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【アジア最前線:中国】著名監督を次々と招聘…深圳FCってどんなクラブ?

2020.09.04

[写真]=Getty Images

投資先は“選手”ではなく“監督”へ

 中国の南の玄関口、深圳市シンセンシ――。香港に隣接するかつての小さな漁村は、この20年弱で中国を代表するIT都市に変貌し、「アジアのシリコンバレー」と呼ばれるようになった。当地におけるこの劇的な成長速度は、フットボールクラブにも当てはまる。

 深圳FCが創立されたのは1994年のこと。当初はメンバーたちが運営する小規模なもので、中国3部リーグからスタートした。そこから2年連続で昇格を果たし、1部リーグを戦った1996年にはオーナーを迎えて名称も変わった(以降はオーナーが頻繁に変わり、その度にクラブ名が変化している)。

 その後、1度は2部に降格し、1部でも数年は苦戦の日々が続いたが、2000年にチュー・クァンク監督が就任すると、1部でも上位をにぎわすようになった。2005年は財政面の悪化と選手のフロントに対する不信感などにより、国内では苦しんだものの、AFCチャンピオンズリーグではデビューシーズンにしてグループリーグを突破し、4強入りを果たした。

2004年のスーパーリーグ元年には、クラブ史上初の1部リーグ優勝を遂げている [写真]=Getty Images

 そこからは2ケタ順位が続き、2011年には低迷を打破すべく、フィリップ・トルシエを新監督として招聘。深圳FC(当時は深圳紅鑽)は、スーパーリーグの多くのライバルたちと異なり、高額な選手を迎えるのではなく、監督により多くの投資をしてチームの強化を目指した。

 実績のあるトルシエは、なじみのある隣国から巻誠一郎や楽山孝志らを獲得して自身の戦術をいち早く浸透させると、若手を中心としたチームを編成し、自発的なフットボールに取り組んだ。

 ところが、若手たちはプレッシャーに屈し、そこにクラブの財政面のひっ迫が重なって1年目に2部へ降格。その後の2シーズンは2部でも不甲斐ない成績に終わり、このフランス人指揮官との契約は更新されなかった。

 以降、クラレンス・セードルフやスヴェン・ゴラン・エリクソンといった著名監督のもとでも昇格は果たせなかったが、2018年に就任したフアン・ラモン・ロペス・カロ監督がチームを2位に引き上げて8年ぶりの1部リーグ昇格を成し遂げた。アジアでの指導経験を豊富に持つこのスペイン人指揮官は、前年に大連一方を2部から1部に昇格させており、中国での昇格請負人の一人と言える。

 しかし、1部での翌2019シーズンには12試合にわたって白星から見放され、7月に解任されている。後任のロベルト・ドナドーニ監督のもとでもチームは1勝しかできず降格の危機に瀕したものの、天津天海の解体によってなんとか残留を果たした。

2年以上指揮を執った監督はたった2人

8月14日に深圳FCの新監督に就任したジョルディ・クライフ。父親は故ヨハン・クライフ [写真]=Getty Images

 今シーズンは開幕戦こそ白星を挙げたが、その後に3連敗を喫すると、ドナドーニ監督を更迭。後任にはジョルディ・クライフを任命した。このオランダ人指揮官は昨シーズン、重慶当代を率いて10位でフィニッシュし、まずまずの評価を受けている。

 彼の低姿勢な物腰も、今回の招聘につながったファクターだろう。原稿執筆時点では大連で集中開催されているグループAで7試合を消化し、2勝1分け4敗で8チーム中5位につけている。

 劇的な成長を遂げた深圳市は、中国で「最も人工的な街」と呼ばれている。これは歴史やアイデンティティの欠如を示す、ネガティブな意味合いで用いられることが多い。そんな急速な変貌を遂げた街では、フットボールクラブも同じ速さでの成功を望まれている。もとより、中国の投資家たちは高額な著名選手や指導者を外国から連れてくれば、それだけでうまくいくと考えている人が多いが、この街ではそれが顕著だ。クラブのたった27年の歴史で、解任された監督の数は30に上り、2年以上その座を守ったのは2人しかいない(チューとトルシエ)。

 前述したように、オーナーとクラブ名も頻繁に変わっている。筋金入りのサポーターでも、すべての名称を正確に記憶している者はほとんどいないのではないか。移り気な文化はこの街のクラブの宿命かもしれないが、安定した運営体制を整えることが、二度目の成功への近道と言えそうだ。

文=Ming Zhao(趙明)
翻訳=井川洋一

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