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負ければ負けるほど、離れられなくなる|細江克弥

2020.02.19

[写真]=Getty Images

「好きだ」なんて簡単に言える言葉じゃないけれど、やっぱりJリーグが好きだ。特にJ2が好きだ。とりわけジェフユナイテッド千葉が好きだと、こうなったらもう、声高に言ってしまいたい。

 だけど恥ずかしながら“好き歴”は浅い。


 1979年に生まれた。いわゆる黄金世代だ。あまりにも刺激的な1990年は小学5年生だった。生まれて初めての夜ふかしでむさぼり見た6月のワールドカップ。直後の7月にはブラジルからカズが帰国し、「俺の名前もカズヨシ」と自慢する1学年上のキャプテンにひどく嫉妬した。その反骨心だけで日産FCファンクラブに入会し、「木村和司こそマイヒーロー」と豪語しながら部屋に“読売クの24番”のポスターを貼った。

 12月は国立競技場でトヨタカップを観た。前年も日本にやってきたACミランとオランダトリオのカッコよさをまじまじと見せつけられた。しばらくは「ライカールト!」と叫びながら学校でボールを蹴った。W杯もミランもイタリアだった。カズはブラジルから帰ってきた。世界はすごい。本当のサッカーは海の向こうにある。この1年間でズバーンと“世界のサッカー”に心を射抜かれてしまった僕は、たぶんかなりの早熟型だったに違いない。

 Jリーグが開幕した1993年は中学2年生だった。でもJリーグがどれだけ華やかに盛り上がっても、日本代表がドーハの悲劇に直面しても、いまいち“日本のサッカー”に熱が入らなかった。

 なぜならウチにはWOWOWがあった。“皿洗い100回券”と交換した“衛星中継”で見るセリエAの面白さはハンパじゃなく、1994年にカズがジェノアに加入すると興奮は倍増した。この頃になるとJリーグは、僕にとって「あまり面白くないサッカー」でしかなかった。

 それからずーっと時間が流れて、真剣にJリーグを見るようになったのはこの仕事に就いてからさらに数年後のことだ。2007年、『Jリーグサッカーキング』の創刊編集部にいた僕は“担当クラブ”の一つとしてジェフ千葉を追うことになり、初めてのものに触れるソワソワ感を抱きながら羽生直剛のインタビューに臨んだことをよく覚えている。

 で、初めて面と向かって話したJリーガーである羽生があまりにも素晴らしい選手だったから、そのままジェフ千葉にのめり込んだ。同学年の彼は、普通なら走れない時間帯に、普通なら走れないスペースに、普通なら走れないタイミングとスピードで迷いなく走り切るとんでもない選手だった。単純に、目の前で見たJリーガーたちは思っていたよりもずっとサッカーがうまかった。

 いろんなことがあった。2008年は奇跡の残留。2009年はJ2降格。それからずっとJ2。昇格プレーオフで散ること、2012年から3年連続。2017年もそう。2018年は14位。2019年はついに17位にまで沈んだ。上がれそうで上がれず、監督を替え、選手を入れ替え、繰り返された「今年こそ」の意気込みは一つも実っていない。

 ずいぶん多くの選手のプレーを見た。ずいぶん多くの選手と話した。みんなそれぞれに素晴らしい才能の持ち主で、人としても魅力的だった。しかし彼らが真剣に力を合わせてもチームとしての目標は達成されず、無念とともに彼らはチームを離れた。そうして丸10年。“J2時代”のすべてを知るのは、僕を含めた何人かの(粘り強い)メディアの皆さんと何人かのスタッフ、それから(さらに粘り強い)サポーターしかいない。

 僕は忘れない。J2降格が決まった2009年11月8日。福元洋平は“早すぎるタックル”でジュニーニョにあっさりと突破を許し、そのたった1つのミスを心から悔やんでいた。「気持ちが焦ってしまった。僕があそこで滑らなければ」と涙した彼の顔が、今も頭から離れない。同じ顔を見せたのは福元だけじゃない。喜びと同じように、悔しさもまた「好き」を倍増させる。だから逆説的だけれど、負ければ負けるほど離れられなくなる。

 週末、スタジアムの記者席に座る僕は気を静めてドライな自分を演出する。ゴールが決まってもガッツポーズなんてしない。キャーともワーとも言わずにちょっとだけニヤリとしながらキーボードをたたく。で、帰りの車中で一人になると、ようやく本当の自分に戻って思いの丈を吐き出す。

「また負けたよ」、「何やってんだよ」、「あーーーあ!」

 子どもの頃には想像もできなかったけれど、そんなわけで、やっぱりJリーグが好きだ。「今年のジェフはマジでやるかもよ」と、僕はまた今年も言いふらしている。

文=細江克弥

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