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【アジアサッカーの今】オーストラリア/豪州サッカー文化醸成の地 メルボルンの台頭

2017.02.10

オーストラリア第二の都市メルボルン。美術館や博物館、劇場が立ち並び、文化と自然を悠々自適に満喫できる町として、イギリスの経済紙『エコノミスト』調査による「世界一住みやすい街」に5年連続で選ばれている。そのメルボルンが現在、オーストラリアのサッカー文化醸成の地としても存在感を高めている。

文=西条正樹(アジアサッカー研究所)、谷健太郎(Football Business Laboratory)
Text by Masaki NISHIJO(Institute for Future Asian Football), Kentaro TANI(Football Business Laboratory)
写真=ゲッティ イメージズ Photo by Getty Images

[Jリーグサッカーキング2月号増刊「進化を遂げるタイサッカー」]

レジェンドの故国凱旋


 オーストラリアのサッカーファンは、2016年11月末に行われたFFAカップ(日本の天皇杯に相当する大会)決勝の衝撃をいまだに忘れていない。14年に新設されたばかりのメルボルン・シティが、リーグ開幕時からの老舗クラブであり、今シーズンも絶好調だったシドニーFCを1-0で下したのだから当然だ。そして各メディアをにぎわせているのが、プロ選手としてようやく母国に戻り、この試合の決勝点をたたき出したオーストラリアのレジェンド、ティム・ケーヒルである。この試合は、今後のオーストラリアサッカー界の潮流を示す一戦だった。

 アイルランド系イギリス人とサモア人の血を引くケーヒルは18歳の時に本国を離れ、その後の約18年間全てをイングランドやアメリカ、中国など国外で過ごしてきた。そして16年8月、自身のキャリアで初めて祖国のプロリーグでプレーすることを選んだ。

 ケーヒル待望論はこれまでに何度も起こっていた。直近では16年2月、当時所属していた上海申花で公式戦34試合12得点5アシストという結果を残していたにもかかわらず、外国人枠を空けるための措置として構想外になった時である。しかし、この時ケーヒルが選んだ移籍先は、同じ中国超級リーグの抗州緑城だった。シドニーFCなどのAリーグクラブがこれまでに何度も接触しながら、高額な年俸を提示され移籍がかなわなかった事実を目の当たりにしてきた祖国のファンは、「どうせ今回も金のある中国を選んだんだろう」と冷ややかな視線を送っていた。しかしその5カ月後、突如「ケーヒル、Aリーグ移籍」の報道を耳にすることになる。

 所属先はメルボルン・C。14年にプレミアリーグのビッグクラブ、マンチェスター・シティを運営するシティ・フットボール・グループ(以下CFG)の傘下となり、豊富な資金力で一気にメガクラブへと変貌を遂げた新興勢力だ。年俸はAリーグ最高の400万オーストラリアドル(約3億3900万円)。当然、CFGの資金力なしでは実現していない。メルボルン・Cの前身であるメルボルン・ハートはこれまで人気、実績ともにライバルであるメルボルン・ビクトリーの後塵を拝してきたが、CFG傘下に入って以来、スペイン代表FWダビド・ビジャや元アイルランド代表MFダミアン・ダフといったビッグネームを獲得するなど、積極補強で大幅な戦力アップを遂げている。

メルボルンにはシティ(右)とビクトリー(右)というリーグを代表するクラブが共存する


市場としての可能性


 これだけの資金を投資してまでCFGが求めたものは一体何か。約400万人の人口を抱えるメルボルンは、オーストラリア最大の都市であるシドニーと人口統計データが類似している。シドニーにはシドニーFC、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ(WSW)とAリーグ所属クラブが2つ存在し、成功を収めていた。特にWSWのように若いクラブ(2012年創設)でも、結果が伴えばマーケティング上で大きな成功を収められるという前例がある。さらにCFGは、州別のサッカー試合観戦の割合において、シドニーを州都とするニューサウスウェールズ州を、メルボルンを州都とするビクトリア州が圧倒的に凌駕していることに目を付けた。また、同都市にはメルボルン・ストームというラグビーチームがあり、買収の際に共同出資したことも大きな後ろ盾となった。「CFGと共同でメルボルン・Cに投資することは、世界有数のスポーツ都市であるメルボルンにさらに大きな力を与え、またAAMIパーク(筆者注:メルボルン・Cとメルボルン・Sの共同スタジアム)にさまざまな新しい可能性を提供するチャンスがある」とは、メルボルン・Sのチェアマン、バート・キャンベルの発言だ。また、マンチェスター・Cの公式サイトでは、今後、同クラブのメソッドに基づいたユース育成システムやトレーニング施設の構築計画があることが発表されている。CFGはこれまでにニューヨーク・シティFCを設立し、横浜F・マリノスと業務提携するなど、世界各地にグローバルブランドを広げている。アジア地域への参入を試みる欧州各国クラブのロールモデルとなる可能性が大いにある。

ギリシャ移民ながらオーストラリアサッカー界で実績を重ね、同国代表監督の座にまで上り詰めたポステコグルー監督


救世主が育った町


 スポーツを中心に急速な現代化が進んでいるメルボルンは、世界各国からの移民たちによって築き上げられ、エスニック文化を持つ歴史都市としての顔も併せ持っている。1950年代から始まった移民政策の影響によってイタリアやギリシャ、マルタ、クロアチア、トルコからの移民が大量に流入し、今日では実に人口の半分近くがオーストラリア国外の生まれか国外で生まれた親を持つ2世で、230以上の言語や方言が使用されているという。

 そんな多様性の中で育ち、「オーストラリアサッカー界の救世主」と呼ばれている人物がいる。 現オーストラリア代表監督のアンジェ・ポステコグルーである。

 ポステコグルーは5歳の時に家族と共に母国ギリシャを離れ、メルボルンにやって来た。当時のギリシャは戦後の影響もあり、政治の不安定さから内戦が頻発していた。父親がビジネスに失敗し、行き場を失ったポステコグルー一家は母国を捨て、異国の地で生きていくことを決心したのだ。しかし、当時のオーストラリアは白豪主義の影響が強く、アングロサクソン系以外の人種はマイノリティー扱いをされ、肩身の狭い思いをしていた。彼のようなギリシャ移民の子は「ワック(色の浅黒い外国人)」と呼ばれ、差別の対象とされた。ポステコグルーは少年時代を振り返って次のよう述べている。

「子供にとっては、いかに新しい土地に馴染むかが問題だった。サッカーはそのための最適な手段だった」。

 当時、サッカーをすることは労働者階級の人々にとって日常から解放される唯一の手段であり、エスニックコミュニティーの中でも重要な役割を担っていた。しかし、たびたびゲームの中で起こるエスニック間の暴動が「サッカーは野蛮なスポーツ」というマイナスイメージを植え付け、オーストラリアにサッカー文化が根づかない一因にもなってしまったのである。05年のAリーグ開幕時に「コミュニティー」ではなく「都市」を基盤としたクラブ運営体制を敷いたのは、これらのマイナスイメージを払拭するためという理由があった。

 ポステコグルー少年は地元のクラブチームであるサウス・メルボルンの育成チームに所属すると、すぐにプレーヤーとして頭角を表した。30歳で指導者へと転身し、サウス・メルボルンのヘッドコーチに就任。その後、一度はギリシャ3部クラブでの指揮を経験するも、以降はAリーグのクラブで指揮を執り続けた。13年に代表監督に就任する直前までメルボルン・ビクトリーの監督を務め、その前のブリスベン・ロアー監督時代の10-11シーズンには、国内の公式戦でわずか1敗、36戦無敗という大記録を打ち立てた。15年にはサッカルーズ(オーストラリア代表チームの愛称)を初のアジアカップ王者へと導き、国内最高の監督としての称号を不動のものとした。地元メディアは「アンジェの時代」と表現し、オーストラリアサッカー界の救世主として大きな期待を寄せている。

名将とレジェンドの融合


 ケーヒルはキャリアの終盤に自国リーグを選んだ理由の一つとして、ポステコグルーから「サッカルーズ再建にも尽力してほしい」と代表チームのサポート役を頼まれたことを打ち明けている。グローバル時代の恩恵を十二分に受け、国外で華々しいキャリアを歩んできたケーヒルと、あくまでもローカルクラブでの指揮に徹し、着実に実績を積み上げて頂点に上り詰めたポステコグルー。どちらも移民の子としてのルーツを持ちながら、全く異なる道を歩んできた二人が今、自分たちを育んでくれた母国のために手を組んだ。グローバルとローカル、相反する分子同士の融合は、新旧の文化をそのまま取り入れて発展してきたメルボルンの残影のようにも見える。サッカルーズは今後、どのような躍進を遂げるのだろうか。

By サッカーキング編集部

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