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浦和レッズとOBとの幸福な関係…「開花」したアスリートのセカンドキャリア

2019.04.19

浦和レッズOBの東海林彬さん。現在は東武動物公園で庭園管理士として働いている

 2016年、東武動物公園。新プロジェクトのメンバーが事務所の一室に集められた。開園35周年記念事業の一環として動物園、遊園地、プールに次ぐ新たな集客の目玉「ハートフルガーデン」の立ち上げがメンバーに課せられた使命だった。

 プロジェクトチームに入った東海林彬(とうかいりん あきら)は、ハートフルガーデンにふさわしいバラを探していた。そしてある時、浦和レッズが育種に携わったバラ「REDS ROSE(レッズローズ)」の存在を知り、居ても立ってもいられなくなる。

「REDS ROSEをどうしても入れたいです!」。東海林は会議の場で何度も訴え続けた。かつて選手として浦和に在籍していた彼にとって、絶対に実現させたい構想だったのだ。

強烈なインパクトを受けた地鳴りのような声援

 1983年生まれ。出身は埼玉県東部の杉戸町。日光道中の江戸から数えて5番目の宿場として古くから知られる町で東海林は育った。Jリーグヤマザキナビスコカップ(現JリーグYBCルヴァンカップ)が初めて開催された1992年、小学3年生の時に地元の杉戸倉松サッカースポーツ少年団でサッカーを始める。

 杉戸町立広島中学校に進学してサッカー部に入部する。その頃は浦和の試合をスタジアムで一度も見たことはなかったが、中学1年生の時、練習見学に誘われた。

「母親の友達がレッズを応援していて、大原(サッカー場)まで連れて行ってもらい練習を見学したんです。(土田)尚史さんや田北(雄気)さん、岡野(雅行)さんと一緒に写真を撮ってもらったりして、Jリーグへの憧れを抱きました」

 中学卒業後、春日部市にある埼玉県立庄和高校のサッカー部に入った。ポジションはFWで埼玉県国体選抜の候補に選ばれたこともあったが、「プロになるという選択肢は自分の中になかった」と当時を振り返る。小学校から高校まで強豪校に在籍したことは一度もなかった。

 しかし、3年生の夏に転機が訪れる。浦和の強化部でスカウトを担当していた落合弘(現浦和レッズハートフルクラブ キャプテン)の目に留まり声を掛けてもらったのだ。その時初めて「もしかしたらプロになれるかもしれない」と将来の姿を意識した。

 落合から招待を受けて、ずっと見たいと思っていたJリーグの試合をその時初めて観戦する。2001年、会場はさいたま市駒場スタジアム(現浦和駒場スタジアム)だった。

「サポーターの声援が地鳴りのようで、とにかくインパクトが強かった。そこで初めてこんなところで試合ができるのかと実感しました。強豪校の選手なら大勢の観客に囲まれて試合をした経験があるかもしれませんが、僕にはそうした経験がゼロだったので足が震えてビビりましたね」

サテライトリーグで7試合に出場

 2002年、東海林は赤いユニフォームに袖を通した。期待と不安を胸にプロの世界に飛び込んだ。

 同期の新加入選手は平川忠亮、山根伸泉、坪井慶介、堀之内聖、三上卓哉、小林陽介、南祐三、長谷部誠、徳重健太。その中で俊足を生かして点を取るタイプのFWだった東海林は「岡野二世」と新聞で報じられたこともある。しかし、浦和で過ごした一年について「生きた心地がしませんでした。正直、自分の中では地獄でしたね」と本音を漏らす。

「実家から離れて寮で共同生活をするのは初めてで、周りはレッズユース出身とか高校年代の日本代表候補とかユニバーシアード日本代表で世界を制したとか。サッカーを中心にした生活が当たり前の人たちの中にポンと放り込まれて、なじめなかったですね」

 新監督のハンス・オフトはシーズンが始まると選手を2グループに分けた。トップチームは大原で、サテライトチームは農大グラウンド(現レッズランド)で練習に臨んだ。東海林は選手寮と農大グラウンドを往復する日々を過ごした。

「落合さんには練習でもよく僕のプレーを見ていただきました。日頃から生活に関して指導を受けたり、日記を交換し続けたり、いつも気にかけてくれましたね。一番悔しかったのは、友達がサテライトの試合を見に来てくれたのに結局出られなかった時。自分が情けなくて初めて悔し泣きをしました。それは今でも印象に残っていますね」

 サテライトリーグで7試合に出場したもののJ1での出場機会はなく、ファン・サポーターや落合の期待に応えることはできなかった。最終的に契約更新は見送られ、わずか一年でプロ生活に終止符が打たれる。

「正直ホッとしました。そんなこと言ってはいけないとは思いますが……。逃げ出したかったんです。足の速さを評価していただいてスカウトされたのに、その一年で“走り切った”実感が一度もありませんでした」

 クラブは若い東海林の将来を案じて県内企業への就職を斡旋したほか、他クラブでの再挑戦も勧めた。しかし、19歳の東海林はその提案をすべて拒んだ。サッカーから離れて地元に帰り、ゼロからやり直す決心をすでに固めていた。

くっきり浮かび上がったエンブレム

 その翌年、東武動物公園を運営する東武レジャー企画株式会社の求人を見つけて応募した。東武動物公園のある宮代町は、生まれ育った杉戸町の隣町だ。なじみのある地元で東海林は小さな一歩を踏み出した。

 動物が好きで飼育員になりたいと思っていた。しかし、最初は遊園地のオペレーターやメンテナンスを任された。その後、修繕や植栽、清掃関連の部署を経て、35歳になった現在は庭園管理士としてハートフルガーデンで植物の生育に目を配る。

「REDS ROSEをどうしても入れたい!」と主張した東海林の望みは意外な形で実現する。浦和で同期だった三上の勤務先がREDS ROSEの生産者とつながりがあり、打診したところ入手できることになったのだ。現役時代にお世話になったクラブスタッフとも調整を重ね、昨年5月にはハートフルガーデンでREDS ROSEの植樹イベントを実施した。地元のサッカー少年団を招いて、浦和のマスコットキャラクターであるレディアも登場して盛り上がり、初めての試みは成功を収める。

 植樹イベントの準備をしていた時、新たにもう一つのアイデアが頭に浮かんでいた。「花でレッズをイメージするデザインができるんじゃないか?」。時期によって模様を変えるキャンバスガーデンにレッズのエンブレムをデザインするという斬新なアイデアだった。東海林はすぐに図面の作成に取り掛かり、植樹イベントの当日、クラブスタッフに意見を求めた。「これはすごい!」という返答に手応えを感じ、実現に向けた協力の申し出を受け、すぐに花の選定を進めていく。

 昨年11月。ハートフルガーデン内のキャンバスガーデンにビオラの花が咲き誇り、浦和のエンブレムとハートの12がくっきり浮かび上がった。霜が降りる1月、2月の休眠期を経て、3月末から4月上旬にかけて再び見頃を迎えると、ファン・サポーターの間でも話題となる。ユニフォームを着て写真を撮るお客さんを頻繁に見かけるようになった。

恩師にかけてもらった、うれしかった一言

東海林を浦和にスカウトした落合弘氏。現在は浦和レッズハートフルクラブのキャプテンを務める

 この一年でクラブと東海林の距離はさらにぐっと縮まった。昨年9月には浦和レッズOBチームの一員として大宮アルディージャOBとの試合に出場を果たす。「レッズをとても身近な存在であると感じますね。いろんなところでご協力いただいたり、こちらから花を提供したり。もう二度と会えないと思っていた方たちと一緒にお仕事をさせていただけるとは……。すべてが劇的に変わった一年でした」

 今年3月。杉戸町。ハートフルガーデンを担当する東海林はハートフルクラブのサッカー教室で落合と15年ぶりの再会を果たす。偶然にも現在の二人は「ハートフル」の活動に全精力を注ぐ日々を送っている。東海林がクラブとの取り組みを恩師に報告すると「おまえ頑張ってるな」と言葉をかけてもらった。何気ないその一言がうれしかった。

「当時は落合さんや池田太コーチから基本が大事だとたたき込まれました。今の仕事もサッカーと同じで、基本ができていないと結果が出ません。花は正直なので夏場の暑い時に水やり作業を怠るとすぐにしおれてしまいます。面倒な作業を怠ると必ずしっぺ返しが来るんですよね。当時教わったことが時を経て今の仕事にも生きている実感があります。17年たってやっと分かりました」

 東海林は今日も花と向き合う。いつも“一生懸命”に、“楽しむ”気持ちで、“思いやり”を忘れずに。落合がハートフルクラブでサッカーの技術以上に子どもたちに熱く伝え続けているメッセージは、OBの胸にも刻み込まれている。

 5月下旬になれば少年団の子どもたちがローズガーデンに植えたREDS ROSEが見頃を迎える。キャンバスガーデンに植えられた花はいったん役目を終えて別の模様となり、エンブレムが再び登場するのは冬ごろを予定しているという。

「現役時代に花開くことはなかったけど、今はたくさん花を咲かせています」

 園内の小路を歩きながら東海林がほほえんだ。満面の笑みがまぶしかった。

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