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手倉森ジャパン、苦闘と成長の948日間…悔しさを未来につなげるために必要なものとは

2016.08.12

リオ五輪は1勝1分け1敗の勝ち点4、グループステージ敗退という結果に終わった [写真]=兼子愼一郎

 2014年1月5日のオマーン遠征から始まったリオデジャネイロ・オリンピック日本代表の冒険は、彼らが思い描いていたよりも早く幕が下ろされることとなった。スウェーデンとの第3戦に1-0で勝利し、世界の舞台で勝ち点3をもぎ取ったものの、2位の座を争っていたコロンビアがナイジェリアに勝利したため、次のステージへの道は閉ざされてしまった。

 他力本願の状況だったため、選手たちもある程度、覚悟を決めていたに違いない。試合後しばらくしてコロンビアの結果がピッチの上に伝えられた時、大きくうなだれたり、涙を流したりする選手は――唯一出場機会を得られず、ひどく落胆していた岩波拓也(ヴィッセル神戸)を除いて――いなかった。「この結果を受け止めなければならない」とキャプテンの遠藤航(浦和レッズ)が語ったように、手倉森ジャパンの選手たちは現実にしっかり向き合っているようだった。

 グループステージ突破の可能性をわずかに残し、初勝利を目指して迎えたスウェーデン戦。ナイジェリアとの初戦でスーパーサブの任務を託された浅野拓磨(アーセナル)も、コロンビアとの2戦目でジョーカーとして起用された大島僚太(川崎フロンターレ)と南野拓実(ザルツブルク)の二人もスタメンに名を連ねた。切り札を懐にしのばせないメンバー選考――。手倉森誠監督が前半から勝負を決めにきたのは明らかだった。

 ところが自陣にブロックを敷くスウェーデンの守りをこじ開けられない。「相手のスローペースに付き合わないようにしないといけない」と前日、指揮官が懸念していたとおりの内容で、0-0のまま時間だけが過ぎていく。

 何としても勝ち点3を手にしなければならないゲーム。焦りが生じてもおかしくなかった。だが、ピッチの上の選手たちは、思いのほか落ち着いていた。

「ブロックを敷かれていて、(日本の)サイドハーフやサイドバックがそのブロックの外にいる状態だったから(縦パスを)打ち込める機会が少なかった。あんまり急ぎすぎても前の選手が疲れるだけなので、(途中から)前半はゼロでもいいっていう話をしていた」

 そう言ってゲームプランの変更を明かしたのは大島である。その言葉に同調するように、遠藤も「自分たちのリズムでやれていたので、後半になれば絶対に点を取れると思っていた。だから焦りはなかったですね」と言う。

 後半に入って大島が「航と話し合って」ポジションを少し高く取り、ペナルティーエリア付近でボールに触る回数を増やした。さらに矢島慎也(ファジアーノ岡山)、鈴木武蔵(アルビレックス新潟)の投入で攻撃のギアを上げると、サイドから、中央から、スウェーデンを攻め立てる。歓喜の瞬間が訪れたのは65分。DFラインを突破した大島のパスに矢島が飛び込み、ついにゴールをこじ開けた。

 状況に応じて柔軟にゲームプランを変更する――。こうしたゲームコントロール力や柔軟性は、チームが立ち上げられた当初から手倉森監督が選手たちに求めてきたものだ。こうした展開のゲームでは、必要以上に前掛かりとなってバランスを崩し、カウンターから失点するのが最悪のケース。そうした罠にハマることなく、焦れずに自分たちの判断で後半勝負に切り替え、しっかりとゴールをこじ開けたところにチームの成長と頼もしさが感じられた。

 振り返ってみれば、2014年1月にチームが立ち上げられた時には、何とも頼りない集団だった。

 主にチームを構成するのは、2012年U-19アジア選手権でチームとしての一体感も戦う姿勢も見せられずに惨敗し、U-20ワールドカップの出場を逃した1993年、1994年生まれの選手たち。94年組は2011年のU-17ワールドカップに出場していたが、それが逆に、おとなしくて「勝負弱い」というレッテルを張られた93年組との間に微妙な温度差を生じさせていた。

 アジアを勝ち抜けなかった世代をアジア突破に導くため、手倉森監督がまず取り組んだのが「守備の重要性」を説くことだった。

「守備、組織力、粘り強さ……。日本はまだまだ強豪じゃない。一番高められるものは守備だと思っている。逆にいくらボールを握れても、守備が脆ければ世界では勝っていけない。この世代の選手たちに、まずはディフェンスを辛抱強くやることがアジアを突破する上で大事だということを気づかせたい」

 さらに指揮官は「柔軟性と割り切り」をコンセプトに掲げ、「取れなくても取られるな」を合言葉に、手堅いチーム作りを進めていく。この姿勢は最後までブレることがなかった。

 とはいえ、結果は簡単にはついてこない。2014年1月のU-22アジア選手権ではイラクに、同9月のアジア競技大会では韓国に敗れ、いずれもベスト8で敗退。ともに2歳年上のチームが相手だったとはいえ、この時点では、のちに「勝負強く」、「反発力」を備えたチームになるとは、正直想像がつかなかった。

 2014年12月、手倉森監督は久保裕也(ヤング・ボーイズ)と南野を初招集して攻撃の形作りに着手。2015年に入ると、代表チームでの活動よりもクラブでの成長を重視する強化プランの中で、浅野や矢島が所属クラブで結果を残して急成長を遂げていく。選手たちの間に「柔軟性と割り切り」のコンセプトは少しずつ浸透していったが、2015年8月以降に月1回のペースで組まれたJクラブとの練習試合でロースコアによる引き分けや敗戦を繰り返し、12月のカタール・UAE遠征でもイエメン、ウズベキスタン相手にスコアレスドローを演じたことで、リオ五輪出場を不安視する声が高まった。中島翔哉(FC東京)も当時、「このままでは勝ち抜けるとは思えない」と危機感を募らせていた。しかし、指揮官は「あとは本番で点を取るだけ」とここまでのチーム作りへの自信を示し、選手たちに対しても常にポジティブな言葉をかけ続けると、高まる危機感や「やってやる」という反発力によってチームの一体感が高まっていく。

 そして覚醒の瞬間がやってくる。

 延長戦にもつれ込んだイランとの準々決勝、後半アディショナルタイムに原川力(川崎フロンターレ)が決勝ゴールを叩き込んだイラクとの準決勝、2点のビハインドを浅野と矢島のゴールでひっくり返した韓国との決勝と次々に修羅場を乗り越え、無敗のままアジアの頂点へとたどり着く。スウェーデン戦の前日、遠藤が当時を振り返って改めて言う。

「U-19で悔しい思いをして、『オリンピックにも行けないんじゃないか』って思われる中で、『絶対に勝つ』という思いを最終予選でぶつけて優勝できた。どんな状況になっても諦めずにやれば結果を出せるという自信をみんなが持てるようになった」

 何とも頼りなかった集団は、こうして「粘り強さ」、「反発力」、「柔軟性」をストロングポイントに持つ集団へと変貌していった。

 手倉森ジャパンはリオ五輪期間中にも確かな成長を遂げた。コロンビアとの第2戦ではオウンゴールというアクシデントにもくじけず、2点のビハインドから追いついた。前述したようにスウェーデン戦では「柔軟性」や「ゲームコントロール力」、さらには「ゴールをもぎ取る力」を示した。これには「コロンビア戦と今日のスウェーデン戦は自分たちらしさをすごく出せたと思う」と遠藤も胸を張る。選手個々を見てもフィジカルやスピードにも慣れ、臨機応変さを見せられるようになった。試合を重ねるごとにたくましさを感じさせるようになったのは間違いない。

 それだけに悔やまれるのが、ナイジェリアとの初戦における守備の崩壊だ。

 今大会では「耐えて勝つ」をテーマに後半勝負のゲームプランを描いていたが、世界大会の雰囲気に呑まれ、初戦のプレッシャーにも苛まれ、守備陣のミスによって開始10分で2失点を喫してしまう。いずれもすぐに同点に追いついたものの、ゲームプラン崩壊によってDF陣が負った衝撃は大きかった。

「慌ててしまった部分があって、ミスを引きずってしまった」と告白したのは室屋成(FC東京)だ。オーバーエイジとして参戦した塩谷司(サンフレッチェ広島)も藤春廣輝(ガンバ大阪)も一様に「責任を感じた」と漏らした。試合中にメンタルを切り替えられなかった代償が後に響く。その後、さらに3失点して計5失点。追い上げも虚しく4-5で敗れた。

「世界で修羅場を経験していない監督と選手が集まった時、最初につまらないミスをしたら痛い目に遭うということを、この大会で思い知らされたという気分」

 スウェーデン戦後にこう振り返った手倉森監督は、こんな言葉も口にしている。

「技術のある今の選手たちに足りないのは(対世界との)経験だなと。この世代もそれを経験してなくて、“谷間の世代”と言われましたけど、そこをきっちり経験していれば、今回のプアな失点も防げたのかなと思います。今だけの問題じゃないというかね」

 世界と戦う上での難しさ、世界大会の雰囲気、世界大会の初戦への入り方……。本来なら3年前の2013年や2015年のU-20ワールドカップで味わっておかなければならない経験を、今大会で初めて味わうことになったというわけだ。

 ロンドン五輪でのベスト4という結果や、リオ五輪での6大会連続本大会出場という記録によって覆い隠されてしまいがちだが、U-20ワールドカップ出場を4大会続けて逃している弊害はこの先、フル代表に確実に影響を与えることになるだろう。手倉森監督が言う。

「年代別代表の強化に関しては、日本協会を通じて全クラブの下部組織から、もっといい強化ができるんじゃないかと思う」

 今回、ようやく世界との対戦を経験し、悔しさを味わったリオ五輪日本代表選手たちに期待したいのは、これまでピッチ内で発揮してきた「反発力」を、今度はフル代表を目指す上で、ロシア・ワールドカップを目指す上で、自分自身のパワーに代えて発揮してほしいということだ。

 2008年の北京五輪で3戦全敗を経験した本田圭佑(ミラン)、岡崎慎司(レスター)、長友佑都(インテル)といった選手たちは、その悔しさを糧に日本代表のレギュラーへと上り詰め、北京から2年後の2010年南アフリカ・ワールドカップ、4年後の2014年ブラジル・ワールドカップに出場した後、今もなお日本代表の中心選手として君臨する。

 だが、その彼らももう30歳前後。彼らに頼っていたままでは日本代表の成長はない。手倉森ジャパンの選手たちにはこの悔しさを糧に、彼らを脅かす存在に、そして彼らからポジションを奪い取る存在となることを期待したい。

「アンダーカテゴリーがなくなって、ここからはA代表しかない。そこでまたこの仲間たちと一緒にやりたいという思いがあるし、僕自身にもA代表でこの大会の借りを返したいという思いが芽生えている。そこに行くためにこれからしっかり成長しないといけないと思います」と植田直通(鹿島アントラーズ)が宣言すれば、亀川諒史(アビスパ福岡)も「自分のサッカー人生がここで終わるわけではない。この経験を活かす場としてA代表があるので、そこを目指していきたい」と今後を見据えた。

 期待したいのは、今回選ばれた18人だけではない。「この世代の可能性を追求してきた」と語る手倉森監督によってこの2年半の間に招集された選手は70人以上にのぼる。リオ行きのメンバーから落選し、思いを“託す側”に回った選手たちにも「本大会のメンバーに選ばれなかった」ことへの反発力を発揮してもらいたい。

 手倉森ジャパンのメンバーと、本大会行きが叶わなかった同世代の選手たちがロシア・ワールドカップのピッチに立った時に初めて、リオ五輪での敗北に大きな価値が生まれることになる。“谷間の世代”と呼ばれた彼らは、2年半にわたる戦いで今後に期待を持たせるに値する著しい成長を見せた。リオでの挑戦は志半ばで途切れてしまったが、これですべてが終わったわけではない。彼らが歩む道は、その先へと続いている。

文=飯尾篤史

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