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“香港人”の中村祐人が経験を語る「結果が出ないとクビを切られるビジネスライクな世界」

2020.11.26

香港のリーマンに所属する中村 [写真]=Getty Images

 1987年に千葉で生まれた中村祐人は、柏レイソルや浦和レッズのユース、青山学院大を経て、2009年に香港へ渡った。以来、一度はヨーロッパを経験したものの、2018年に中国国籍を取得し、香港でプレーし続けている。

 ビジネスが最優先される街で、プロサッカー選手としてのキャリアを築く“元日本人”は、どんなことを感じているのだろうか。

取材・文=井川洋一


Profile|中村祐人(なかむら・ゆうと)
2009年に天水園ペガサスでプロデビュー。2009-10シーズンにポルティモネンセへ移籍するも、1年で香港へ戻る。2018年には中国国籍を取得し、香港代表としてA代表デビューを果たした。現在はリーマン(理文)でプレーしている。父親は元浦和レッズGMで、現在は青山学院大学体育会サッカー部の総監督を務める中村修三。

人間のパワーを感じた

――まずは激動の昨シーズンを振り返ってもらえますか(2019-20シーズンの香港プレミアリーグは昨年8月に開幕し、中断期間を経て今年10月に終了)?
中村 香港全体で言うと、サッカーよりもデモがすごかったですね。昨年の7月くらいから始まり、その影響でリーグ戦やカップ戦がどうなるんだろうなと、オフのときから思っていました。実際に、シーズンが始まると状況は悪化していき、9月くらいからいよいよ試合ができなくなってしまいました。地下鉄などの公共交通機関が封鎖され、練習にも行けなくなったりして、サッカーに集中するのが難しい状況でした。その後、デモが落ち着いていろいろと工夫しながら試合をやるようになったのですが、今度は新型コロナウイルスが発生し、また雲行きが怪しくなりました。最初はナショナルトレーニングセンターで無観客のなか集中開催していたのですが、政府がスタジアムを含む公共施設を封鎖すると、そこから9月までリーグ戦が中断されました。その間、再開するリーグ戦に参戦しないチームが4チームも出てきたり、クラブとの契約が切れてしまう選手がたくさんいたり……。再開したリーグも、同じシーズンなのに中断前とは全く違うメンバーや形でやることになりました。普段ではあり得ない、エキセントリックなシーズンでしたね。

――デモとコロナという障害を実際に経験してみて、どんなことを感じましたか?
中村 コロナは世界中の人が経験して、それぞれに戦っていることなので同じかと思いますが、デモは……。政治的なことは僕にはコメントできないですけど、やはり、いち香港人として強く感じるものがありました。若い人たちを中心に、声を上げて自分たちの思いを主張するというのは日本では見たことがなかったし、意識さえしたことがありませんでしたから。実際に、チームメイトの中にもデモに参加している選手がたくさんいました。自分の家の近く(の大学)でバンバンやりあっていましたし、警察が市民に暴力を振るう現場もすぐ近くで見ました。あのデモの風景を目の当たりにしたのは、自分の人生観が変わるくらい衝撃的なことでしたね。悲しさもありました。ただ、人間のパワーをすごく感じました。

──中村選手は香港代表になるために中国国籍を取ったわけですが、ご自身のアイデンティティについてはどう捉えていますか?
中村 当然、感覚や考え方はこれまでと何も変わっていなくて、純粋に日本人です。でも気持ちは香港人。国籍は中国ですけど、僕は自分のことを香港人だと思っています。ルールとしては中国人だけど、僕は香港が大好きで、香港のサッカーに貢献したくて帰化したので、心情的には香港人です。

──香港リーグにおける現在の強豪クラブは?
中村 キッチー(傑志)とイースタン(東方)。R&F(広州富力)という中国本土のクラブが香港でもチームを作って参戦していて、そこも強かったんですけど、最近、撤退してしまって。なので、今はその2つですね。予算の規模も抜きん出ている強豪です。なによりもまず、帰化している選手を含め、外国人選手が非常に多い。試合では8、9人が外国人だったりするくらいで。加えて、香港人選手も代表クラスがそろっているので、クオリティは高いです。

中村が2018-19シーズンにプレーしたキッチーは過去に10度、1部リーグを制覇 [写真]=Getty Images

ヨーロッパのサッカーはシンプルだった

──中村選手は、2009-10シーズンの1年間、ポルティモネンセでプレーしました。その前の半年間は香港の天水園ペガサスでプレーしていましたが、移籍したきっかけは何だったのですか?
中村 今、ポルティモネンセの会長を務めている方(当時は代理人)から話をいただいたんです。ちょうどペガサスとの契約が終わったところだったので、ポルトガルに行けるなら、ぜひ行きたいと。当時は2部だったんですけど、ヨーロッパでやってみたかったので飛びつきました。

──ポルティマオの街や暮らしはどうでしたか?
中村 すごく素朴な街で、本当に優しい人ばかりでした。リゾート地なので夏になると多くの人でにぎわうんですけど、冬には人がいなくなります。

──そうですよね。僕も一度、冬に行ったことがあるので分かります。でも親切な人の多い、いいところでした。そこで1年間やってみて、いかがでしたか?
中村 よくしてくれる人がたくさんいて、人生としてはいい経験になったと思います。ただ、競技面では戸惑うことが多かったです。「これって同じサッカーなのかな?」と面食らってしまって。

──というと?
中村 僕がそれまでにやってきたサッカーとは、全く違うものだったんです。根本的な概念が違うというか。ある意味、格闘技に感じるときがあったり、ものすごく速い選手がいたり、パスの美学がなかったり。

──フィジカルで勝負するばかり?
中村 当時は2部だったし、ピッチも良くなかったのでそうなりますよね。ヨーロッパの芝生はもともと緩いんですけど。だから、すごくシンプルでした。ウイングはボールを持ったら必ず仕掛け、サイドバックはオーバーラップしてクロスを入れ、中盤はとにかくセカンドボールを拾う、みたいに。加えて、重視されるのはなによりもフィジカルです。そのなかで自分の価値を証明していかなければいけなかったので、ものすごく難しくて。僕のいたシーズンに昇格して、契約延長の話ももらったんですけど、試合には数えるくらいしか出られていなかったので断りました。とにかく試合に出たかったので、そこで見切りをつけて、香港に戻ってきたんです。

──ポルトガルで挑戦を始めたときは、その先のことも思い描いていたかと想像しますが、もう一度ヨーロッパでやってみたいとは考えませんでしたか?
中村 正直に言って、そのときに(ヨーロッパでまたやってみたいと)は思わなかったですね。というのも、シーズン途中で(精神的に)しんどくなってしまって。試合に出られなかったことと、日本語で話す機会が全くなかったことが原因でした。今みたいにSNSが発達していなかったし、時差もあって日本の人とも連絡が取りにくくて。本当にきつくて、カレンダーばかり見ていましたね。

──ヨーロッパでプレーするということは、言葉にするのは簡単ですが、実際は想像を絶するものがあるのかもしれません。サッカー選手だって、いろんな悩みを抱えた一人の人間ですよね。
中村 本当にそうです。だから、ヨーロッパでずっと活躍し続けている選手は、ものすごく尊敬します。ピッチ内外でいろんなことが試されますからね。あっちの選手は自己主張が強いし、かなり削ってきたりもします。そんな戦場で長くプレーしている選手は、本当にすごいなと。ただ、行ってみないと分からないことはたくさんあったし、いろんなことを感じられたので、人生としては行ってよかったです。

──アウェイの遠征など、大変だったのでは?
中村 本当に! 裕福ではないクラブだったので、遠征はすべてバスでした。試合前日に9時間のバス移動とかが当たり前で。特に北部に遠征するときは、本当に大変でした。試合が終わったらそのまま(南部の)ポルティモネンセまで帰り、到着は朝の8時とか。バスなので、いろんな風景が見られたのは良かったですけど(笑)。振り返ってみると、あそこでやりきる精神力というか、人間力というか、そういったものが足りなかったのかなと思います。今ならできると思いますけど、ちょっともう遅いかな(笑)。そういえば昨年、ポルティモネンセのU-23チームが香港の7人制の大会に参加して、そのときに久しぶりに昔の仲間にも会いました。

──そこから香港に戻ってきたときは、やっぱり安心しましたか?
中村 めっちゃしました(笑)。一度は結果を出していたし、知っている人も多かったので。海外だけど、自分が土台を築いた場所だったので、ホームに戻ったような気分でした。

──とはいえ、香港はなによりもビジネスが最優先される街です。そこでプロサッカー選手であり続ける原動力は何でしょう?
中村 ポルトガルでの経験が大きかったと思います。ポルトガルも選手の出入りは激しいですけど、香港はもっとシビアです。ポルトガルでの出入りは主に移籍ですけど、こっちはクビが飛びます。僕も一度、そうなっていますし。結果が出ないと、すぐに契約が切られるビジネスライクな世界なんです。だからその意味でも、ポルトガルで鍛えられたのは良かった。

──その意味では、攻撃的MFの中村選手も厳しい目で見られていた?
中村 僕の場合は、幸運な出会いもあって。契約が切られたあとに加入したシチズン(公民)で、当時指揮を執っていた香港人監督が僕の良さを分かってくれて、比較的自由にやらせてくれたんです。そのなかで徐々に自信をつけていきました。

リーマンへは今夏に移籍。今年5月まではタイポー(大埔)でプレーした [写真]=Getty Images

引退は全く考えていない

──帰化した動機を改めて聞かせてください。
中村 最初は当時一緒にプレーしていた元日本代表の岡野(雅行)さんが、「そんなに香港が好きなら、7年いて(永住権を取って)、香港代表になればいいじゃん」と言ってくれて。そのときは「それもおもしろいかな」ぐらいに思っていたんですけど、ポルトガルから香港に戻ってきたときに、それを目標にするのもいいかなと考え始めたんです。何か目標がないと、長くサッカーを続けられないかなとも思っていたので。そうしたら、住んでいるうちに香港が大好きになってきて、香港のために何かをしたいと考えるようになり、国籍を変更する決断に至りました。日頃から活躍していないと代表にはなれないので、それを発奮材料にしています。

──来年の1月には34歳になります。いつまで現役を続けますか?
中村 契約してくれるクラブがある限り、やり続けますよ。今のところは、そう思っています。やれるうちは一生懸命やるだけです。引退は全く考えていませんね。

──香港サッカー界に貢献するという意味では、選手以外にもできることはありそうです。
中村 以前はサッカースクールもやっていたんですけど、いったん選手に集中しようと思ってやめました。でも将来的には、また再開したい。プロのチームも指揮してみたいです。現役引退後に一番やりたいのは指導者ですね。

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