1993年10月28日。「ドーハの悲劇」直後のラモス瑠偉氏とハンス・オフト監督[写真]=Getty Images
日本代表最大の悲劇と言われる「ドーハの悲劇」から、今日28日でちょうど20年が経った。
1993年10月28日、アメリカW杯予選を戦っていた日本は、カタール・ドーハでのセントラル方式の最終予選に臨んでいた。第4戦終了時で2勝1分け1敗の勝ち点5(当時は勝利で勝ち点2)で首位に立っていた日本は、最終戦のイラク戦に勝てば文句なしのW杯初出場、引き分けてもサウジアラビアと韓国の結果次第では悲願達成という優位な状況だった。
迎えたイラク戦、立ち上がり5分に三浦知良のゴールで先制した日本は、後半序盤に同点に追いつかれたものの、69分に中山雅史が勝ち越しゴールをゲット。試合は日本の1点リードのまま終盤に入り、W杯出場まで残りわずかというところまで迫った。日本対イラク戦より数分早く終了した他会場では、サウジアラビアと韓国がともに勝利。かつ韓国は日本の得失点差を上回る3点差をつけて勝利していた。そうした状況で迎えていたロスタイム、ほぼラストプレーとも言えるイラクのCKから、オムラム・サルマンにヘディングでゴールネットを揺らされ、日本は土壇場でW杯出場を逃したのだった。
この「ドーハの悲劇」から20年、解説者のセルジオ越後氏に今改めて思うことを語ってもらった。
「僕はあの時、現場にいた。オムラムのゴールが決まった瞬間は、しばらく記者席から誰も動けなかったね。本当に残り数秒というところで失点してしまったわけだけど、時間を稼ぐべきところで稼がなかったり、そうした経験不足は否めなかった。ただ、みんなあの1試合が『悲劇、悲劇』って言うけど、あの1試合だけじゃなくて、最終予選を通じて取るべきところで取らなかったり、そういうチャンスロストはたくさんあったんだよね」
「何より、みんなが忘れてしまっているのは、アメリカ大会は24カ国の枠しかなかったということ。あの当時の日本のレベルが低かったから行けなかったというより、単純にアジア2枠の中に入れなかったんだ。今は32カ国で、アジア枠が4.5になっているから当たり前のようにW杯に行っているけど、今でも24なら行けるかどうか分からないよ。例えば最終予選をグループ2位で突破した南アフリカW杯は行けなかったことになる。だから、20年前の今日を『悲劇だ、悲劇だ』とことさらに美談にしてもいけないし、あれからものすごく強くなったと錯覚してもいけないと思うね」