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「すべては選手のために」 U-20日本代表・影山雅永監督の“魂”を作り上げたモノ

2019.05.23

渡欧前、取材に応じた影山雅永監督

 いきなりちょっと恥ずかしい話を告白しておきたいと思う。

 U-20日本代表・影山雅永監督に取材したときのことだ。久保建英安部裕葵大迫敬介といった主軸候補選手が大会直前にいなくなる苦境の中であり、指揮官に苦悩があることも知っていた。だからポジティブになってもらいたくて、浅知恵から「でもこれで結果を残せば影山さんの監督としての評価は上がりますから」みたいなことを言ってしまったのだ。それに対して、監督の返答は即座に、かつ明快だった。

「何を言っているんだ。育成年代の監督が自分の評価のことなんて考えてどうする!」

 まったくもってその通りだし、こちらは恥じ入るばかり。常々「選手を活かすために監督である俺がいる」と口にしてきた影山監督らしい言葉である。影山監督がこうした考えに辿り着いたのは、ここまで歩んできたちょっと変わったキャリアとも関係しているように思う。今回は少々その点を紐解いてみたい。

 影山雅永監督は1967年5月23日、福島県いわき市に生まれた。Jリーグ開幕から四半世紀前、そもそも当時の福島はサッカー自体が盛んではなく、「サッカーで食べていくというか、そもそも大人になってもサッカーを続ける選択肢があるというイメージ自体がまったくなかったと思う」と振り返る。

 ただ、サッカー大好き少年だったのは確かで、地元の少年団から地元の中学校、そして地元の県立磐城高校へ進んでも、ひたすらボールを蹴ることに打ち込んだ。「自分ほどサッカーの全国大会へ出ている選手はそういないと思う」と振り返るように、小中高のすべてで全国出場を経験することにもなり、日本高校サッカー選抜にも選ばれた。「ちょっと自分はやれると自信も持っていた」という影山少年は、名門・筑波大学へと進むことになる。「当時は福島の選手が関東の大学でサッカーを続けるというのもほとんど前例がなかった」と言う。

 そこでの出会いについて「衝撃を受けました。本当にショックでした」と振り返る。同級生には中山雅史、井原正巳という日本サッカー史にその名を刻むことになるスーパースターがおり、先輩にも長谷川健太らスペシャルなタレントがそろっていた。絶対的な技量の差を痛感させられる中で、「自分は指導者になろうと意識するようになった」と言う。

 当時の一般的な指導者のルートというか、「食べていく」ことを意識する場合の選択肢は実質的に教師一択である。自然とその道を意識するようになり、「卒業後は学校の先生になるんだ。そういうつもりでした」と振り返る。ところが、「どうしたわけか、古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)から、『ウチでやってみないか』という話が来た」と言う。

影山雅永

ジェフ時代の影山監督(右は城彰二) [写真]=J.LEAGUE

 周りにスーパープレーヤーがいたために、「影山選手」の自己評価が低すぎただけだったのかもしれない。実際、古河へ進んだあとは、Jリーグ開幕の激動期もプロ選手として生き抜き、浦和レッズ、ブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)でもプレー。「そこそこやれたかな」と振り返る選手生活となった。少し珍しかったのは辞めた後のことで、いきなりコーチになるのではなく、筑波大の大学院に進み、指導者の勉強を改めてしようとしたことである。

「幸いにも当時は筑波大にS級ライセンスの寄付講座が置かれていて、本当に学びのある環境だった」

 さらに大きな転機となったのは、フランスW杯予選に臨んだ日本代表へ、テクニカルスタッフの一人として参加することになったのだ。筑波大出身の小野剛氏が中心となっていた分析チームの中で、影山監督が託されたのは「007(ゼロゼロセブン)のような仕事」である。各国を飛び回って情報を集め、時には「いろいろな意味でスレスレの」こともこなしながら、初出場を目指すチームのために奮闘を重ねた。

 インターネットを通じて気軽に各国の映像にアクセスできる時代ではない。目で観て肌で感じるしかないという状況もある。影山監督は当時を「0泊4日の弾丸日程で中央アジアへ行ったり、本当にいろいろなことがあった」と笑いつつ、「日本のスポーツ史上初めてと言われるようなファンの暴動まで起こって本当に凄いプレッシャーの中でしたが、岡田武史監督を始めとしたスタッフ、そして選手たちの戦いぶりは本当に凄かった」と振り返る。見事、W杯初出場という偉業を為し遂げ、そして本大会で3試合を戦い抜いたことは、選手として日本代表経験のなかった影山監督にとって大きな意味があった。初のW杯へと至るこの戦いこそ、国を代表して戦う重みとそれに応えようとする責任感、「日本代表魂」を強烈に体感する機会となったからだ。

 監督に就任してからも折りに触れてこのときの経験は選手たちに伝えている。「『ドーハの悲劇』とか言葉だけは何とか知っているんです」という選手たちに「日本代表の先輩たちがどう戦って今の日本サッカー界を作ってきたのかをできるだけ伝えようと思っている」と言う。受け持っているU-20日本代表の選手は1999年1月1日以降に生まれており、ドーハの悲劇はもちろん、フランスW杯も知らない。プロがあるのは当たり前、W杯に出るのも当然となっている彼らだからこそ、「当たり前」「当然」を築いた先人たちのことを「知っておくことに意味がある」と考えているからだ。

 もう一つ、影山監督には「指導者としての原点」と回顧する思い出がある。フランスW杯後、日本代表のテクニカルスタッフから離任してドイツのケルン体育大学へと留学したときのことである。当時は学生として勉強に励みながら、元プロ選手として1.FCケルンのU-16チームでコーチとして指導にも当たった。ちょっと変わった形で指導者としての歩みを始めたわけだが、相手はドイツを代表する名門クラブのユースチームに所属する選手たちである。「最初は相手にされていなかった」と振り返る。

影山雅永

U20W杯初戦へ向けて指導する影山監督 [写真]=Getty Images

 元プロ選手と言っても、ブンデスリーガで活躍したわけではない。表向きは尊重する態度も見せてくれたが、明らかに言葉が響いていなかった。そこでまず取り組んだのは言葉だった。

「自分は最初英語で指導していたんです。でも、これでは届かないなと感じて、ドイツ語で指導することを始めました。もちろん、全然わからないですよ(笑)。だから『こういう場合はドイツ語で何て言うんだ?』と選手にも聞いていましたね。そうやってこちらが言葉を覚えながら指導に当たるようになると、段々と彼らの態度も変わってきました」

 もう一つの武器は体当たりである。「幸いにも当時の自分は現役を引退してそれほど経っていなかったので、まだまだ動けた。だからもう紅白戦とかに交じったら、体を張って全力で当たりにいきました。ドイツ人より激しくアグレッシブにね。弾き飛ばして削って(笑)納得させていきました」。ドイツの16歳を相手に力戦奮闘する姿に、選手たちも自然と親しみを覚えるようになってくれた。

「3カ月くらい経ったときだったかなあ。ドイツ語の『あなた』には年上などに使う『Sie』と、親しい間柄に使う『Du』の二種類があるんです。最初は『Sie』、つまりお客さんだったんですね。それが2カ月くらいしたら『Du』に変わり、3カ月経ったら『カゲ』に変わっていたんです。そうしたら、練習終わりにある選手が『カゲ、こういう練習を(居残りで)やりたいから手伝ってくれ』と言われたんです。毎日付けていたトレーニングノートに『今日が自分にとっての指導者としての初日だ』と書き込みました」

 こうしてドイツで指導者としての「第一歩」を刻み、同時に指導に当たりながら、こうも思っていた。

「このドイツの練習でのプレー強度、激しさは本当に日本では考えられないもので、日本に帰ったらまず何よりこれを伝えなければいけないと思いました。このプレッシャーがあるからこそ、それをかわすための実践的な技術・戦術も身に付いていく。まずベースがなければいけないわけですが、日本はそういう意識が薄かったですから」

影山雅永

ファジアーノ岡山指揮官時代の影山監督 [写真]=J.LEAGUE

 1998年から2000年までドイツで指導に当たり、学びを得ると、01年からはサンフレッチェ広島のコーチに就任。当初指導に当たったサテライトチームでは若手の“ぬるさ”に活を入れつつ、03年から小野監督が就任すると、トップチームコーチとしても活動した。そして06年からは日本サッカー協会の指導者海外派遣事業の一環としてマカオ代表監督、ついでU-16シンガポール代表監督に就任するというなかなかないキャリアで「代表チーム監督」という立場を経験。09年からの6年間にわたってファジアーノ岡山を指揮し、「無人島合宿」のようなユニークな指導で話題を呼んだ。ちなみに昨年、U-19代表でも「お借りしている選手なので、さすがに無人島は無理」と笑いつつ、サッカーを離れての活動は実施しており、チームとしての連帯感を深めている。

 17年にこの年代の日本代表チームを預かり、そこから2年半にわたって活動を続けてきた影山雅永監督。指導にあたって根底にあったのはフランスW杯予選を戦うチームに帯同する中で体得した「日本代表魂」と、ドイツでの日々で培った体当たりの「指導者魂」。常に強調するのは「選手のために」ということ。今大会に臨むにあたっても「選手が持っている力を100%出し切ることだけを考えたい」と言い切る。

「『影山サッカー』とか『影山ジャパン』とかどうでもいい。とにかく選手たちが持っているものを引き出して、一つでも多く勝ち抜いて、選手たちが世界との真剣勝負を味わう回数を増やしてあげたい。それだけです」

 異色のキャリアを積み上げてきた熱血監督に率いられるU-20日本代表の世界舞台での挑戦は、日本時間24日3時30分より、ポーランドの地で幕を開けることとなる。

取材・文=川端暁彦


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