2018.09.13

【再録】イタリア人の目に映った中田英寿のキャリアを改めて考察する

サッカー総合情報サイト

CALCIO2002特別編集『NAKATA Renaissance』(2009年6月掲載)

ペルージャでの活躍から名門ローマへと移籍を果たし、18年振りのスクデット獲得に大きく貢献した中田英寿。その後も多くのチームでプレーし、イタリア中にその存在を知らしめた。イタリア唯一のスポーツ週刊誌『グエリン・スポルティーヴォ』編集長が、中田とセリエAの関係を、そしてイタリア人の目に映った 日本人選手のキャリアを今、改めて考察する。

マッテオ・マラーニ(グエリン・スポルティーヴォ編集長)

■日本サッカーのイメージを覆した“日出ずる国”からやって来た若者


 約11年前の9月、ヒデトシ・ナカタは我々イタリア人に大きな驚愕を与えた。正確に言うと、彼がイタリア中を驚きの渦に巻き込んだのは、1998年9月13日、セリエAの98-99シーズンの開幕戦だった。

 ナカタを獲得して新シーズンを迎えたペルージャの相手は、前シーズンのスクデットを獲得してこのシーズンも優勝候補の筆頭と見られていたマルチェッロ・リッピ率いるユヴェントス。イタリアの報道陣は誰もが、アレッサンドロ・デル・ピエロやフィリッポ・インザーギがこの日の主役になると予想していたことだろう。多くのイタリア人もユーヴェがペルージャを圧倒すると予想していた。だが、この日、ペルージャのスタディオ・レナート・クーリでの開幕戦で我々イタリア人は新たなスターの誕生、しかも、誰も予期しなかった東洋人のスターが誕生する瞬間を目の当たりしたのだ。ユヴェントスのスター選手たちのプレーがかすんでしまうほどの輝きを放ったのは日本人プレーヤーだったのである。

 ナカタはこの試合でディフェンディングチャンピオンを相手に2ゴールを決めて、イタリア中にその高い能力をアピールした。ペルージャは3-4で惜敗したが、イタリアのマスメディアは“日出ずる国”からやって来たこの若者のパフォーマンスに賛辞を贈った。イタリアは、この日本人選手に大きな好奇心を抱くに至ったのである。

 正直言って、その時点で私はルチアーノ・ガウッチ(当時のペルージャ会長)が獲得した“エキゾチックな選手”、ナカタに関する情報や知識をあまり持ち合わせていなかった。そこで私は、私が編集長を務める『グエリン・スポルティーヴォ』にも執筆してくれている友人の記者、マルコ・ズニーノにナカタについての評価を求め、ガウッチ会長の息子であるアレッサンドロが、ナカタのワールドカップ・フランス大会でのプレーに魅了されて獲得に至ったという話を聞いた。私も彼のフランス大会でのプレーを高く評価していたが、世界最高峰と言われた(少なくとも当時のセリエAは世界最強のリーグだった)イタリアのリーグで、通用するとは思っていなかったというのが本音のところである。

 それまで、セリエAでプレーした日本人選手はただ1人。94-95シーズン、ジェノアでプレーしたカズ・ミウラだけである。ミウラはサッカーに関して目の肥えたイタリア人を納得させるようなプレーを見せることができなかった。ジェノヴァ市民が最も重要だと見なしているジェノヴァ・ダービーでゴールを決めたことは評価できる。だが、彼がカルチョの歴史に名を刻むような活躍をしたかと問われれば、「ノー」と答えざるを得ない。率直に言って、ミウラはセリエAで成功できるだけの資質を持ち合わせていなかった。私の心配はナカタがミウラの二の舞いを演じるのではないか、ということだったのである。

 幸いにも、私の心配は杞憂に終わった。ナカタのテクニックはミウラのそれをはるかに上回っていた。彼はピッチで、優れた攻守のバランス感覚と、チームにリズムを与える能力を持っていることを証明して見せたのだ。そのプレースタイルは、私が、いや我々イタリア人が、日本サッカーに描いていたイメージを完全に覆すほどエレガントなものであった。中盤にポジションを取りつつ、積極的に攻撃に絡むタイプの選手であり、パスのフィードだけでなく、強烈なシュート力と視野の広さを兼ね備える選手というのが、初戦のユーヴェ戦を見て私が抱いた印象だった。

■インタビューを通して感じた中田の人間性


 ユーヴェ戦の90分間のプレーを見て、ナカタが高い潜在能力を有した選手であることを確信した私は、彼のことをもっと知りたい、彼の人間性を含めてすべてを掘り下げたいと思った。ただちに、イタリアで最も有能な代理人の一人であり、当時、ナカタのイタリア国内での代理業務を担当していたジョヴァンニ・ブランキーニと連絡を取り、インタビューを申し込んだ。そしておよそ1カ月後、ヒデトシ・ナカタのインタビューが実現した。当時のナカタは家を借りることなくペルージャ市内のホテルで生活しており、インタビューはそのホテルで行われたのだった。

 ナカタと共通の時間を有したあの日の午後のことを、長い年月が経過した今でも、はっきりと記憶している。まだイタリア語を自由に操れないヒデには、通訳兼マネージャーとしてマウリツィオ・モラーナ氏が付いていた。モラーナ氏は、私の記憶に間違いがない限り、その後、ローマやパルマでもナカタと行動をともにしていたはずだ。ペルージャに来て間もない頃のナカタのインタビューの多くは、モラーナ氏が通訳を務めていたはずである。もっとも、ナカタが通訳を必要としていたのはペルージャでの最初の1年間だけ。後に、何度かテレビのサッカーニュース番組で彼のイタリア語を耳にしたが、語彙の豊富さと正確な発音には感心させられた。イタリアでプレーする外国人選手のイタリア語コンクールなんていうものがあったら、私は間違いなくナカタに1票を投じていただろう。

 インタビュー中に何よりも印象的だったのは、当時21歳だった若きナカタがとても控え目であったということ。シャイと言っても過言ではないくらいだ。「喋る」というより「囁く」という感じだった。そしてもう1つ印象的だったのが、非常に好奇心が強かったということだろう。ヒデは、私の質問に答える以上に、私がそれまでインタビューしてきた数々のカンピオーネたちについて、いろいろと聞いてきたのだ。

 また、インタビュー中のナカタが他人に対して見せる警戒心の強さの裏に、国民的スターである若者の苦悩を垣間見たような気がした。彼が生活するホテルの外には常に数十人の日本人記者とカメラマンが“張っている”となると、自分の心を解放するなんて気分になれないのも無理はない。言葉の壁や本人の警戒心が強かったということもあり、自分としては満足のいくインタビューができなかった。だが、雑誌に掲載されてすぐ、日本からの連絡や問い合わせが殺到したことは大きな驚きだった。後で聞けば、当時ナカタのインタビューを取ることは、日本人記者にとっては至難の業だったとのこと。ロナウドのインタビューをした時もブラジルのマスメディアが大騒ぎするようなことはなかったのだから、私にとってその反響は予想もしなかったことだ。かくして、私は、ナカタは日本人にとって特別な存在なんだということを認識したのである。

 ナカタの選手としての才能はともかく、我々イタリア人にとって興味深かったのが彼を取り巻くその環境だろう。ナカタの行くところ、どこでも付きまとう日本人報道陣の群れは、イタリアメディアにとって異様な光景だった。彼は報道陣に囲まれることを忌み嫌い、自分1人がスターとして特別扱いを受けるのを嫌っていたのである。ナカタは、自分はチームの一員でありチームメートと同等である、と言いたがっていたのだろう。他のチームメートと同様にロッカールームの共通の規則に従っていた。彼はペルージャだけでなくヨーロッパでプレーしていた間ずっと、特別な「個」としてではなく、「グループの一員」として扱われることを望んでいたのである。

■ナカタはロマニスタに1つの“忘れることができない夜”をプレゼントした

 ナカタはペルージャの1シーズン半で47試合に出場し、12ゴールをマーク。その活躍をビッグクラブが見逃すわけがなく、彼は00年の冬のマーケットの主役となった。多くのクラブがナカタに興味を示す中、ペルージャとの良好な関係を利したローマがナカタを獲得。ナカタは、その後の優勝に大きな貢献をするに至るのである。

 セリエAのビッグクラブへの入団においても、この日本人プレーヤーは堂々としていた。フランチェスコ・トッティとガブリエル・バティストゥータが君臨するチームに臆することなく、積極的な姿勢でローマになじんでいったのだ。さらには00-01シーズン終盤の天王山とも言えるゲームでは決定的な仕事をやってのけた。あのペルージャの夏から3年近くが経過した01年5月6日、ナカタはまたしてもユヴェントスに牙をむいたのだ。

 ローマとユーヴェが1位と2位で迎えるゲーム、スクデット争いに直接影響を及ぼすビッグマッチで、ユーヴェは序盤の6分間で2得点を挙げ余裕のリードを保っていた。なかなかゲームの流れを変えられないローマ。そこでファビオ・カペッロ監督は、後半15分に大胆なギャンブルに打って出る。ローマのキャプテンであり、象徴でもあるトッティを下げてナカタを投入したのだ。この試合の直前には外国人選手に関する規則が変更されたばかり。外国人選手を同時に4名起用してもいいという新ルールを踏まえて、指揮官はナカタ起用に踏み切ったのである。

 ナカタは見事にカペッロの期待に応える活躍を見せた。まず、ペナルティーエリア外から強烈なシュートを見舞って反撃ののろしとなる追撃弾。さらに、その11分後に再び強烈なシュート。相手GKエドウィン・ファン・デル・サールが弾いたボールをヴィンチェンツォ・モンテッラが押し込んで同点とし、負け試合を引き分けに持ち込んだのだ。その夜、ローマは貴重な勝ち点1を挙げてクラブ史上3度目のスクデットに王手をかけた。長年スクデットから遠ざかっていたロマニスタにとって、スクデット獲得に大きく近付くアウェーでの引き分けは、ナカタからの最大の贈り物のように感じられたはずだ。ナカタはロマニスタに1つの“忘れることができない夜”をプレゼントしたのである。

 トリノのスタディオ・デッレ・アルピにおけるパフォーマンスは、ある意味、ナカタのイタリアにおける最高の瞬間だったとも言える。シーズンが終わるとともにパルマに移籍したヒデは、コッパイタリア優勝に貢献したものの、ペルージャ、ローマ時代の華やかさには及ばなかった。パルマでの01-02、02-03シーズンは決して悪くはなかった。最初のシーズンは24試合に出場、1ゴールを記録。2シーズン目は31試合に出場して、4ゴールを決めた。だが、3シーズン目、ナカタは苦戦を強いられることになる。ポジションを固定されたことでリズムを失い、1月にボローニャに移籍することとなった。ボローニャ加入後はペルージャ時代を思い出させるかのような素晴らしいプレーを披露。17試合2ゴールという記録は平凡ながら、チームをセリエB降格の危機から救った。翌シーズンはフィオレンティーナに移籍。最終節までセリエA残留のための熾烈な戦いに巻き込まれたチームの中で、20試合に出場して(セリエAでの総出場試合数は182)、チームのA残留に少なからず貢献した。しかし、種々の故障で戦線離脱、あるいは、ベンチスタートを余儀なくされたのもこの頃である。そして彼は、7年以上もいたイタリアを去り、ボルトンでイングランドサッカーに挑戦する決断を下した。しかしながら、ナカタはボルトンでも20試合出場1ゴールと満足できる結果は残せていない。ペルージャやローマ時代のナカタの片鱗はうかがうことができず、はつらつとしたプレー、相手DFを欺くかのような予期せぬプレーは見られなかった。

■イタリアのライフスタイルへの順応と周囲に抜きん出ないように気を使う人間性


 多分、この頃のナカタは、サッカーそのものより、サッカーを取り巻く世界に嫌気が差していたのではないだろうか?

 多くの長所を持ったナカタの中に、あえて1つ、短所を指摘しろと言われたら、私は彼の性格を挙げるだろう。少なくともイタリアにいる間、彼にはリーダーになり切れない何か特別な原因があった。いや、リーダーにはなりたくないと思っていたかのようにも見える。いずれにしても、リーダーではなかったことと、リーダーになりたいと思わなかったことが、彼がさらなる高みに到達することを妨げたと言えるのではないかと思う。

 彼はイタリアサッカーの頂点に達するだけの資質を持った選手であったと私は確信している。だが、必要以上の自己主張を嫌う彼は、セリエAで最高の地点に足を踏み出すことに躊躇したようにも見える。おそらく、日本代表では絶対的なリーダーだったのだろうが、イタリアのクラブではあえてそうなろうとはしなかった。彼は主役の座をトッティやバティストゥータに譲った。チームリーダーの資質を持ち合わせていたのだから、ローマのリーダーになるべきだったが、ヒデはステージの中央から身を引いて脇役でいるという選択をしたのである。彼は他の選手と「違う」存在になることを忌み嫌っていた。だからこそ、あらゆる面で、完璧にイタリア人と同じライフスタイルを実行していたのではなかろうか?

 チームメートの間で流行っている店に足を運び、地中海風の食生活を好み、ミラノのファッショントレンドをチェックしていた。ナカタがこれまでの種々の慣習、伝統を覆すような近代的な思想の持ち主であることも確かだ。だが、だからと言って、グループの先頭に立とうとでしゃばるタイプではない。むしろ、周囲に抜きん出ないように気を使う人間なのだろう。そういう性格が、最後の飛躍を許さない要因になってしまったと私は思っているのだ。

 ナカタという大看板を背負って生きるのが決して簡単なことではないのは分かる。3度目の出場となったW杯ドイツ大会終了直後に現役引退したヒデは、世界中を1人で旅したと聞く。ひょっとしたら、それこそ以前から彼が本当にやりたかったことなのかもしれない。スタービジネスの喧騒から逃れて、1人でゆっくり旅をして自身の人生の価値を感じることが、彼の一番の願いだったのではないかとも私は思えるのだ。

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