FOLLOW US

シュライカー大阪の“最強指揮官”木暮賢一郎監督のマネジメント術「スタイルにこだわりがないことがこだわり」(前編)

2017.04.12

シュライカー大阪をFリーグ王者に導いた木暮賢一郎監督

 2007年の創設以来、9年間にわたってただ一つのクラブが王者に君臨し続けてきたFリーグ。それまで誰も止めることのできなかったその連覇の歴史が、10年目にして終わりを告げた。

 シュライカー大阪が名古屋オーシャンズに代わって新王者となった。この王位交代は、決して偶然にして起きたものではない。Fリーグにプレーオフができて5年。プレーオフの勝者がそのシーズンの優勝チームとなる中で、現場の選手や監督が最も価値を見出していたのは、レギュラーシーズンで1位になることだった。

 大阪は今シーズン、首位を独走し、リーグ1位となった上でプレーオフで優勝をつかんだ。文句の付けようがないこの結果へと導いた人物こそ、3年前に王座奪還を託された木暮賢一郎監督に他ならない。若手、ベテランを問わず、選手に競争心とプロ意識を植え付け、常に勝利にこだわり、目的に向かってまい進するクラブのアイデンティティまでも構築した。

 では木暮監督は、どのようなアプローチでクラブを高みへと先導していったのか。Fリーグ初制覇、その直後に行われた全日本フットサル選手権の優勝と併せて2冠を達成した“最強指揮官”のマネジメント術に迫る。

インタビュー・写真=本田好伸

■次につなげるために必要なものこそが「結果」

──改めて振り返ると、Fリーグで初優勝を飾り、その2週間後に行われた全日本フットサル選手権で優勝を達成した瞬間はどのような気持ちだったのでしょうか?
木暮賢一郎 リーグ1位が確定してプレーオフを決めた時も、その後の2つの優勝の瞬間も、もちろん嬉しかったです。でも選手の時よりも圧倒的に、冷静に戻るのが早かったですね。選手が努力を重ね、こちらの要求に応えて戦ってきてくれた分、彼らには喜びを爆発させてほしいですけど、僕自身はホッとしたという感覚でした。

──木暮監督は3年前の監督就任当初、選手に「歴史を変えよう」と伝えたそうですね。
木暮賢一郎 就任初日のオリエンテーションで使ったフレーズです。僕自身は名古屋オーシャンズを引退後にFリーグU23監督をしていましたが、選手からすれば「どんな監督なんだろう」という期待や不安など、いろんな感情があったと思います。そうした時に、選手のモチベーションを上げると同時に、クラブの方向性を示せて、なおかつ分かりやすくインパクトのあるワードが大事だと思っていました。その当時は、深い意味やリーグへの影響ということよりも、まずはクラブや所属選手をこちらに惹き付けることを考えていましたね。でもなぜそのフレーズだったかというのは、現役時代の成功や失敗体験を含め、木暮賢一郎として歩んできた開拓心があったからこそだと感じています。フットサルがまだ世間に知られていないような時代から、新しい扉を開くことで次につながっていくという希望を抱いていましたし、海外挑戦にしても、チャレンジした先に何かがあると。Fリーグの監督になったことで、名古屋しか優勝していない歴史を変えようと。そういうマインドがこれまでの自分を作ってきました。

──大事なのは希望を見出せて、そして次につながっていくということ。
木暮賢一郎 そうですね。その際に必要なものこそが「結果」だと思います。スポーツである以上、結果や内容、クラブ経営など、いろいろな側面で必要なことはありますが、僕がやってきたのは、結果を出すことで認めてもらい、結果を出すことで次のステージに行けるということ。「次のステージ」というのは、給料が上がるとか、ワールドカップに出るとか、大阪で言えばAFCフットサルクラブ選手権に出るとか、人それぞれです。でも次のステージに行くためにはやはり、結果を出さないと何も言えないと思っています。一方で、僕は当然、雇われている立場で、結果を出さないといけないですが、よりアクティブに提案し、作り上げていく部分もあります。それはトップチームだけではなく、サテライトチームやU-18といった育成を含めて、新しいクラブの哲学やスタイルを築くというプロジェクトですよね。僕は幸運にもクラブと良い関係で仕事をやってこれていると思います。

■目標に対するアプローチだけはブレないようにする


──「歴史を変えよう」というプロジェクトは、3年目にして一つのゴールに到達しました。改めて振り返ると、どのような道のりを歩んだきたのでしょうか?
木暮賢一郎 1年目は、監督を引き受けたのが新シーズンの直前だったので、選手の人選などのビジョンが万全ではありませんでした。クラブとは「優勝を目指してほしい」、「育成をしてほしい」といった契約に関する依頼はありましたが、目的を達成するためには選手が必要ですから、その選択肢がなかった状態です。「歴史を変えよう」と言いながらも、正直なところ、準備段階での難しさを感じていました。そうした中で、最適なアプローチは何なのか。優勝するには、「リーグ1位でプレーオフファイナルに行く」ことと「プレーオフ圏内に入って勝ち上がる」ことの2つの手段しかありません。そうなるとまずは、最低限プレーオフ圏内の5位に入る必要がありました。選手には言わないですが、自分の中ではこの「5位以内」がマストだなと。そして、ベテラン選手の見極めと、若い選手にきちんとチャンスを与えながらそこを目指すというところからスタートしました。

──まずは、目標達成のための「軸」を定めるということですね。
木暮賢一郎 その通りです。まだシステムがどうこうという前の段階です。それに実は、僕がやっているフットサルのシステムや戦術は、毎シーズン変わっています。大切なのは最初に立てた目標やプランを達成するためには「勝利」が必要で、そのための方法論にはこだわりはありません。所属する選手やその時々の順位など、状況は刻一刻と変わりますから、そこは柔軟に考えていて、スタイルに固執することはありません。言ってしまえば、こだわりがないことがこだわりかもしれないですね。目標に対するアプローチだけはブレないようにすることと、その方法は極力エラーがないようにすること。これが大切なのではないかなと感じています。

──戦術についてはシーズン途中の変更もありました。1年目は、GKの選手がパワープレーのようにハーフウェーラインまで持ち上がって、常に数的有利な状況を作る戦術にも着手していました。
木暮賢一郎 あのシーズンの最大の決断はそこでしたし、これは結果論ですが、それがあったからこそ今につながっていると考えると良い決断だったと思います。もちろん、その決断の何割がプレーオフファイナルまで行けた要因かは分からないですが、そこまで到達できたことが大きかった。フットサルを始めて半年しか経たない田村(友貴)や、シーズン途中に地域リーグから加入した加藤(未渚実)、サテライトに所属しながら特別指定選手としてプレーした水上(洋人)、その年の新加入選手で名古屋では出場機械のなかった森(秀太)、同じく府中アスレティックFCでは出番の少なかった稲田(瑞穂)は、それまでのリーグで大物だったわけではありません。若い選手や新たにチャレンジさせたい選手が、あのプレーオフを経験して、勝つために必要なことを学び、勝ってその舞台に行かないと出会えない景色を見れたことが、2年目、3年目につながる確信はありました。

──経験を積ませる意味でも、勝つことが必要だったということですね。
木暮賢一郎 若い選手や経験のない選手を使うこと自体は簡単です。でも僕は、常に責任を持ってやりたいので、「若手を使っているから良い」とか「ベテランを使わないから悪い」とかではなく、勝つことを意識しました。もちろん、選手起用などはクラブの要求も含めてのものですが、何よりも結果を出すことが一番の責任だと思います。新しいプロジェクトが始まり、ブレないものがあって、それを成し遂げる過程を見ることができた上に、ファイナルという景色を見れた。間違いなく次のステップになるだろうというものを共有できたことが、選手やスタッフ、スポンサーなどを含めたクラブの財産です。あれでもし6位だったら、今回の優勝はなかったと思います。クラブとは、「プレーオフに絶対に行くから、2年目は予算内で何人かの選手を獲得してほしい」と話していましたが、もしかしたら結果によっては実現できなかったかもしれない。クラブが自分を信じ、評価してくれたからこそ2年目の選手獲得につながったと思いますし、結果を出して次のステージへと向かえた1年だったなと。

■理想通りにはいかなくても重要だったシーズン


──木暮監督の契約自体は3年契約だったのでしょうか?
木暮賢一郎 1年契約プラス、オプションでした。ただし、確約はされていないものの、トータルで3年間を見ながら成し遂げようという話はしていました。ですから、3年くらいのスパンをあらかじめ想定していましたね。

──そして2年目に選手編成にも着手できましたが、その他にもクラブに要求していたことはありますか?
木暮賢一郎 二部練習を実施したいということは要求し続けていました。これは当然、スクールなど選手の仕事の調整や、慣れないことに対する選手の感情も出てきますから、簡単ではありません。でも結果的には、2シーズン目のプレーオフの目前に導入して、そこでヒアリングをしながら、今シーズンは週に1回だけですが、二部練習を継続的に実施できました。

──2年目のシーズンは、レギュラーシーズンこそ1年目の5位から4位と順位を上げましたが、プレーオフでは2nd Roundで府中に敗退してしまいました。それでも目標に近づいたシーズンだったと感じていますか?
木暮賢一郎 シーズン前にアルトゥールと小曽戸(允哉)を獲得しましたが、小曽戸は開幕戦で骨折して手術をすることになってしまいましたし、選手のケガで理想的なプラン通りに進められない部分はありました。それでも元々、田村や加藤といった1年目の終盤に“シンデレラボーイ”となった選手は、初めてシーズンを通して戦うことになりますし、ある程度は苦しむだろうという想定がありました。そうした中で、失点も多かったですが、一方ではゴール数で名古屋よりも多くの数字を挙げることができましたし、手応えを感じていました。3年目に、過去の2年間を分析し直した上で、本当に歴史を変えるところから逆算してプランを練り上げるための材料として、2年目のシーズンも本当に重要だったと思います。

──常にベストメンバーを組めない中で、安定感のある戦いを継続できなかった印象です。
木暮賢一郎 オフェンスのシステムでもチャレンジをしたことが、結果的にリーグで一番の数字を出すベースになりましたが、確かに安定感はなかったなと。それに、2年目の一つの大きな決断としては、ゾーンディフェンスのシステムを変えたことです。1年目が、足りないところを補うことで持っている力以上の結果を出せたシーズンだとすれば、2年目は、ケガを含めて、本来いるべきところに自分の力不足で導けなかったシーズン。良い選手を獲得してもらい、期待値が高まっていた中での結果としては1年目とは真逆で、物足りない。「理想と現実」を味わいましたね。

* * * * * * * * * *

 過去2年の成功と失敗を経験し、満を辞して臨んだ3年目。木暮監督は何を考え、実行していたのか。後編に続く。

By 本田好伸

1984年10月31日生まれ。山梨県甲府市出身。日本ジャーナリスト専門学校⇒編集プロダクション⇒フットサル専門誌⇒2011年からフリーとなりライター&エディター&カメラマンとして活動。元ROOTS編集長。2022年から株式会社ウニベルサーレ所属。『SAL』や『WHITE BOARD SPORTS』などに寄稿。

SHARE

木暮賢一郎 フットサル指導者向けオンラインサロン


日本フットサルが世界に勝つために木暮賢一郎が考えるフットサル理論や練習方法、トレーニング方法、監督論など、ここでしか見れないコンテンツを配信。選手として日本代表で3人、スペイン時代に5人、名古屋オーシャンズ時代に1人の外国人監督の指導を受けてきた木暮賢一郎。選手としての経験と自らが監督になってからの経験を踏まえ、フットサル関係者、指導者を目指す人には興味深い話が沢山聞ける。

サロンの詳細、入会方法はこちら

LATEST ARTICLE最新記事

SOCCERKING VIDEO