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【SKアーカイブス】マンチェスター・シティが3部リーグにいた頃(2019年)

2019.06.16

1999年の2部昇格プレーオフ決勝。ディコフのシュートがシティの歴史を変えた

[ワールドサッカーキング No.338(2019年3月号)掲載]

 優れた監督と豪華なスタープレーヤーを擁する、プレミアリーグ屈指の強豪クラブ。マンチェスター・シティの現在のような姿を、20年前に誰が想像しただろうか?
 1998-99シーズン、シティは3部リーグを戦っていた。乏しい戦力、借り物のトレーニング場、怒り狂うサポーターたち……。そこには、誰にも予想できない波乱のストーリーがあった。

文=ニック・ムーア(FourFourTwo)
翻訳=加藤富美

 

20年前の奇跡的なシュート

 イギリスで『スライディング・ドア』と言えば、多くの人が1本の素敵な映画を思い出すだろう。20年前に上映されたこの作品では、グウィネス・パルトロウ演じる主人公が地下鉄に乗ろうとする寸前、ドアが閉まってしまう。そのシーンを境にして、①電車に乗れなかった場合、②ドアが閉まる前に電車に乗れた場合、という2本のストーリーに枝分かれする。電車のドアが閉まるタイミング一つで、全く異なる運命が描かれる。

 英国のフットボール史を振り返れば、「スライディング・ドア」的な瞬間はいくつもあった。1966年のイングランド・ワールドカップ決勝で、ジェフ・ハーストが決めた“疑惑のゴール”を、アゼルバイジャン人のラインズマンがノーゴールと判定していたら? 1990年のイタリアW杯準決勝で、もしスチュアート・ピアースがPKのときにあんなに力を入れず、ふわりと蹴って決めていたら? 1990年のFAカップ3回戦、マンチェスター・ユナイテッドのマーク・ロビンスがシュートを外し、ノッティンガム・フォレストに敗れてアレックス・ファーガソン監督がクビになっていたら?

 このうち一つでも「もし」が現実になっていたら、歴史は全く別の方向に動き、イングランドのフットボール界は今と異なる世界になっていたかもしれない。たった1本のシュートが運命を変えてしまう──。そんな「スライディング・ドア」のなかでも、最もドラマティックなストーリーを紹介してみよう。

 1999年5月30日、ウェンブリー・スタジアム。マンチェスター・シティはディヴィジョン2(イングランド3部)のプレーオフ決勝を戦っていた。ジリンガムに0-2とリードされたシティは、90分にケヴィン・ホーロックが左足で決めて1点を返すが、それでもまだ1点差。絶対絶命の状況で迎えたアディショナルタイム、最終ラインから蹴ったボールがフリックで前線に入り、ピンボールのように2人を経由して、ポール・ディコフの足元にピタリと収まる。ディコフはそのシーズン終盤、春先になって急に調子を上げたため、ジョー・ロイル監督から「クロッカス」(春に咲く花の一種)と呼ばれていた。

 ディコフが思い切り右足を振り抜き、同点ゴールが決まる。スタンドは歓喜にわき、ディコフはチームメートに囲まれた。試合終了まで、わずか数十秒を耐えることができなかったジリンガムは、PK戦の末に力尽きた。もし20年前のシーズン、ディコフのシュートが枠を外れていたら……。シティは今頃どうなっていたのだろうか?

劇的な2部昇格を果たしたシティは、翌シーズンに1部昇格。2003年にシティ・オブ・マンチェスター(現エティハド・スタジアム)へと移転し、強豪クラブへと成長していく

昇格失敗なら破産の可能性も……

「あのプレーオフでディヴィジョン2を抜け出していなかったら、翌シーズンもノーチャンスだったろうね」

 我々のインタビューに、ロイル監督はそう答えた。1998年2月、不振に苦しむシティの指揮官を引き受けた彼は、当時を「暗黒時代」と表現する。PK戦で2本をストップして、勝利の立役者となったGKニッキー・ウィーバーもこれに同意する。

「ディッキー(ディコフ)の同点ゴールがなかったら、どうなっていたか分からない。リーズがいい例だ。下部リーグに落ちてしまったら、昇格するのは本当に大変なんだよ。しかも当時のシティは派手なフットボールをするチームで、全く安定感がなかった。毎試合がカップ・ファイナルみたいだったね(笑)」

 シティを長年サポートしてきたジャーナリストのクリスティ・マクドナルドも、あのプレーオフが「ジ・エンド」になる可能性があったと言う。「あのシーズンがダメでも、翌年に昇格していたはず、という声は多い。でも当時を知っている人なら、そうは思わない。0-2のまま試合が終わろうとしていたとき、ゴール裏の雰囲気は最悪だった。『もう限界だ、もうシティなんか応援しない』という声が聞こえたよ」

 もしシティが3部リーグのまま昇格できなかったら? マクドナルドは断言する。「まず、シティ・オブ・マンチェスター(現在のエティハド・スタジアム)をホームにすることはできなかったはずだ。古くて汚いメインロードを使い続けていたら、いずれファンにも見放されただろう」

 ディコフの同点ゴールが生まれなかったら。ウィーバーの2本のセーブがなかったら……。最悪の場合、リーズのように破産を申請して再出発を強いられたかもしれない。そうならなかったとしても、これほどの短期間でイングランドの強豪クラブに成長したとは考えられないし、シェイク・マンスール率いるナヒヤーン家がクラブに投資することもあり得なかった。2011-12シーズン最終節、誰もが「アグエロ!」と絶叫したあの瞬間もなければ、ジョゼップ・グアルディオラ監督のもと、プレミアリーグ史上初の勝ち点100に到達した2017-18シーズンもなかった。

「今となっては、『ひどい時代もあったよな』と笑いながら話せるけど」。前述のジャーナリスト、マクドナルドは語る。「実際は笑い話どころじゃなかった。クラブが息絶える寸前だったんだよ。当時はフロントも、サポーターもひどいものだった。スタジアムに行くのも怖かった」

 シティは閉まる寸前のドアをすり抜けた。もし間に合わなかったら、全く別の運命が待ち受けていたことは間違いない。

1997-98シーズン最終節、アウェーのストーク戦に駆けつけたファン。シティはこの試合に大勝したものの、2部残留圏の21位に1ポイント足りなかった

クラブに50人以上の選手がいた

 20年の歳月が過ぎ、シティのファンは地獄から天国への旅路を経験した。2018年4月、世界屈指の優秀な指揮官に率いられたシティは、世界的なスター選手を何人も擁し、圧倒的な成績を残して悠然とプレミアリーグを制した。しかし、歴史の糸をほどいていくと、次第にみすぼらしく悲惨なクラブの姿が見えてくる。

 劇的な勝利でディヴィジョン1(イングランド2部)への復帰を決めた前のシーズンは、文字どおり「悲惨」な1年だった。1997-98シーズンも残り2試合、3部降格の危機にあったシティはQPRと対戦する。この試合でMFジェイミー・ポロックはGKにヘディングでパスを戻し、味方のゴールに見事なループシュートを決めてしまう。シティの歴史上、最も悔いの残るオウンゴールの一つだ。試合がドローに終わり、自力で残留する可能性が消滅すると、サポーターたちはファンサイトの掲示板を占領して、ポロックを「人類史上、最も影響力の大きい人物」に選出した。

 シティは最終節でストークに5-2と大勝したが、降格を免れることはできなかった。クラブ史上初の3部降格は耐え難い屈辱だ。ピッチには怒り狂ったサポーターがなだれ込み、フランシス・リー会長は退任した。DFのリチャード・エッジヒルは当時の状況をこう話している。「監督がころころ替わり、そのたびに違うスタイルが掲げられて、違う選手が入ってきた。ロイル監督が就任したとき、クラブには50人以上の選手がいた。11人でやるスポーツなのにね(笑)」

 1997―98シーズンの途中から指揮を執ることになったロイルはこう述懐する。「それまでの監督の任期はわずか数カ月だった。何度も監督が替わったせいで干された選手たちはストレスをためていた。会長と話し合ったとき、選手たちの給料をどうやって払えばいいか途方にくれたよ。クラブには抜本的な解決が必要だった」

「干された」選手たちの中には、旧東ドイツ代表だったウーヴェ・レスラーや、ジョージア代表のゲオルギ・キンクラーゼも含まれていた。ジョージア出身の司令塔は「自分をもっと使えば降格は避けられた」と言い張ったが、ロイルは毅然と跳ねのけた。「彼はやみくもにシュートを打っては外していた。私は彼を3回試合で起用したが、そのうち2回はいいところがなかった。残りの1回は悪夢だったね(笑)」

 いずれにしても、3部リーグを戦うチームに高額な選手をキープする余裕はなかった。「外国人選手は雨降る火曜の夜、ストークなんかで仕事をしない」という、フットボール界の有名な言い伝えに従って、ロイルはキンクラーゼをアヤックスへ売り飛ばした。同様にレスラー、マーティン・フィリップス、イアン・ブライトウェル、キット・サイモンズ、ナイジェル・クラフといった、1部リーグ時代からプレーしてきた主力も次々とクラブを後にした。代わりに加入したのは若手ばかりだったが、指揮官には3部リーグを戦える手応えがあった。

 シティは3部リーグ開幕戦でブラックプールに3―0と快勝を収め、希望とともにシーズンをスタートする。メインロードには3万人のファンが集まった。これは2018年にサンダーランドが更新するまで、3部リーグ最多の観客動員記録だった。

3部に降格して迎えた1998-99シーズン開幕戦。シティはブラッドベリー(左)のゴールを含む3得点を挙げてブラックプールに3-0と好スタートを切った

最悪の状態で迎えたクリスマス

 3部からの再出発は順調なように見えたが、シティはすぐに失速する。開幕から15試合を終えた時点で5勝6分け4敗。「内容はそれほど悪くなかったが、ドローが多すぎた」とロイルは言う。「降格したチームは二日酔いのような状態になる。一度どん底まで失望したチームが、再び前に進むのは大変なことなんだ」

 空回りするシティに対して、相手チームは違った。「我々は3部リーグのビッグネームだった。他のチームにとっては格好の標的だった。対戦相手はどこもやる気満々だったし、相手のサポーターも大挙してマンチェスターに駆けつけた。厄介な試合が続いたよ」。そうロイルは振り返る。

 こうしてクリスマスを迎えた頃、12位に沈むシティにファンは絶望していた。「4部に降格するんじゃないか、という恐怖すらあった」と前述のマクドナルドは言う。「とくにアウェーの試合はきつかった。最寄駅の改札を出ると、決まって地元の連中がシティのサポーターに喧嘩を売ってきた。こんなのはもうたくさんだ、といつも思っていた。FAカップでダーリントンと戦った試合を今でも思い出せるよ。金曜日のナイトゲームで、ロイル監督とコーチのウィリー・ドナチーは90分間ずっと味方のサポーターから罵声を浴びていた」

 ドナチー自身も「心を病みそうだった」と認めている。「あの夜は本当に堪えた。ここまで侮辱されながら、なぜこんな仕事をしているんだろう、と思った」

 ダーリントンと1―1で引き分けた4日後、シティはマンスフィールドに敗れて、EFLトロフィー(3部と4部のチームで争うカップ戦)からの敗退が決まった。ホームでこの試合を見守ったのはわずか3007人。メインロードの最少観客数だ。この頃になると、選手たちはウォーミングアップの時間になってもピッチに姿を現さなかった。荒れ狂うサポーターを避けるために、トレーニング場として使っていたプラットレーンで準備してからスタジアムに向かっていたのだった。

 そのトレーニング場も頭痛の種だった。「プラットレーンは自治体の所有物だから、いつも使えるとは限らなかった。高校生の大会があるから他で練習してくれ、と言われたこともあるよ。それでオールダムの練習場を使わせてもらっていた。牧場みたいな芝生だったね(笑)」

 苦しい状況を何とかしのいでいたロイルは、最悪の状態でクリスマスを迎えたときには、チーム構成を見直す覚悟を決めていた。彼はハダースフィールドからセンターバックのアンディ・モリソンを迎え入れ、マンチェスター・ユナイテッドからMFテリー・クックをレンタルで獲得する。そして結果的に、この2人がシティを変えることになった。

3部リーグを戦ったシティのロイル監督(左から2番目)とコーチのドナチー(左端)

「常に予想を裏切る」のがシティ流

 モリソンは当時のシティが最も必要としていたタイプの選手だった。「アンディがシーズンを変えてくれた」と、ロイルは今でも目を細める。「我々はリーダーを必要としていた。彼はドレッシングルームでチームをまとめ上げてくれた」

 GKのウィーバーも同意する。「モリソンの加入は本当に大きかった。監督はすぐ彼をキャプテンに指名した。僕はピッチに向かうとき、いつも彼の後ろを歩いていたけど、モリソンは自分の胸にパンチして気合いを入れていたよ。相手にしたくないタイプだよね(笑)。ただ、決して野蛮なDFではなかった。足元も素晴らしかった」

 最終ラインに君臨するモリソンの後方では、ウィーバー自身が頼もしい守護神へと成長していた。中盤ではイアン・ビショップが正確なパスで試合をコントロールし、そこにゲームメーカーのクックが創造性をもたらした。その前方では、ディコフとショーン・ゴーターの2トップがうまく機能し始めていた。「ショーンと契約したとき、『シティで試合に出られるわけがない』というメールがファンから何通も届いた。その彼が1998―99シーズンのチーム得点王になったわけだ。ショーンとディコフの2人がクラブを救ってくれたんだよ。それでも、クラブには『まだ活躍したとは認められない』というメールが届いたけどね」

 ロイルは笑って続ける。「どんな時代にも、文句しか言わないサポーターはいるものだ。彼らの気持ちも分からなくはない。同じ時期、マンチェスターのライバルクラブ(ユナイテッド)は次から次へとトロフィーを手に入れていたわけだからね」

 12月中旬、ヨークに1-2と敗れた時点で、シティは優勝争いから遠く離れていた(4部降格圏より11ポイント上にいるだけだった)。しかし、そこから状況は変わり始める。「12月末、ホームで戦ったストークとの試合が分岐点だった」と語るのは、シティのファンクラブ会報誌『ブルームーン』を編集するリック・ターナーだ。「前半終了時点では0-1とリードされていたが、後半に2ゴールを奪って逆転勝利を収めた。何かが変わった、と感じたよ。選手が自信を取り戻したように見えた。そして、シティはそこから11試合も無敗をキープしたんだ」

 快進撃が始まった。フルアム(このシーズン、最終的に3部で優勝を飾る)との対戦は、クックの活躍で3-0の完勝。さらにストークやミルウォールを破り、敵地で行われたバーンリー戦ではゴーターが16分間でハットトリックを決め、6-0で勝利した。シーズン前半戦とはまるで別のチームだった。

「新加入選手とベテランがうまくかみ合ってきた。どんどん順位表を上がっていったね」。ロイル監督は躍進の日々をうれしそうに振り返る。「コーチのアサ・ハートフォードに、『何が起きてるんだ?』と聞いたことを覚えているよ。“City-itis”(これがシティだ)なんて言葉を使い始めたのも、その頃じゃないかな。シティには何だって起こる、という意味でね。たとえ最悪の状況でも、シティにはもっとひどいことが起こりうる。だけど、これ以上は望めないほど最高のときでも、シティはもっと良くなれるんだ」

 前半戦で6敗を喫したチームは、後半戦をわずか2敗で乗り切った。シティは3位でフィニッシュして、6位ウィガンとのプレーオフ準決勝を迎える。「開始1分でひどいミスをして0-1とリードされた。最悪のスタートだった」とマクドナルドは振り返る。「何とか1-1に追いついて、ホームの2ndレグに望みをつないだ。その試合はまさに“City-itis”という展開だったよ。ウィガンの選手が倒されてもPKは与えられなかったし、ゴーターはハンドで決勝ゴールを奪った(笑)。プレーオフ決勝に進めたのはラッキーだったと言うしかないね」

FWのゴーターは1998-99シーズン、21ゴールを決めて2部昇格の立役者となった

「入るわけがないと思った」

 アレックス・ファーガソンがあの有名なセリフ、“Football, bloody hell”(フットボールは……なんてスポーツだ)と発した日(1998-99シーズンのチャンピオンズリーグ決勝。マンチェスター・Uがアディショナルタイムの2ゴールでバイエルンに逆転した)からわずか4日後。シティはイングランド史上最も劇的な昇格プレーオフを戦うことになる。

 スコアレスで迎えた81分、先制したのはジリンガムのカール・アサバだった。さらに5分後、ロブ・テイラーが決めて2点差とする。「終わった」と、シティの誰もが思ったに違いない。サポーターの希望は、いまや苦痛に変わっていた。最悪の状況……いや、本当の地獄はこれから始まるのかもしれなかった。また1年、3部で戦うのか──。ロイルは自分が言った言葉を覚えていた。「隣のドナチーに言ったよ。『来シーズンもまた、スカンソープの小さなスタジアムで戦うわけか……我々がクビになっていなければ、だけどな』とね」

「試合前は楽観的だった。最悪の状況からここまで来たんだから、絶対に大丈夫だと」。何度も信じては裏切られてきたのにね、とマクドナルドは笑う。「0-2になった時、ゴール裏ではガラの悪い連中がボロボロ泣いていた。僕も立っているのがやっとだった。90分にホーロックが1点を返したときは、怒りがわいてきたよ。『もういいだろ、もう期待させるなよ!』って」

 しかしアディショナルタイムが「5分」と表示されると、サポーターは息を吹き返す。「ジリンガムのトニー・ピューリス監督が激怒している姿を今でも覚えてるよ」と言うのはウィーバーだ。

 そして、熱狂の瞬間が訪れる。主役になったのは、それまでに何度も訪れたチャンスをことごとく潰していたディコフだった。マクドナルドが言う。「あの試合のディコフは本当にひどかった。彼がシュートした瞬間は、入るわけがないと思っていた。今でもスローモーションのようにあのゴールを思い出せるよ。ネットが揺れた瞬間は、リーグ優勝を決めたセルヒオ・アグエロのゴールよりうれしかった。僕が死ぬときに人生を思い出すとしたら、まずあのシュートが浮かぶだろうね」

運命のプレーオフ決勝を観戦していた、当時オアシスのリアム・ギャラガー。指の数はGKウィーバーがストップしたPKの本数

ウィーバーのセーブでPK戦を制す

「僕たちは勝つ運命にある」。試合が延長戦に入ったとき、ウィーバーはそう感じたという。「ジリンガムは闘志を失っているように見えたし、PK戦がシティのサイドで行われることになったのも大きかった。あんな大一番に慣れている選手はいなかったけど、ゴールの後ろにはサポーターがいた。あの声援が、ゴールマウスに立つ僕を大きく見せてくれたんじゃないかな」

 ウィーバーはジリンガムの1人目、ポール・スミスのシュートをセーブする。「実はディコフもPKを外しているんだけど、今となってはみんな忘れているらしい。かわいそうなのはホーロックだよ。1点目を決めて、PKも決めたのに、誰も彼のことは覚えていないんだから(笑)」

 DFのエッジヒルがスポットに向かったとき、シティのサポーターはざわついた。彼がゴールを決めた場面など、一度も見たことがない。「なんでアイツが蹴るんだ、とみんな思った」とマクドナルドは言う。しかし、エッジヒルはパーフェクトなボールを蹴った。「実はプレーオフ進出が決まってから、こっそり練習していたんだ。最高の気分だったね」とエッジヒルは振り返る。

 ジリンガムは追い込まれた。次に蹴るガイ・バターズが決めなければ負ける。「これを止めたら終わりだよね?」。ウィーバーはラインズマンに2度も確認した。「強いキックじゃなかったから、両手で止めることができた。うれしくて看板を飛び越えたよ。あのときの僕を止められたのは、巨漢のアンディ・モリソンだけだったね」

 試合後、ウィーバーはビール缶を持って記者会見に現れた。ロイル監督は堂々とした態度で会見に臨んでいた。「ビショップを投入してから、チームの動きが良くなった。まあ、そこから2失点したわけだが」。彼はそう言って記者の笑いを誘った。「試合終了間際の2ゴールは本当にクレイジーだ。ジリンガムにとっては受け入れ難い結果だろうね」

 その後、シティはどうなったのか。それは誰もが知るストーリーだ。2部昇格から1年後にはプレミアリーグに昇格して、再び降格して、また昇格した。そして2002-03シーズン以降は、プレミアリーグで栄光への階段を上り始めた。伝説のPK戦を制したウィーバーは言う。「シティの栄光に僕たちも一役買ったと自負している。当時の僕には、あの勝利が何を意味するのか分かっていなかった。でも、今でもマンチェスターに行けば、会う人みんながあの日の試合について話してくれる。あの試合のユニフォームは今も実家の一番いい場所に飾ってあるんだ。見るたびに試合のことを思い出すよ」

 ロイルも同じ意見だ。「ファンはいまだに私に感謝してくれる。あの勝利に大きな意味があったということだろう。でも、今のシティを見ると信じられない気持ちになるよ。完璧に組織された、素晴らしいクラブになった。“City-itis”なんて、最近は誰も言わないんだろう?」

 確かに、かつてのシティは良くも悪くも人々の予想を裏切り続ける、テレビのドタバタコメディのような存在だった。今の彼らに“City-itis”は似合わない──少なくとも、今のところは。

※この記事は、『ワールドサッカーキング』 No.338(2019年3月号)に掲載された記事を再編集したものです。

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