ドルトムントと1860ミュンヘンで活躍したコニーツカ氏はブンデスリーガ通算100試合出場72得点の記録を持つ
彼がその名を歴史に刻むまで、1分とかからなかった。1963年8月24日、産声を上げたばかりのブンデスリーガ、その開幕節ブレーメン戦で、ドルトムントに所属していたティモ・コニーツカ氏はキックオフからわずか58秒後、記念すべき同リーグ創設1ゴール目を決めたのだった。
ゲルト・ミュラーに肩を並べる存在
ドルトムントの伝説的プレーヤー、ローター・エメリッヒ氏が左から入れたセンタリングを、コニーツカ氏がゴールに結びつけたそのシーンの映像は、残念ながら存在していない。なぜなら当時、TVカメラはスタジアムに設置されておらず、同氏の回顧によれば「カメラマンはみんな我々のゴール裏にいたんです。みんな、ブレーメンが最初に得点を決めると予想していた」ためだ。
その後、1860ミュンヘンでもプレーしたコニーツカ氏は、ブンデスリーガ通算100試合で72ゴールをマーク。かつて「私はPKもFKも蹴っていませんでした。私よりも得点率が高かったのはゲルト・ミュラーだけですよ」と自画自賛していたように、彼はブンデスリーガ創成期におけるベストストライカーの1人だった。
「本当に夢のよう」
1958年、20歳の時にVfBリューネンからドルトムントに引き抜かれた当時のことを、コニーツカ氏はこう話している。
「それまで鉱山で働いていた私がドルトムントに見つけてもらえて、本当に夢のようでした。しかも何もお金を払わず、他の国に旅行できたんですよ」
ブンデスリーガ創設前、ドルトムントで公式戦110試合に出場した同氏は、すでに79ゴールを決めており、当時FWとしてコンビを組んでいたのはユルゲン・シュッツ。彼らはオーバーリーガ西地区で、最も危険な男たちだった。
6カ月の出場停止
ブンデスリーガが始まる前年の1962/63シーズン、コニーツカ氏はドルトムントを全国優勝に導き、その後移籍した1860ミュンヘンでもブンデスリーガ創設3年目の1965/66シーズン、同クラブ史上唯一のブンデスリーガ優勝をもたらしている。
しかし、栄光はそう長く続かなかった。1966年10月8日、古巣ドルトムントとの試合で同氏は、主審に暴行を加えたとされている。マックス・シュピンラー主審が記した当時のマッチレポートによれば、同主審はコニーツカ氏から「胸を押され、すねをけられ、ホイッスルを奪われ投げ捨てられた」という。これによりコニーツカ氏は6カ月の出場停止処分となり、1967/68シーズンにはドイツを離れ、隣国スイスのFCウィンタートゥーアへ移籍した。
指導者として
ウィンタートゥーアで4シーズンを過ごし、FCチューリッヒ(スイス)に移籍してからの2年間は選手兼監督を務めたコニーツカ氏。1973/74シーズンから監督業1本にしぼり、いきなりスイスリーグ3連覇を果たしただけでなく、1977年には欧州チャンピオンズリーグ(CL)の前身であるチャンピオンズカップで、FCチューリッヒをベスト4に導いた。
その後、ヤングボーイズ(スイス)、グラスホッパース(スイス)などを指揮し、ドイツへ戻ってからはカッセル、ユルディンゲン、ドルトムントなどで指導者を務めている。
1991年を最後に長く現場を離れていた同氏は、2012年初めに末期の胆のうがんを患っていることが発覚。それからわずか数カ月、同年3月12日、73歳でその生涯に幕を下ろした。
ティモ・コニーツカ
生年月日:1938年8月2日
ブンデスリーガ出場:100試合
ブンデスリーガでの得点:72ゴール
リーグ優勝(※ブンデスリーガ創設前も含む):1962/63シーズン(ドルトムント)、1965/66シーズン(1860ミュンヘン)
ドイツサッカー連盟カップ優勝:1964/65シーズン(ドルトムント)
ブンデスリーガでの成績
1963/64シーズン:25試合20得点(ドルトムント)
1964/65シーズン:28試合22得点(ドルトムント)
1965/66シーズン:33試合26得点(1860ミュンヘン)
1966/67シーズン:14試合4得点(1860ミュンヘン)