され、阿部はリーグ戦終了後、FC東京に加入した。「阿部の1つ下に塩田(仁史)、その下に栗澤(僚一)がいて、3人ともFC東京に行きました。近年は多い時で1学年10人前後の選手がプロへ行きますが、その頃はせいぜい1人か2人。阿部の成功がなかったら何も始まらなかったし、僕は途中で辞めていたと思います」

 阿部は35歳になる今シーズンの開幕前、現役引退を考えていたという。「流経大の寮の前にある物件を借りて定食屋をやろうとして、最終段階まで話が進んでいたんです。自分で『指導者は向いていない』と言っていたので、もしかしたら選手たちの栄養管理で僕らをサポートしたいと思ってくれたのかもしれません」。しかし、中野監督は賛同しなかった。「阿部が引退したらどう迎え入れようかは考えているんです。だけど、僕の中では阿部がいてくれたことが本当に大きい。1年でもいいから長く現場でがんばってほしくて、直接話をしたんです」。結局、定食屋の話は流れ、湘南ベルマーレ時代の恩師、反町康治監督が率いる松本からオファーをもらったことで、阿部は現役続行を決意した。

 荒んだ時代に道筋を照らしてくれた希望の光。中野監督は「卒業した選手たちはみんな好きなんですけど、阿部たちの時代と比べると温度差はありますよね。本当に忘れられないです」と当時を懐かしむように語った。


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