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【インタビュー】あれから18年。山口素弘が語る横浜フリューゲルスと国立競技場の思い出とは(前編)

国立競技場でプレーする山口素弘 [写真]=Getty Images

 今から18年前、ある強豪Jリーグクラブが消滅するという出来事が発生した。若いサッカーファンの中には、その事実を、そして消滅を余儀なくされたクラブの名前をご存じない方もいるかもしれない。

 そのクラブは横浜フリューゲルス。1993年のJリーグ発足当初から参加していた「オリジナル10」の一つであり、1994年元日に天皇杯優勝、翌1995年にはアジアカップウィナーズカップとアジアスーパーカップ制覇を達成するなど、タイトルにも恵まれた。前園真聖や三浦淳宏(現・淳寛)、楢崎正剛(現名古屋グランパス)、遠藤保仁(ガンバ大阪)と、後に日本サッカー界をけん引する有力選手が集い、またジーニョやサンパイオといった現役ブラジル代表も所属。日本サッカーの発展に一役も二役も買っていた強豪だった。

 しかし、今からちょうど18年前の1998年10月29日、何の前触れもなく、突如としてフリューゲルスと横浜マリノスの合併案が発覚。「合併」とは名ばかりの、事実上のクラブ消滅だった。

 消滅が決まった後の横浜Fの戦いぶりには、誰もが胸を打たれた。特に天皇杯では「敗れた時点でクラブ消滅」というギリギリの状況下で、一つになったチームは破竹の勢いで勝ち進んでいく。そして1999年1月1日、国立競技場で行われた決勝で清水エスパルスを下し、見事に有終の美を飾ったのである。日本サッカー史上、最も悲しいタイトル獲得。これを持って、横浜Fの歴史に終止符が打たれた。

 当時のチームでキャプテンを務めていたのが、日本サッカー協会技術委員会強化部会員でサッカー解説者も務める山口素弘氏だ。クラブが消滅に進む激動の流れの中、果たして彼は何を思い、どのような心理状態で試合に臨んだのか。そして決勝の舞台となった国立競技場で、どんな風景を目撃し、どんな思い出を回顧したのか。今回は山口氏と国立競技場の思い出、そして横浜Fがフィナーレに至る舞台裏を語ってもらった。

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写真=瀬藤尚美、Getty Images

 1964年の東京オリンピックの競技会場として建設された国立競技場は、日本サッカー界にとっても“聖地”だった。天皇杯決勝を始め、全国高校サッカー選手権や日本代表戦、トヨタカップ(現FIFAクラブワールドカップ)など、様々な決戦の舞台となった。山口氏にとっても、国立は夢の舞台であり、また数々の思い出が詰まった場所だったようだ。

――最初に国立に行ったのはいつ頃のことですか?

山口素弘(以下、山口) 小学5年生か6年生の時に、トヨタカップを見に行ったのが最初ですね。カードは詳しく覚えていないんですが、ノッティンガム・フォレストが出場した大会(1980年の第1回大会)の、その後ぐらいだったので、大会は初期から見ていました。トヨタカップ以外に、冬の高校選手権も見に行きましたし。

――では、初めて国立のピッチに立ったのは?

山口 初めて立ったのは、高校選手権の開会式(第65回大会)ですね。緊張しましたよ。選手宣誓したんだから。

――それは貴重な経験ですね。抽選で引き当てたんですか?

山口 引いちゃったんですよ(笑)。自分で引いて、1番くじ。「おめでとうございます」と言われて、最初は何のことかよく分からなくて。そうしたら選手宣誓だと言われて。「やっべーぞ」と(笑)。

――選手宣誓の文言はご自分で考えたのですか?

山口 自分で考えましたけど、気の利いたセリフは言えませんでした。

――その大会では、国立で試合をしたんですか?

山口 それがしていないんですよ。あの頃は開幕戦の会場が国立ではなく、準決勝と決勝だけでしたから。実際に試合でピッチに立ったのは大学に入ってから。インカレ(全日本大学サッカー選手権大会)の決勝が最初でした。

――その時のピッチはどんな景色でした?

山口 お客さんは全く入っていませんでしたが、最高でした。ずっとスタンドから見続けてきた場所でしたからね。

山口氏もプレーした国立競技場 [写真]=Getty Images

山口氏もプレーした国立競技場 [写真]=Getty Images


 前橋育英高の一員として初めて国立のピッチに足を踏み入れ、選手宣誓という大役もこなした山口氏。卒業後は東海大に進学して再び国立の芝生に立ち、インカレで優勝するなど、彼にとって国立は華やかな舞台であった。そして大学卒業後の1991年に全日空へ加入。93年にJリーグが開幕し、全日空が横浜Fに変わると、山口氏は不動のボランチとしてチームを支えていくことになる。

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全日空時代から9年間にわたって横浜Fでプレーした山口素弘氏 [写真]=Getty Images

――全日空への加入後、国立で試合をしたことは覚えていますか?

山口 日本リーグですね。相手は思い出せないんですが、すごく雪が降る中で試合をしたことを覚えています。観客は200人くらいしかいなくて、しかもそのうち半分くらいは家族や社員といった知人。日本リーグ時代はそんな雰囲気だったので、プロになった時のインパクトは強烈でした。

――当時の全日空から横浜Fの監督は加茂周さんでした。選手から見て、加茂さんはどんな監督だったのでしょうか。

山口 怖かったです。でも、すごく周りに気を使うし、気配りされる方でしたよ。共通の話題を見つけて話そうとしていました。先日、斉藤俊秀(現U-16日本代表コーチ)とキャンプ視察をした時も、そういう話になりました。端から見ると怖いんだけど、お会いするとすごく優しかったって。印象が違ったと言っていました。

――言える範囲で、怖かったエピソードを教えてください。

山口 日本リーグ時代なんですが、判定に納得がいかなくてレフェリーにつかみかかったことがありましたね(笑)、西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)の試合で本当にひどい判定があったんです。僕らのゴール前で自分たちがファウルを受けたんですが、相手チームが間違えてリスタートしてしまい、その流れからゴールが決まったのをレフェリーが認めてしまったんですよ。それで加茂さんがピッチに中に入ってきて、レフェリーにつかみかかって。その後、何試合かベンチ入り停止になったはずです。あと、Jリーグが開幕してからでは、サンフレッチェ広島との試合で僕たちが結構激しく削られたんですけど、レフェリーがなかなかファウルを取ってくれなくて加茂さんが怒っていたんですよ。そこで「ヤマー!」って呼ばれて「戦術変更かな?」と思って聞きに行ったら、「行けー!」って言われたんですよ。ああ、これは行かなきゃいけないんだと(笑)。「はい」と言って、ガツンと行きました。相手が高木(琢也)さんで、すごく怒ってました。そこで反対に警告をもらってしまいました(苦笑)。

――「言える範囲」ではなかったかもしれません(笑)。では、加茂さんから掛けられた言葉で、印象に残っているものはありますか?

山口 よく「下手くそ」って言われました。褒められた記憶は……ほとんどありませんね(笑)。

 

 1998年10月29日、日本サッカー界に突如として激震が走った。横浜Fと横浜Mが合併し、横浜Fの事実上の消滅が明らかになったのだ。事前通達を受けていなかった選手やサポーターにとっては、まさに「寝耳に水」の事態。日本各地で合併反対署名運動が起こり、選手たちも街頭での活動に参加するなど、横浜Fを消滅させまいと最後まで奮闘し続けた。当時、横浜Fのキャプテンだった山口氏は、選手の代表としてその陣頭指揮を執った人物の一人。当事者が語る当時の状況からは、現場の混乱ぶりが伝わってきた。

 

――横浜Fが消滅すると聞いた時、選手はどのような反応を示したのでしょうか。

山口 とにかく「うそだろ?」って感じでした。

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――山口さんは、どのタイミングでそのことを知ったのですか?

山口 新聞に記事が出る前の日の夜に聞きました。聞いたというか、アツヒロ(三浦淳宏)やマネージャーから電話がかかってきて、「そうなの?」って逆に聞かれたんです。「どうなの? 本当なの?」と言われたんで、「そんなのあるわけないだろ」って話をしたんですが……。朝、起きてスポーツ新聞を見たら、1面に出ていてびっくりした記憶があります。そうこうしているうちに集合がかかって、よく分からない状態でクラブハウスに行ったら、マスコミ関係者の方々がたくさん来ていて。朝のワイドショーでも取り上げられていましたし、最初は「大変なことになっているな」という程度の感覚しかなかったです。

――そこから情報を整理していった感じですか?

山口 情報も整理できなかったです。その時は、当時の社長が事実を読み上げて説明して、文書を配られただけでしたから。選手同士のやり取りもできず、社長は一方的に「こうなったから」と言って出て行ってしまいましたし。

――残された選手の反応はいかがでしたか?

山口 「これからどうなるの?」という感じです。先は全く見えなかったですし、とりあえず午後の練習をどうしようかと。当時の監督だったゲルト(エンゲルス)が「いったん解散しよう。気持ちの整理をつけて、午後、集まれる人は集まってくれ」と言って解散しました。

――午後の練習には、みんな集まったんですか?

山口 そうですね。集まりました。練習も一応やりましたね。すごく暗い雰囲気でしたけど。

 

 選手たちの知らないところで話が進み、突如として発表されたクラブ消滅。心の準備ができていない現場の人間は、ただ戸惑うしかなかった。それでも、彼らはプロとしてできることをやり続けた。とても練習ができるような心理状態ではなかったが、発表があった日の午後に行われたトレーニングにも全員が参加したという。そして山口氏を筆頭に、選手たちは自ら消滅回避への道を模索していく。

 

――チーム存続に向けて、様々な行動を取られたと思います。

山口 何とかならないかと考えて、いろいろ動きました。個人でできることはないのか、チームとして何ができるのか。ミーティングもたくさんしました。

――実際に動いてみて、どんな印象を受けましたか?

山口 「存続の可能性がある」っていう情報が来たり、「やっぱりダメだ」っていう話が届いたり、一日ごとに状況が変わりました。その間に会社側に説明を求めて、全日空の関係者が来たんですが、その方は何も分かっていない感じでした。

――Jリーグは合併を承認していたのでしょうか。

山口 それが当時は分からなかったので、何人かで川淵三郎チェアマン(当時)のところに話を聞きに行きました。

――川淵さんは何と?

山口 川淵さんのところに話が行った時には、すべて決まっていたそうです。全日空と日産の上層部同士が決めてしまったということでした。だから、何ともしようがなかった。その前にエスパルスも危なかった(清水は1997年に運営会社の累積赤字によりクラブ消滅の危機に立たされた)けど、それとはわけが違うということでした。

――選手はサポーターとともに、存続に向けた署名活動を行いました。

山口 練習後に、横浜駅西口のあたりでやりました。それから、他企業にクラブの運営権を譲渡して存続できないかと考えて、企業関係者の方と話し合うこともありました。

――様々な道を模索した結果、やはり横浜Mとの合併は不可避でした。

山口 「もう決まっているから」みたいな感じでした。いろいろ動いていた頃は正式に調印されていなかったので、調印式を一つの目安にして、それが終わるまでは何とかなるだろうと考えて、選手たちも手を打とうとしていました。それでも結果は変わりませんでした。

 

伝説の天皇杯について語った後編はこちら

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